聖川世界
ゴゴォ、と音を立てて、大地が揺れた。
だが、すぐに揺れは収まり、辺りは静寂を取り戻す。移動を続けていた無神大陸が止まったのである。
「この辺りならば、近海に銀泡はない。深層十二界が近いため、訪れる者も少なかろう」
第五魔王ホルセフィは言った。
「アノスよ。お主のおかげで、無神大陸は魔王の国盗りから逃れることができた。我らが民、僭主の執事たるロンクルスのことも、どう礼を申せばいいか……」
「まだ助けられたわけではない。流水魔法を覚えなければな」
「それなんだけど、第三魔王ヒースが教えてくれるのよね?」
気になることがあるといった風にサーシャが聞く。
「ああ」
「だったら、わざわざ覚えなくても、第三魔王に《融合転生》を促進してもらえればいいんじゃない?」
確かに、その方が早いだろうな。
だが――
「せっかくの機会だ。銀水聖海の魔王が使う魔法を覚えてみたいだろう」
「そういう理由ね……」
半ば呆れ気味に、サーシャが言う。
答えを予想していたのか、ミーシャは微笑んでいる。
「それと、少々気になってな」
「気になる?」
ミーシャが首をかしげる。
「あの第三魔王ヒースという男、本当に二律僭主との決闘が目的なのかと思ってな」
「裏がある?」
ミーシャが言った。
「……《融合転生》の促進にかこつけて、アノスになにかするってことかしら?」
「あるいは、ロンクルスにな」
無神大陸が深層十二界から出た以上、魔王の国盗りとは無関係になった。
二律僭主に舐められたままでは収まらぬというのはわからぬこともないが、腑に落ちぬ。
少なくとも、誇りを優先して動くような輩には見えなかった。
「じゃ、聖川世界へ行くのは危ないんじゃ?」
「行かねば奴の狙いもわからぬ。怖いならば、お前たちはここで待っていてもよい」
そうからかうように言ってやると、
「冗談でしょ。魔王様が行くところに、わたしたちがいかないわけないわ」
なんだかんだぼやきはするものの、結局臆してはいないのだ。その言葉に同意するよう、こくりとミーシャがうなずいていた。
「行くぞ」
上空に待機させている樹海船に俺とミーシャ、サーシャは転移した。
二律剣に魔力を込め、樹海船を発進させた。
ついでに校章の界間通信にて、現在の状況を魔王列車のエールドメードに伝えておく。
瞬く間に無神大陸の外に出て、船は第三魔王から教えられた聖川世界の位置へと進路を向ける。
さほど遠い距離ではない。小一時間ほど飛べば、見えてくるだろう。
真っ暗な銀海の中、樹海船アイオネイリアは光を放ちながら直進していく。
やがて、目の前に一つの銀泡が見えてきた。
青い水の球のようだ。
樹海船アイオネイリアはその銀泡に降下していく。
中に入れば、そこは無数の川が流れる世界だった。大地だけではない。空には雲が通り道を作っており、そこを水が流れている。
川の流れは縦横無尽で、高いところから低いところへ流れていくといった法則性もない。
大地から山へ、山から雲へ駆け上がり、空を昇る川があれば、地中で渦巻きのように螺旋を描く川もある。
聖川世界、その名の通り、ここには川の流れを妨げるものがない。そういう秩序を持つのだろう。
「待ちくたびれたぞ」
樹海船アイオネイリアの下方に、ゴンドラが見える。そこに乗っているのは鳥仮面をつけた男、第三魔王ヒースであった。
「乗るがいい」
ヒースが魔法陣を描けば、そこにゴンドラが一つ出現した。
「……大丈夫かしら?」
警戒するようにサーシャが言う。
「さてな。なにか企んでいるにせよ、できれば流水魔法を教えてもらった後にしてほしいものだ」
ミーシャとサーシャは視線を合わせ、手を握った。
互いに描いた半円の魔法陣を重ね合わせ、一つの魔法陣とする。
「「《分離融合転生》」」
