自由の民
一万四千年前。無神大陸。
「私はいかなければならない」
そう口にしたのは二律僭主。ロンクルスが使っていたあの体と同じく、成長した姿だ。
異様に長い銀髪がゆらゆらと水に漂うように浮いており、夕闇を具象化したような該当を羽織っている。
彼の前にいるのは第五魔王ホルセフィ。
その周囲にはラグー、アガネ、ノーズなど、二律僭主がこれまで救ってきた数多く者がいた。
『……三千年前の……あの恩人のためにか……?』
ホルセフィが問う。
「そうだ」
『……あの者にかけられているのは、永劫の呪い……それを解くことは、いかに僭主といえども……』
「方法はある」
『……それは……』
思い当たる節はあるといったように、ホルセフィは言葉を濁す。
『……されど、あれは……あの魔法は……大魔王ジニア・シーヴァヘルドでさえ到達しなかった……深い、浅いといった類のものではない……そもそも、この海がその存在を認めていないのだ……』
「同じ問答をロンクルスと交わした」
一瞬、ホルセフィはロンクルスの方を見た。
彼は口を挟むことなく、二律僭主の後ろに控えている。
『……避けられぬ滅びが、お主の前に立ちふさがるだろう……』
「反対か?」
そう問えば、ホルセフィは押し黙った。
主の意向に真っ向から背くことなどできなかったのだ。
「他の者はどうか?」
二律僭主はラグーたちに問うた。
彼らもまたなにも口にすることができず、ただ重苦しい表情を浮かべたままだ。
反対はできない。しかし、賛同することもまた彼らにはできなかった。
「滅びるか否かではないのだ」
静かに二律僭主は言った。
「不可能か否かではないのだ」
その声は無神大陸の住人全てに響き渡る。
「私はそうすべきだと思った。だから、やるのだ」
避けられぬ離別が目の前にある。ラグーたちは皆一様に奥歯を噛み、拳を握った。
まるで袋小路に入り込んでしまったような顔の彼らに、ノアは言う。
「待つことはない」
更に続けて、彼は告げた。
「無神大陸を捨て、新たな場所に世界を作れ。卿らの望む理想の王国をそこに築くといい」
二律僭主がいなくなれば、魔王に対する抑止力はなくなる。ホルセフィたちでは、対抗できないのはわかっている。
ゆえに、彼はそう言ったのだ。
それが無神大陸の民たちのためだと思ったのだろう。
しかし――
「いいえ」
最初に第五魔王ホルセフィが口を開いた。
「たとえ……たとえ挑む相手がいかなる絶望であろうとも、我々は僭主の勝利を信じておる」
続いて、ラグーは言った。
「あなたはこの銀海に吹く唯一の風。風が絶えることなど、決してありません」
更に、アガネが続く。
「僭主こそがこの無神大陸の王であり、お仕着せの秩序を砕く、我らの主君です」
最後にノーズが言った。
「我々はこの無神大陸の民として、あなたの誇りを守ります。あなたと同じく、どのような絶望が我々の前に現れたとしても」
無神大陸の民たちはまっすぐ二律僭主を見つめた。
偉大なる自らの主君を。
「私は勝者ではなく」
民たちの覚悟を受け、ノアが静かに言う。
「私は敵を未だ見つけることもできず、この指先は未だ大義をつかめず、未だ無神大陸の民は少ない。私は卿らになにを与えることもできない」
ノアはゆるりと手を前に出し、それを見つめた。
「この手にあるのは、ただ混沌のみ」
その言葉に、一抹の寂しさが滲む。
「こんな私が王であろうはずもない」
「いいえ」
ラグーは静かに否定し、それから言った。
「あなたが、あなたこそが我らが王。我らはあなたになにも望みはしません。あなたを待つこともしません。我々は我々の力で、この無神大陸を守ってみせます」
自らが王と定めた二律僭主の言葉を、しかしラグーは受け入れることはない。
「この国は、この無神大陸には元首も主神もいません。あなたが作られた、あなたが救ってくださった民の国です。ゆえに我々は我々の意志で戦い、我々の意志であなたを王に選ぶのです」
己の信念に従い、彼は言う。
「この無神大陸は民の意志で動く。あなたを王にするために我々は存在しているのです」
アガネもノーズもホルセティも、民の誰もが彼の言葉に頷き、決意を込めた瞳でノアを見つめている。
沈黙がその場を覆いつくす。
だが、それは穏やかで心地よい時間だった。
やがて、民たちが認めた主は口を開く。
「私は王の器ではない」
以前も口にした言葉を、二律僭主は繰り返す。
「……しかし」
と、彼は言葉を続けた。
「……いつか」
優しい声が無神大陸に響き渡る。
「遠いいつか。多くの民と配下を得て、真の王となってここに戻ってこよう」
民たちは頷き、笑みを返す。
「卿らに誓いを」
「いいえ」
僭主の言葉を、しかし三度、彼らは否定した。
「誓いは必要ありません。あなたはこの海に吹く自由なる風。どうぞ、どこまでもしがらみなく旅立ちください」
ラグーの言葉に、ホルセフィが続く。
「我らは何者にも支配されない自由の民。秩序も、死も、滅びも、我らを縛る枷にはならない。ただ一つ。ただ一つだけ」
無神大陸の民たちは口を揃えて言った。
「「「なにが起ころうと、最後の瞬間まで、我らはあなたの勝利を確信し続ける。それだけは揺るぎようのない事実です」」」
それは旅立ちのはなむけだ。
世界に見捨てられた民たちは、救ってくれた主に、恩返しがしたかった。
けれども、主はなにも求めない。自らの命すら省みず、絶望に挑もうというのだ。
彼ら民たちにできたのは、精一杯、主に背中を押すことだった。
二律僭主は小さくうなずく。
「卿らに感謝を」
そう告げて、彼は踵を返す。
去っていく主を見送る民に、最後に二律僭主は言ったのだ。
「――凪の日とて、この海のどこかで風は吹いている。それは卿らとつながっている自由なる風だ」
それが二律僭主と彼を王と定めた民たちとの、別れの言葉となった――