秩序を愛する者
エレネシアは呆然と、自らの胸に突き刺さった短剣を見つめている。
最初に彼女の頭を支配したのは驚き。けれども、すぐに疑問が生じた。
おかしなことが二つある。
その短剣は確かに胸に貫いているのに、血が一滴も流れていない。
そして、痛みがなかった。
彼女の疑問に答えるように、第二魔王はさらりと言う。
「この短剣は根源刀といってね。オレの根源の半分を刃にした姿だよ」
ムトーは短剣から手を放し、微笑んだ。
「君にあげるよ」
エレネシアはきょとんと彼を見返すしかない。
いったいどういうつもりなのか、彼の真意がまるでわからなかった。
「<銀界魔弾>の弾丸を君が創造したくない理由は三つ」
ムトーは指を三本立てる。
「一つ目、保有根源が少ないとはいえ、生きている世界を弾にすること。二つ目、この弾丸を創造し続ければ、君の根源は削られていき、やがて滅びること。三つ目、<銀界魔弾>がいつかどこかの小世界を撃つということ」
エレネシアに刺さった根源刀を指さし、ムトーは言う。
「その根源と融合すれば、君は強くなる。<銀界魔弾>の弾丸用に、根源を必要としない疑似銀泡を創造できるようになる。強くなった君の根源は、疑似銀泡の創造を続けても、そう簡単に滅びることはない。そして、<銀界魔弾>が世界を撃つ前に、神魔射手と大提督を止めることができるかもしれない。成功するかは、君次第だけどね」
半分とはいえ、あれだけの力を有する第二魔王ムトーの根源だ。
それだけの力が手に入っても不思議はないだろう。
「手に取るといい。それでその根源は君のものだ」
エレネシアは静かに目を伏せ、考える。
彼女が決断できないでいるのを察して、ムトーは言った。
「なにを迷う必要がある? それを手にしなければ、君にはなんの希望もない」
「……確かに、これは私にとっては希望」
静謐な声で、呟くように彼女は言った。
「けれど、あなたは? 根源が半分になっては生きられない。どれだけの力があろうと、その秩序には抗えないはず」
ムトーは指を一本立てる。
「水の中に潜るようなものだよ。百年に一度、一日だけ返してもらえばいい。それで十分だ」
一日根源を取り戻すことができれば、その後一〇〇年間は半分のままでいられる。そうして、百年に一度、息継ぎをしながら生きていくということだろう。
並の者なら、根源を半分に割ったままで長く生きることできない。第二ムトーの魔力と魔法があってこそだ。
「弱くはなるだろうけど」
「私に根源刀を譲れば、神魔射手と大提督は気がつくだろう。魔弾世界に手を出した報復に、あなたを滅ぼしにくるかもしれない」
「逃げればいい」
エレネシアは神眼を丸くし、彼を見返す。
そんな言葉がムトーの口から飛び出してくるとは思いもしなかったのだろう。
「君が言ったことだ。逃げられるのなら、逃げればいい。争いは悪しきことなんだろう?」
「それは……そう」
争わずに済むのならば、それを望まない理由はない。誰もが平穏を求め、欲する。好き好んで、傷つきたい者などいない。
だが、第二魔王ムトーは違う。
本心から、そのような平穏を求めたことなど一度もなかった。
ゆえに彼女には不可解だった。
「なぜ、急に心変わりを?」
ムトーは笑みを返す。
「信じられないか? 君を騙して、オレに得はない」
「そうではなく」
ムトーの言う通り、彼にはエレネシアを騙す理由がない。そんな回りくどいことをしなくとも、彼の力ならばエレネシアをどうとでもできるだろう。
言葉などいらない。
第二魔王の力があれば、その身一つであらゆるものが手に入る。
根源の半分を譲るなどというリスクを負うなど、馬鹿げたことだ。
ゆえに、本気なのだろう。
本気だからこそ、その理由がエレネシアにはまるでわからなかった。
「君はオレに戦う意味を聞いたね」
「はい」
「考えてみたよ。だけどね、なかった」
さらりとムトーは言った。
「なにもなかったよ、理由は。それに気がついたとき、急に飽きたんだ。戦わなくてもいいって気がしてきた」
「……そう」
