二人の距離
翌朝。
エレネシアはマングローブの林を歩きながら考えていた。
ムトーは彼女を解放すると言った。彼の性格からして、嘘をつくとは思えない。そんなメリットもない。それなら、このままここを出ていったとしても引き戻されることはないだろう。
だが、問題はその後だ。
今、第二魔王ムトーが人質にとっているからこそ、神魔射手オードゥスはエレネシアに手出しができない。
ここを去れば、すぐにでもオードゥスはエレネシアを連れ戻しにくるだろう。
オードゥスの言うことを聞かなければ、次なる創造神の新生のため、エレネシアは殺される。
命が惜しいわけではない。
死んで世界がよりよい方向に向かうのならば、喜んでそれを差し出すつもりだ。
けれども、そうではないのだ。
開発中の銀滅魔法<銀界魔弾>。その弾丸である小型銀泡を創造させることが、オードゥスの目的だ。
小型銀泡とはいえ、そこには本物の命がある。
小型銀泡を躊躇いなく弾丸にする魔弾世界は、いつしか本物の銀泡さえ弾丸にするだろう。
そのときは、必ず来る。
止めなければならない。
だが、止める手段がなにもない。
どうすることが、この魔弾世界のためなのか。彼女にはまだ答えを出すことができていなかった。
「――帰るなら、送ろうか?」
エレネシアが振り向けば、いつの間にか隣にムトーがいた。
昨日のことなどなかったかのように、いつも通りの飄々とした表情だ。
「よかった」
自然と言葉が口をつく。
ムトーは僅かに首を捻った。
「なにが?」
「あなたが落ち込んでいなくて」
静謐な声でエレネシアが言った。
「人が神を愛することはない。きっと、それはなにかの間違いだったと、いつか気がつくときが来る。神とは世界を動かす仕組みの一つ、秩序なのだから」
ムトーは空を仰ぎ、しばし沈黙した。
なにやら考えごとをしているようにも見える。
「……今のは、慰めてるつもりかい?」
ぽつりと彼は言った。
エレネシアは一瞬言葉を失う。
「……間違えた?」
すると、ムトーはニッと笑う。
まるであどけない少年のように。
「大間違い」
前を向き、彼は歩いていく。
僅かに遅れて、その後ろにエレネシアは続いた。
「神も人も関係がない。相手が何者であろうと、言い訳をするつもりはないよ。オレが君に振り向いてもらえなかったのは、力が足りなかったんだ。君に好きになってもらうだけの力がね。それだけが敗因で、それ以外は関係がない」
僅かにエレネシアは眉をひそめる。
「あなたは愛を戦いのように言う」
「違うって?」
「私は違うと思う」
「どう違うんだい?」
数秒の沈黙、二人の足音が規則的なリズムを刻む。
「愛は与え、育むもの。そこには勝利も敗北もない」
「じゃ、なにがあるんだい?」
「……わからない」
きょとんとした顔でムトーは彼女を見た。
「けれど、愛し合う二人はとても幸せそう。私にはそれで十分。その幸せを守りたいと思う」
「一度、街に行かないか?」
ムトーの申し出に、エレネシアは首をかしげた。
「君が今帰っても、ただオードゥスにいいように使われるだけだろう。オレに付き合うなら、少しはまともな選択ができるようにしてやる」
「なにを考えているの?」
エレネシアの質問に、ムトーは無言のまま手を伸ばした。知りたければ、付き合えということだろう。
いかなる気まぐれか、まったく判断はつかなかったものの、彼が言う通り、今の彼女には選択の余地すらなかった。
エレネシアは第二魔王の手をとった。
魔法陣が描かれ、目の前が真っ白に染まる。
転移したエレネシアの神眼に都が見えた。
そびえ立つ山と、そこに設けられた基地と都市が一体化した山岳都市。魔弾世界ではオーソドックスな風景だ。
「第三山岳都市ディルフォート」
エレネシアが街の名を呟く。
「来たことがあった?」
「魔弾世界の街はずっと見ていた。けれど、来るのは初めて」
静かにエレネシアはそう言った。
道行く人が、彼女とすれ違う。
思い思いの表情を彼女は穏やかに観察していた。
ムトーはしばし彼女を見つめ、それからゆっくり歩き出す。
彼の後ろにエレネシアはついていった。
「遠くから見るのとは違う」
「それはそうだろう」
当たり前のようにムトーは言った。
「観戦するなら、魔力が肌で感じられる距離に限る」
「あなたは戦いのことばかり」
