廃淵の落とし子
一万七千年前。パブロヘタラ宮殿。
その部屋には七七本もの細い水路があった。
いくつもの段差を通る立体的な造りとなっており、全ての水路は中心にある巨大な水槽につながっている。
その中に、幼いノアが服を着たまま仰向けになって浮かんでいる。
水槽の外に隠者エルミデが立っていた。
「これは知識の水槽と呼ばれるもの。この水には私たちリステリアが集めた知識が融けています。これによって、あなたが何者かを知ることができます」
エルミデが丁寧に説明する。
ノアは仰向けになったまま、天井を見つめていた。
「先ほどは《廃淵の落とし子》だと聞いた」
彼は言った。
「はい。《廃淵の落とし子》というのは《追憶の廃淵》から生じた者のこと。あなたたちは、滅びた世界への追憶により発生するのです」
「生まれたばかりの私が言葉を解するのはそのためか」
「そうです。あなたは、多くの者たちが馳せた想いを体現した存在。普通の子どもよりも、その点においては優れているでしょう」
「羽化世界の主神、フレイネアの追憶により私は生まれたのではないのか?」
ノアが問う。
「彼女が《追憶の廃淵》を利用し、かつての元首シューザを蘇らせようとしたことは事実です」
エルミデはそう答えた。
「しかし、《追憶の廃淵》とは簡単に制御できるようなものではありません。滅びた世界への追憶といっても、人々の心は一様ではない。ただ一人の追憶ですら、一つに固定されるものではありませんから」
「特定の人物を蘇らせることは不可能と?」
「そうなりますね。数多の人々の追憶を、ただ一つのものに固定する術でもない限りは。そして、いつ、どの世界の、どの者の追憶が、《追憶の廃淵》に辿り着くのか、それを知る術はありません」
エルミデは魔法陣を描く。
すると、七七本の水路が不規則に点滅を繰り返す。
「あなたがどのような追憶から生まれた存在なのかを、この知識の水槽にて確かめます」
不規則に明滅する水路はやがて一つの結果に収束していく。
七七本の水路の内、四本の水路だけが光を放ち、残りは消灯した。
「終わったか?」
ノアが問う。
しかし、返事がなかった。
彼が振り向くと、エルミデはある水路の前で立ち尽くしている。
水槽から出て、ノアはそこまで歩いていく。
「どうした?」
「……水路が涸れました」
ノアは水路を見下ろす。
先ほどまでは流れていた水が、確かにすっかり涸れてしまっていた。
「なにを意味するものだ?」
「順を追って話しましょう」
エルミデはそう言って、ノアに向き直る。
「まずあなたの一部は羽化世界の住人たちによる追憶に間違いないでしょう。といっても、ごく一部ですが……」
彼はノアの服を指さす。
「この服とあなたの話し方、平たく言えば語彙です。彼らの元首シューザが着ていたものと同じ服、同じ話し方のようです。そういう意味では、フレイネアの計画は半ば成功していたのでしょう」
エルミデがそう言った後、深刻な顔つきとなった。
「しかし、あなたのその根源はまったく別の追憶から形作られました。それも羽化世界への追憶ではありません。あなたは、違う世界の追憶が混ざり合い、誕生いたしました」
「どの世界の追憶か?」
ノアが問う。
静かにエルミデは首を横に振った。
「わかりません」
「……わからないことがあるのか?」
意外といった風にノアが問う。
「初めてのことです。《追憶の廃淵》が存在するリステリアには、滅びた世界の追憶が集まってくる。この水槽には滅びた世界の知識がすべて蓄えられているのです。しかし、あなたを形作る追憶はそのいずれにも該当しません」
不可解そうにエルミデは言った。
滅びた世界への追憶より生じる《廃淵の落とし子》。だが、その幼子を生んだ追憶は、滅びた世界への追憶によるものではないのだ。
それは秩序に反しているという証左であった。
「それは、なにを意味するのだ?」
「恐らくは、滅びていない世界への追憶が《追憶の廃淵》に届けられ、生じたのがあなたということでしょう」
自分で口にしておきながらも信じがたいといった風にエルミデは見解を述べた。
「滅びた世界への追憶しか引き寄せないのだろう?」
ノアが問う。
「ええ、本来ならば。しかし、《追憶の廃淵》のことは全てがわかったわけではありません。銀海は広い。この海のどこかに、滅びの秩序を宿した世界や主神がいるでしょう。その世界や、その世界に生きる者であれば、例外となり得るかもしれません。存在しつつも滅びている、そんな矛盾を許容できる理があれば」
「そうか」
さして興味もなさそうに、彼は言った。
「喜ばしいことだと思いますよ」
不思議そうにエルミデは言った。
「なぜ?」
「《廃淵の落とし子》たちは皆、故郷を持ちません。彼らが故郷と信じる世界はすでに滅びているのですから。しかし、あなたを生んだ世界はまだ存在する可能性が高い。滅びの秩序を宿す世界、それがあなたのルーツ、それを探せばあなたはその世界に辿り着くことができるでしょう」
一瞬、考えた後にノアは言った。
「故郷は大切なものか?」
「ええ。よろしければ、探すのを協力しましょう」
「いらない」
彼は即答した。
驚いたようにエルミデが見返す。
「実感がない」
「では、気が変わったらいつでもおっしゃってください。《廃淵の落とし子》はその追憶に引かれるもの。あなたもいつか、それと向き合う日がやってくるでしょう」
そう言って、エルミデが歩き出す。
「どうぞこちらへ。お食事にしましょうか? なにか食べたいものはありますか?」
「食べたいもの?」
ノアが不思議そうに聞き返す。
「ええ。あなたの追憶が、あなたのお好きなものを形作っているはずです」
「……食事は結構だ。食べる気はしない」
「そうですか。あなたの故郷は、食事の必要がない世界なのかもしれませんね」
エルミデが言う。
「それでは、なにかしたいことはありますか?」
そう彼が問うと、ノアはじっと考え始める。
だが、いつまで経っても口を開く気配はなく、彼は微動だにしない。
エルミデは不思議に思ったが、ノアが真剣に考えているため、その言葉を待った。
そうして、長い長い沈黙の後に、彼は言った。
「特にない」
――と。