六〇秒の死闘
大魔王ジニア・シーヴァヘルドは玉座に泰然と座り続けている。
構えはおろか、大した魔力も解放していない。
いや、違う。
魔力を解放していないのではない。
魔力が無に等しいのだ。
大魔王ジニアほどの実力者であれば、臨戦態勢でなかったとしても膨大な魔力がこぼれ落ちる。
つまり、意図的に力を抑えている。
あるいは、隠しているのか。
「立つがよい。よもや、そのまま戦おうというわけでもあるまい」
「さてのう」
大魔王は白鬚に触れ、穏やかに微笑んだ。
「もう数千年は立つ機会などなかった。立たせてくれるのかのう、ノアや」
含みを持たせて、ジニアは言った。
その言葉に俺は笑みで応じる。
「仕方のない」
ゆらりと大魔王は指先を伸ばす。
相変わらず、なんの魔力も発していない。
にもかかわらず、彼の指先に闇の光球が出現した。魔法陣すら展開していない。
「《闇黒滅球》」
俺は夕闇に染まった掌を伸ばした。
「《掌握魔手》」
一直線に飛来した闇の光球をつかもうとして、しかし、俺は直前でそれを避けた。
飛んでいった《闇黒滅球》は壁に当たり、大爆発を巻き起こす。並の小世界ならば、それだけ滅亡しかねない威力だ。
「ほっほっほ。賢明じゃのう」
不気味で、朱い魔眼だった。
俺が《闇黒滅球》をつかもうとした瞬間、奴はそれを発動した。
だが、見えぬ。先程の《闇黒滅球》、その朱い魔眼も、大魔王自身からも、未だなんの魔力も感じられない。
「ふむ。大した魔法技術だ」
魔眼世界ゴーズヘッド。その名の通り、魔眼が強く働く秩序を有する。
それゆえ、その魔眼に見破られぬよう魔法技術が練られていったのだろう。さすがは銀水聖海で唯一深淵魔法に到達したと言われる男だ。魔法が深い。これまで戦ったどの者よりも。
俺に奴の魔力が見えぬのは、魔法技術の差が歴然とした存在するからだ。
「《極獄界滅灰燼魔砲》」
魔法陣の砲塔から、終末の火が撃ち放たれる。七重螺旋を描く暗黒の炎は弧を描くようにして、大魔王ジニアに襲いかかる。
そうして、奴の体を呑み込んだ。
全てを灰燼と帰す滅びの力。しかし、燃え盛る終末の火の中心に一瞬、朱い光がチラついた。
「なかなかの魔法じゃ。アムルから盗んだな」
声とともに、終末の火はあっけなく消え去った。
大魔王ジニアは無傷。《極獄界滅灰燼魔砲》が直撃していながら、火傷一つおってはいない。
「しかし、もっと深く潜らねば、この《常闇の魔眼》を破ることはできんのう」
大魔王の魔眼が朱く光を放っている。
破滅の魔眼と同じく、反魔法を主体とした能力か?
