二律僭主の出生
コポ……と泡が生まれる音がした。
――空も海も大地すら、すべては滅びに近づくだろう。
内側で、猛る想いが渦巻いている。
――ゆえに、我らは滅びた。
――しかし、この身は剣となりて戦い続ける。
――いつか、この世界で、
――両手を血に染めるしか能のない愚か者が、
――子を持てる日を……。
――いつか……。
生じては消える無数の泡。
成るか否かは、想いの強さと数奇な運命。
泡の中で抗う声が響く度に、それは強く波を渡る。
《淵》の深淵にて生まれた小さな泡は、ゆらゆらと漂いながら、外へ外へと泳いでいく。
◇
一万七千年前。銀水世界リステリア。
大地があり、海が一面に広がっている。
その上空には浮遊島が点在している。
天まで届くような高波が、耐えることなく潮騒を響かせる。
されど、津波のような激しさはなく、幾つもの高波は静かに押しては引き、幻想的な光景を作り出していた。
その波を渡るように、多くの銀海クジラたちが空を泳いでいる。
リステリアの海水はすべて銀水であり、この世界の生物はそれに適応している。とりわけ銀海クジラは、その水を力に変えることのできる数少ない種族であった。
クジラたちは列をなし、規則正しく一定の方向へと泳いでいる。円をなしているのだ。
そして、その中心には一際巨大な高波があった。
いや、波というよりは渦巻きである。それは山よりも遙かに巨大であり、銀水世界の海と空をつなげていた。
《追憶の廃淵》。
そこには滅びた世界の追憶が溜まる。今はもう存在しない世界。故郷へ馳せる想い、元首への忠心、在りし日の仲間たちとの思い出。
行き場を失った感情は、この《追憶の廃淵》に引き寄せられ、ときとしてそれが具現化する。
銀水の海に生息する銀海クジラも、そこから生じたと言われている。
主神の力が衰え、秩序の穴が空いた銀泡には銀水が流れ込んでくる。生命の存在を許さないその水は、やがてその世界を滅ぼすだろう。
そして滅びる瞬間に、民たちはその世界の象徴たるクジラに想いを馳せた。
同時に願ったのだ。
どうか世界が滅びた後も、銀水の海を泳ぎ、生き抜いてほしい、と。
かくして、空想と現実が混ざり合い、銀海クジラが生まれた。
無論、これは一つの説であり、真実を確かめる手段はない。
《追憶の廃淵》に寄せられるのは滅びゆく者の、滅びた世界への想い。その住人たちも、殆どの場合において滅んでいるのだから。けれども、銀水世界リステリアは確かにそうと信じられてきた。
その《淵》では、他には考えようのない生物が時折、生まれ落ちるからだ――
「成功した!」
羽化世界オルドローブの主神フレイネアは、驚喜のあまり破顔した。
蝶の羽根を持つ美しい女神であり、長い髪からキラキラと輝く鱗粉がこぼれ落ちている。
彼女の目の前には、黒い泡に包まれた銀髪の幼子がいた。
ノアである。
「さあ、羽化しなさい。我がオルドローブの元首、シューザ」
フレイネアが魔法陣を描けば、黒い泡が割れた。
鱗粉がノアの体に降り注いでいき、それがみるみる光を放つ。目映いまでの燐光がその場の全てを照らし出すと、フレイネアは満足そうに笑った。
だが、次の瞬間、放たれた光は消えた。
鱗粉が黒い影に覆われ、飲み込まれていく。
「な、ぜ……? これは……?」
フレイネアが眉根を寄せる。
彼女は歩を進め、幼子に近づいていく。
彼は目を閉じたまま、再び黒い泡に包まれ、浮かんでいる。その背中に羽根がないことを確認すると、フレイネアは失意の表情を浮かべた。
「……失敗……いやまだそうと決まったわけでは……」
呆然とした呟きが漏れる。
がっくりとフレイネアは膝をつき、頭を垂れた。
すると――
「失敗とはなにか?」
フレイネアが目を見開く。
ゆっくりとその幼子はまぶたを開いたのだ。
彼は無言でフレイネアを見つめた。
その表情からは、なんの感情を読み取ることもできない。
「……シューザ?」
「シューザ? それは?」
フレイネアの言葉を受け、ノアは聞き返す。
「……覚えて……いないの? あなたは羽化世界オルドローブが元首、シューザ・オルドローブ。羽化世界とともに滅びたあなたを、《追憶の廃淵》を使い、作り直したの」
ノアは静かに黙考する。
「私と、私の民たちが、羽化王シューザを追憶した。その想いが結集したのがあなたよ。覚えていない?」
「……泡の中で、声を聞いた気がする……」
幼子は言った。
「空も海も大地すら、すべては滅びに近づくだろう……と」
それを聞き、フレイネアは驚愕の表情でその子を見返した。
「我が世界に海はない……」
小刻みにその手が震えている。
彼女の神眼が赤く染まったかと思えば、その羽根を大きく広がった。まき散らされた鱗粉が魔法陣を描き、青い火の粉が散る。
「あなたは、シューザではない!」
青き炎が怒濤の如く、立ち尽くすノアに着弾した。
ゴオオオオオオオォォォとその炎は更に火勢を増し、竜巻の如く渦を巻いた。
ため息を一つつき、フレイネアは踵を返す。
「僕がいない間に悪さをするのは感心しませんね、フレイネア」
その声を聞き、彼女は焦ったように振り返る。
幼子を庇うようにそこに立っていたのは、長い金髪の青年だった。
青き炎はかき消されており、直撃したと思われた幼子も無傷である。寸前のところで、その青年が助けたのだ。
「《追憶の廃淵》は制御できるものではありません。あなたの気持ちもわかりますが、もうそろそろ受け入れてはいかがでしょうか? 羽化世界は滅びたのです」
「黙りなさいっ! 私は必ず羽化世界オルドローブを復興する。そのためには、シューザを蘇らせなければならないっ!!」
フレイネアが大きく飛び上がり、鱗粉の魔法陣を描く。
青年は悲しげな顔で、彼女に指先を向けた。
「残念です」
「がっ……!!」
フレイネアが魔法を放つより先に、下方から飛んできた銀海クジラが彼女の体に食いついていた。
「こんな……ところで……シューザ……我が民……私は…………」
ぱくり、と銀海クジラはフレイネアを丸呑みする。
それで滅びたのか、それとも身動きが取れないのか、彼女が外へ出ようとする気配はなかった。
事が終わると青年は、黒い泡の中にいるノアと目を合わせた。
「ようこそ、《廃淵の落とし子》。僕の名前は隠者エルミデ。この銀水世界リステリアの元首を務めております」