旅
一七〇〇〇年前――
融合世界。ノアの屋敷。
「焼き上がりました。ノア様」
執事姿のロンクルスが皿を持ってきた。魚料理だ。だが、その魚が一風変わっている。身は魚のようでもあり、果実のようにも見える。そして、鱗の代わりに貝殻がついていた。
「これはなんだ?」
初めて見る料理だったのだろう。ノアが尋ねる。
「ノール貝とポアの実、大陸魚が融合した、果貝魚シュミルでございます」
ロンクルスが説明する。
「シュミルは魚の中でも特に果実の甘みと貝の旨味が染みこんでおります。それを陽の光と塩が融合した陽塩で味付けし、じっくりと石窯で焼き上げました。この融合世界では一番のご馳走とも言われております」
ノアはナイフとフォークを手にし、果貝魚を切り分ける。
そうして、ぱくりとそれを食べた。
「いかがでございましょうか?」
不安そうにロンクルスが問う。
無表情のまま、ノアは答えた。
「同じだ。味がしない。旨味を感じないといった方が正しいか」
ロンクルスは困ったように眉根を寄せる。
「申し訳ございません」
「生まれつきだ。お前が謝ることではない」
「お調べしたところ、ノア様の味覚は正常でございました。それどころか、使用した食材を漏れることなく言い当てられるほど鋭敏です。味がしないのは、わたくしの力不足でございます」
「味がせずとも、栄養にはなるだろう。困りはしない」
そうノアは言った。
彼はこれまでに一度も旨味を感じたことがない。情報としての味は感知している。しかし、美味しいとは感じないのだ。だが、料理に味がしなかったところで、それは彼にとって生まれつきのことであった。
「しかし……」
「私にはな、ロンクルス。生まれつき、欲求というものに乏しい。眠りも、食事も、必要がない」
落胆した様子もなく、淡々とノアは語る。
「だから、探していた。自らが望むものがなにかないのか。だが、どうやら、ないものをどこを探してもないようだ」
結論づけるように彼は言った。
「それは私が、《廃淵の落とし子》だからだろう」
ロンクルスは首を横に振った。
「ノア様はわたくしを助けてくださいました」
確信を持った口調で彼は言う。
「お前の望みに触れれば、なにか見つかるかもしれないと思ったからだ」
「それだけでしょうか?」
ロンクルスの問いを受け、ノアは表情に疑問を浮かべた。
「どういうことだ?」
「ノア様はわたくしを助けたかったのではないでしょうか? 誰かを救うこと。それがあなたの望み……いいえ、そうでなくとも、あなたの望みにつながることなのではないでしょうか?」
ノアはじっと考える。
深く、深く、自らの心の深淵に潜り込むように。
やがて、彼は言った。
「わからない」
ノアは顔を上げ、ロンクルスを見た。
「だが、確かめたい」
生まれ落ちたものの、ノアは自らがなにをすべきなのか、なんのために生きているのか、わからなかった。
だからこそ、それを知りたいと感じた。
もしかしたら、それは彼の奥底にある小さな望みだったのかもしれない。
「それでは、旅をしましょう。この世界を出て、遠くの海へ。そこには様々な世界があり、様々な住人がいます。わたくしのように、誰の助けも得られず、困り果てている者もおりましょう。その者たちに手を差し伸べてみてはいかがでしょうか?」
ロンクルスが提案すると、ノアはこう聞いた。
「お前はいいのか? 自らの望みは?」
「ノア様。わたくしはあなたに救われました。今は、あなたへの恩を返すことが唯一の望みでございます」
「そうか」
納得したのか、ノアは立ち上がると屋敷全体に魔法陣を描いた。
それが一瞬黒く染まったかと思えば、立体的な影に変わり、ノアの体の中に吸い込まれていった。
彼はそのまま飛行して、ある森の真上にやってきた。