僅かに苦笑をたたえながら、エレネシアは言う。
「けれど、間違いではない」
ゆっくりと歩を進めながら、エレネシアは道行く一人一人を優しく見つめている。
世界を創った創造神に、できることは限られている。
ミリティアがそうだったように、せめて世界を見守ることが彼女たちの慈愛なのだろう。
「彼らの幸せを肌で感じられる距離は、とても心地よい」
「幸せとは限らない」
ムトーの言葉に、エレネシアは返事をしなかった。
彼女は手をつないで歩いている男女を慈しむように眺めていた。
「……ごめんなさい。なにか言った?」
「つまらないことだ」
ムトーは短く答え、笑みを見せた。
エレネシアは不思議に思ったが、彼がそれ以上なにも言わないので追及することはなかった。
二人はそのまましばらく言葉をかわさず、山岳都市ディルフォートを歩いて回った。
店を見るでもなく、食事をとるわけでもなく、エレネシアはただ人々の様子を観察していた。
創造神テルネスより受け継いだ魔弾世界の住人たちを。
彼女にとって、それこそがこの上ない楽しみだった。
隣を歩くムトーもなにをするわけでもなく、時折、エレネシアの方を向いては満足そうに笑っていた。
穏やかな時間は刻一刻と過ぎ去っていき、魔弾世界に月が昇る。
街を歩いていた人々も次第に減り、やがてエレネシアとムトーの二人だけになっていた。
「ごめんなさい」
はたと気がついたように彼女は言った。
「ここでなにかしなければいけなかったのでしょう?」
「もう終わったよ」
ムトーはそう口にして、足を止めた。
「エレネシア。約束通り、君を逃がしてあげる」
「……え?」
唐突に言われ、エレネシアは理解が追いつかなかった。
「神魔射手オードゥスと大提督ジジが必要なのは、魔弾世界の創造神だ。鹵獲魔弾で君はこの世界の創造神になった。なら、それと同じことをすれば、君は魔弾世界から解放される」
それは鹵獲魔弾やそれに類する魔法を使い、エレネシアを別の世界の神にしてしまうということだった。
「少し時間はかかるだろうけど、君を元の世界に戻せなくもない」
エレネシアは目を丸くした。
確かに第二魔王たる彼の力なら、神魔射手オードゥスからエレネシアを奪うことができたとしても不思議ではない。
ムトーとの戦いを避けているオードゥスは、そうまでされればエレネシアに執着することはなくなるだろう。目的さえ果たすことができるのなら、彼らにとって創造神は彼女でなくとも構わないのだ。
「いいえ」
迷わず、エレネシアは答えた。
意外そうな顔で、ムトーが問う。
「帰りたくはないのか?」
「帰りたくないと言えば嘘になる」
「魔弾世界にいれば、君を待ち受けているのは、滅びへ向かう過酷な運命だけじゃないか」
当然のことのようにムトーは言った。
「オードゥスは君に<銀界魔弾>の弾丸たる小型銀泡を創造させる。そして、それを続ければ君の根源は確実に消耗し、やがて滅びるだろう」
エレネシアはうなずいた。
すべて承知の上で答えたことだ。
「ここは、私が創った世界ではない。それでも、今は私がこの世界の創造神。私が見捨てては、この世界が可哀想。私はこの魔弾世界と、魔弾世界に生きる人々を愛している」
静謐な声で、慈愛に満ちた表情で彼女は言う。
「逃げることなど、できはしないの」
「……君の思うように、魔弾世界は回らない。君が元々いた泡沫世界とは違う。この世界は主神と元首のものだからね。君は君が愛する人々を、その世界を、弾丸にするために創造することになる」
まっすぐエレネシアを見据え、ムトーは言った。
「小型銀泡はたった一万の根源しか宿していないとはいえ、君にとって数は問題ではないだろう?」
エレネシアはうなずく。
「それでも、ムトー、私の答えは変わりません。たとえ、叶わずとも、どれほど過酷な運命が待ち受けようとも、私は逃げるわけにはいかない」
「なぜ?」
ムトーの問いに、はっきりとエレネシアは答えた。
「自らの世界と運命をともにする。それが私、創造神エレネシアの秩序だから」
「……うーん…………そうかぁ……」
どこか軽く、そして少し困ったようにムトーは自らの頭に手をやった。
「仕方ない。じゃ、こうしよう」
ムトーの手が一瞬ブレる。
エレネシアがはっとすると、彼女の胸に黒い短剣が突き刺さっていた。
胸を貫く刃。ムトーの真意は――