光輝いた二人の体が溶けて交わるように一つになる。現れたのは長い髪の少女、アイシャであった。
二人はヒースに顔と魔力を知られている。ゆえに、アイシャになることによって正体を隠したのだ。
俺とアイシャは樹海船の外に出て、用意されたゴンドラに乗った。
それはひとりでに進み出し、目の前の雲に流れている川に入った。流れに従い、ゴンドラはみるみる加速していく。
前を行くゴンドラに乗るヒースがちらりとこちらを一瞥した。
「見ない顔の女だ」
「そうだろうな」
短く俺が答えれば、興味をなくしたようにヒースは前を向いた。
「どこへ行くのだ?」
「もう着いた」
ヒースが指をさす。ちょうど、雲の切れ目だった。
その先に見えるのは、色とりどりのオーロラだ。深淵を覗けば、水である。輝く水の粒が空を流れ、オーロラを生み出しているのだ。
「源流の極光。我が聖川世界における、すべての流れの始まり、だ。あらゆる川を遡れば、この極光へ辿り着く」
色とりどりのオーロラは凄まじい魔力を発し、互いに反発し合い、荒れ狂っている。まさに激流といったところか。
「流水魔法の神髄は、魔力を水に、魔法を川とし、その流れを自在に操ること。幾本もの川、支流が集まり、それは大きな大河となる。魔法が正常に働かないのは、それを妨げる原因があるからだ。流水魔法では、その原因が支流となって見える。流れが滞った支流にな」
第三魔王ヒースはそう説明した。
「滞っている支流に水を流してやれば、魔法は正常に働き出す、か」
「聖川世界において、流水魔法を習得するのは簡単だ」
ヒースは全てのオーロラが交わる一点を指す。
「あの源流の極光に身を投じるがいい。その五体に聖川世界の流れを刻み、身をもって秩序を知るのだ」
「……って、あんな馬鹿みたいな激流の中に入ったら、ただじゃすまないわよ……!」
源流の極光を見つめながら、サーシャが声を上げる。
「そうでなくてはならない。我が聖川世界で魔法習得の機会は一度だけ。流水魔法を習得できなければ、源流の極光に飲み込まれ、二度と浮上することはできない。待っているのは確実な滅びだ」
ヒースは当然だと言わんばかりだ。
この聖川世界ではそれが常識なのだろう。
アイシャが横目で俺を見た。サーシャだろう。「これが罠なんじゃないの?」と言わんばかりだ。
その可能性もあるが、このオーロラが聖川世界のあらゆる源流というのは間違いなさそうだ。
ならば、ここにこの世界の秩序の全て、魔法律の全てがある。たとえ罠とて、手っ取り早く流水魔法を習得する機会だ。
「やめておいても構わない。我が世界の住人以外、この源流の極光から生きて戻った者はいない。特に」
ヒースは俺を指さす。
「汝のような力を過信した者には絶対に無理だろう。源流の極光に対抗できると侮るがゆえに、その深淵を覗くことはかなわない」
「面白い」
迷わず、俺はその源流の極光に飛び込んだ。
一瞬にして光が視界を覆いつくす。様々な光だ。赤、青、緑、黄色、紫、白、黒、金、銀――それらは全て激流の如く荒れ狂い、衝突しては、俺の体を押し流す。
無数の流れが襲いかかり、俺を飲み込もうと牙を向いた。
深く、深く、果てしなく深く、この体は流れの渦に沈み込んでいく。浮上しようにも、幾重にも絡み合った複雑な流れは、まるで迷路のように出口を覆い隠す。
そう思考したのも束の間、極光の流れは鋭い刃と化して、右肩に食い込んだ。
どっと血が溢れ出す。魔王の血ですらも、軽減できぬほどの力が、俺の根源を直接斬り裂き、蝕んでいく。
『明日、様子を見に来よう』
激流の中、ヒースの声が頭に響いた。
『それまで生きていたならば出してやる』
それを最後にぷっつりと声は途絶え、身を斬り裂く鋭い流れが俺の右腕を斬り飛ばしていった――