「船を用意しよう。銀海の果てまで行ける船を」
そう口にして、魔法陣から取り出したのは、銀色の宝石である。
「そちらは?」
ロンクルスが魔眼を光らせながら、その銀の宝石の深淵を覗く。
「銀水世界リストリアの宝珠、銀水石だ。銀水を蓄え、力に変えることができる」
「銀水を……」
ロンクルスの表情には驚きが見てとれる。銀水とは、全ての生物を蝕む毒だ。それを力に変えることはどの小世界の秩序をもってしても、不可能だと思っていた。
銀水世界リステリアは、融合世界から見てもかなりの深さにある世界だ。隠者エルミデがその名の如く、隠遁しているため、あまり他の世界の者には知られていない。
「銀水石をこの大地と融合させられるか?」
ノアの意図を察して、ロンクルスははっとする。
そうして、はっきりとうなずいた。
「可能でございます」
静かにノアは銀水石から手を放した。その宝珠はゆっくりと融合世界の大地へと落ちていく。
「《融合新生》」
ロンクルスが大地に魔法陣を描く。ちょうどその中心に銀水石は落下して、すうっと大地の中へ吸い込まれた。
次の瞬間、大地が銀に発光し、木々がたちまち成長を始めた。小さな森は、たちまち樹海へと変貌した。
「《幽影創造》」
更にノアが魔法陣を描く。
すると、森に存在する影という影が伸びて、その一帯を覆い尽くした。ぐにゃりと影が形を変えると、それに添うように森の形が変化する。
ドゴォ、ゴオオオオォォォと大地が震動を始めた。
地面に亀裂が走り、その森が浮かび上がる。銀水石と融合世界の大地、それを原料に創造されたのは銀海を駆ける樹海船――アイオネイリアだった。
その中心にノアとロンクルスは降り立つ。
「行くか」
「かしこまりました」
アイオネイリアはみるみる上昇していき、黒穹に達する。そうかと思えば、あっという間に融合世界を離脱していった。
それから、二人は銀水聖海を旅した。
行く先々でノアは様々な者を助けていく。
それは世界の秩序が救わなかった者たち。秩序に適合できなかった者たちだ。
粉塵世界パリビーリャの戦士アガネ。
誰もが化粧を施し、道化を演じるパリビーリャにおいて、彼は演技が下手な不器用な男だった。愚直に鍛えた剣の腕は、粉塵世界では評価されず、不遇の日々を送っていたアガネをノアは旅に誘った。
夢想世界フォールフォーラルの覚醒者ノーズ。
眠っている時に夢遊病のように活動する住人たちの世界で、彼は眠ることのできない体質だった。眠らない者は外に出ることを禁じられており、忌み子として幽閉されていたノーズをノアは救い出し、旅に誘った。
聖句世界アズラベン。無聖者ラグー。
聖なる言葉が力を持つ世界において、ラグーは生まれつき声帯がなく、喋ることができなかった。
アズラベンでは無聖者と呼ばれ、憐れまれる対象として、庇護される。無聖者に施しを与えることで、アズラベンでの位が上がり、また徳をつめると信じられていた。
何不自由のない暮らしが約束されていたが、ラグーは自らの力でなにかに挑戦したかった。だが、喋れない彼はその世界において、なんの力も持たなかったのだ。
ノアはラグーに声を与え、旅に誘った。
一人、また一人とノアは救われなかった者たちを救っていく。
そして、やってきたのが、大魔王ジニア・シーヴァヘルドの支配する深層十二界の一つ、停滞世界ザガロである。
全てが遅く、時の流れさえも遅々として進まぬ世界。足を踏み入れれば、たちまち動けなくなってしまうその大地を、ノアは平然と歩いていく。
見つけたのだ。
その世界で唯一、ずっと動いている存在を。
真新しい建物が立ち並ぶ街並みに、一つだけ古い建造物があった。
城である。
その門を開き、中へ進めば、一人の男がノアを出迎えた。
「我は第五魔王ホルセフィ。ここに人が来るのは大魔王ジニア以来だ」