飽きた、という答えはなんとも彼らしいとエレネシアは思う。
だが、納得し難いと感じたのは事実だ。
「君はオレに争いをやめろと言っていたのに、嬉しそうじゃないな」
「いえ」
まっすぐムトーを見つめ、エレネシアは慈愛に満ちた微笑みをみせる。
「あなたの決断はとても喜ばしい。私はそれを歓迎する」
「そうか」
満足そうにムトーは口元を緩ませた。
「けれど、戦わないからといって力を捨てる理由はない。あなたはなぜ、あなたの半身を私にくれるの?」
「愛がなくとも、それぐらいはわかるんじゃないか?」
一度目を伏せ、エレネシアはまたムトーを見た。
彼の想いは、よくわかる。わかるからこそ、彼女は誠実に答えなければと思ったのだ。
「私はあなたに、なにも返してあげることができない。なら、その愛はいつか出会う誰かのためにとっておいた方がいいと思う」
「エレネシア。オレが知っているのは、今、本気で戦えない奴にいつかなどないということだ」
困ったようにエレネシアが微笑む。
「今本気で君を愛せない男に、いつかはあるのか?」
俯いた彼女の髪が、その目元を隠した。
「……わからない。だけど、私には資格がない……」
静謐な声に、ほんの少し、苦しさが滲む。
「神は秩序、わたしはただ世界を創り、世界のために存在する。たとえ、奇跡が起きて、この心に愛が芽生えたとしても、わたしはあなたのために生きることはできない」
僅かに体を震わせながら、彼女は言う。
「それは卑怯なことだと思う」
ムトーは首をひねる。
「ああ、そうか」
不思議そうにエレネシアが目を丸くする。
「そう……?」
「君はまさしく世界そのものだ」
今気がついたといったような台詞だった。
その発見が嬉しくてたまらないと言わんばかりに、彼の瞳は輝いていた。
「君の心はこの魔弾世界の秩序の一つで、だから、誰にでも平等で、誰にでも優しい」
それが好ましいことであるかのようにムトーは語る。
「君の慈愛はこの世界に吹く風のようで、だから、その手のひらに叩かれても、オレは害意を感じることができなかった」
世界に吹く風に害意はなく、それを感知することはムトーにもできない。
「エレネシア」
なにかを悟ったかのような顔で、彼は言った。
「オレは秩序としての君に愛を抱いたんだ。この世界を。魔弾世界エレネシアの慈愛を。それなら、卑怯だと思うことこそおこがましい」
風にそよぐエレネシアの髪に、ムトーはそっと指先を触れる。
「秩序が世界のためにあることを。その在り方を。オレは愛しいと思った。そのままの君をね」
「……あなたは、おかしな人」
「別に構わないだろう。秩序を愛しいと思う者がいても」
ムトーは言う。
「見返りなく、世界を愛する阿呆な男が一人ぐらいいたっていいじゃないか。この世界はそんなに狭量ではないだろう?」
「それは……」
俯きながら考え、けれどもエレネシアは笑う。
「そうだと思う」
「この根源の半分を渡せば、君はオレと百年に一度会う理由ができる。一つの秩序として、世界のために。そうすれば……それなら……オレの愛は、君の在り方を否定しない」
エレネシアの間近に顔を寄せて、囁くように彼は言う。
「それは最高だ」
「ムトー」
静謐な声で囁き、エレネシアは両手で彼の手をとった。
まっすぐ彼女は、彼を見つめた。
世界を愛するなどと本気で語る、おかしな男を。
「あなたの根源は預かっておく。いつか、必要になったら取りに来てほしい」
「いいよ。必要にはならないと思うけど」
ムトーは当然のように断言した。
ふんわりとエレネシアが微笑み、そして胸に刺さった根源刀にそっと触れた。
魔力の粒子が立ち上る。
眩い光が彼女を包み込み、その力が彼女の中に入っていく。
優しく、慈愛に満ちた声でエレネシアは言った。
ありったけの感謝を込めて――
「ありがとう、ムトー。あなたがくれたこの希望で、私は必ずこの魔弾世界を守るから」
光の中、彼女の神眼に映るムトーは、満足そうに笑っていた。
かくして、第二魔王は力を失い、世界に一つの希望が生まれた――