いや――
「では」
常闇の魔眼が不気味に輝く。
「無限の闇をお前にやろう」
次の瞬間、玉座の間全体が闇に呑み込まれた。
体が重い。
部屋全体を覆いつくしているこの闇が、俺の体に途方もない圧力をかけ、押し潰していく。
破滅の魔眼を光らせ、目の前の闇を睨む。ピシィッと音を立てて、僅かに亀裂が入った。破滅の魔眼に魔力を注ぎ込み、その亀裂の中心に一気に滅びの力を叩きつける。
亀裂は瞬く間に全体に広がり、その闇はガラスが割れるように粉々に砕け散った。
しかし、その先にあったのは一層深い闇であった。
「底が見えぬな」
いや、正確にはなにも見えぬ。
ただただ闇が無尽蔵に広がっており、塵一つ視認できない。
それだけではない。
なにも聞こえぬ。
なにも匂わぬ。
なにも触れず、上下の感覚どころか、自分が立っているかどうかさえあやふやだ。
己の感覚すらも曖昧で、それがみるみる希薄になっていく。
なるほど。これが常闇か。
《極獄界滅灰燼魔砲》も、この途方もない闇の中に呑み込まれたのだ。
万物を闇に呑み込み、無力化する力。《涅槃七歩征服》を使おうにも、ここでは歩くことすらできぬ。
「面白い」
俺は静かにまぶたを閉じる。
「この闇の中でなにも知覚することができぬのは、闇しかないからだ」
常闇の中、いずこかにいるはずの大魔王へ俺は言葉を投げかける。
「あまりにも深く、あまりにも昏い闇に塗りつぶされ、なにもかもが等しくなる。完全に比較対象がなくなるがゆえに、五感が役に立たぬ。ならば、どうするか?」
そっと目を開く。
左眼には滅紫に染まった魔眼があり、その深淵には闇十字が浮かんでいた。
「この闇をかき混ぜ、濃淡をつけてやればよい」
《混滅の魔眼》。秩序を滅ぼす混沌の力が、永久なる闇をぐちゃぐちゃにかき乱していく。
すべてを呑み込むはずの途方もない常闇は、しかし同じく無尽蔵の混沌を叩きつけられ、本来は存在しないはずの許容量を超えた。
ぐにゃり、と闇がねじ曲げられ、くっきりと濃淡ができる。
その昏い昏い闇の奥に、大魔王ジニアの姿を視認した。
「なんとのう。儂の闇をねじ曲げるとは」
フッと笑い、俺は告げる。
「限りがないからといって、終わらぬとでも思ったか」
未だ玉座に坐したままの大魔王ジニアへ向かい、俺は歩を進ませる。
奴はそのまま姿勢でこちらへゆるりと指先を向ける。
速度はいらぬ。この男を相手にそんなもので虚をつけるはずもない。
そうして、大魔王の間合いへと足を踏み入れる。
《常闇の魔眼》が朱く輝き、《混滅の魔眼》が滅紫の光を放つ。
闇と混沌が衝突して、ぐにゃりと暗黒が歪む。俺の突き出した手刀に応じて、ジニアが掌打を繰り出す。
掌底と指先が激突した瞬間、暗黒が爆ぜた。その余波だけで軽く小世界を滅ぼしてしまいそうなほどの大爆発が、幾度となく巻き起こる。
大魔王ジニアは坐したまま、俺の手刀を押し返そうと更にぐっと力を込めた。
だが、俺はそれを真っ向から受け止める。
ビリビリビリビリビリッと暗黒を引き裂くような不気味な音が鳴り響き、周囲の空間に亀裂が走った。
秩序そのものが滅んでいき、この場はただただ暗黒と混沌に呑まれていく。
《常闇の魔眼》と《混滅の魔眼》は拮抗している。
勝敗を決するのは、互いの魔眼にどこまで底があるか、その一点だろう。
底……すなわち、深淵。
大魔王ジニア・シーヴァヘルドは銀水聖海で唯一、深淵魔法に至ったといわれる。
ならば、この男には間違いなく先がある。
見せてもらおう。大魔王と呼ばれる所以を――
《常闇の魔眼》が朱く輝く。そして、次の瞬間、周囲を覆いつくしていた暗黒が霧が晴れるように消失した。
辺りは玉座の間だ。俺とジニアがあれだけ暴れたにもかかわらず、殆ど壊れていない。あの闇が全ての滅びを呑み込んだのだろう。
「面白い力を隠していたものじゃのう。それとも、行方をくらましていた間に身につけたものか?」
俺を見上げ、大魔王はそう言った。
「おかげで大事な椅子が壊れてしもうた」
玉座は粉々に砕け散っており、大魔王ジニアはその両の足で立っている。最初に提示した一分が経過したからか、奴は完全に臨戦態勢を解いていた。
「すまぬな。今度、もっと良い椅子を持ってこよう」
ほっほっほ、とジニアは笑声をこぼす。
「無神大陸は元々お前に譲ったものじゃ。外に出したいというのなら、好きにするがいい。のう、ノアや」
銀水聖海の誰からも恐れられる大魔王ジニア・シーヴァヘルド。
けれども、この時、俺に……いや、二律僭主に向けられたのは、まるで最愛の家族に対して浮かべるような、親しみのある笑みだった。