月明りの屋根の上で
真夜中――
ふと人が動く気配を感じて、エレネシアは目を覚ました。
ぎぃ、とドアが開く音が聞こえる。視界をよぎったのは、ほったて小屋から出て行ったムトーの姿だ。
こんな真夜中にどうしたのか。
普段は害意を感じでもしない限りムトーは起きない。なにをしているのかが無性に気になってしまい、エレネシアは身を起こした。
彼女は外に出た。
ムトーがどこへ向かったのかは見当もつかなかったが、思いのほかすぐに彼は見つかった。
掘っ立て小屋の屋根の上に、腰を下ろしていたのだ。
しばらく様子を見守っていたが、ムトーが動く気配はない。
ただじっと夜空を見上げたままだ。
なぜかその姿が今までの彼とはどこか違って、エレネシアには穏やかなものに感じられた。
ゆえに、自然と言葉が口を突いた。
「なにをしているの?」
すでにそこにエレネシアがいることは承知のことだったか、さして驚いた風でもなくムトーは答えた。
「あのときの月は、どんなものだったかと思った」
「あのときの月?」
エレネシアの問いに、ムトーは彼女を振り返った。
視線が胸に突き刺さる。
「君の月だよ」
思わぬ答えに、エレネシアは神眼を丸くした。
気を取り直すように瞳を閉じて、彼女はゆっくりと宙へ浮かび上がる。そうして、屋根の上に足をついた。
「アーティエルトノアがどうしたの?」
「どうしたんだろうね」
はぐらかしているような台詞だったか、彼の表情はいつになく真剣だ。
自分でもまだ答えが出ない。だから、眠れないのかもしれない。彼女にはそんな風に感じられた。
そっと、エレネシアは手をかざす。
すると、魔弾世界の月の隣に、ゆっくりと白銀の月が昇った。それはキラキラと輝く雪月花を降らせ、屋根の上にいたムトーを幻想的に照らし出す。
彼は目を細め、創造の月を見上げた。
「…………ああ…………」
と、感嘆の声を漏れた。
「これが見たかったんだ。ありがとう」
ムトーはそう無邪気に笑いかけてきた。
今なら言葉が通じる気がして、エレネシアは彼の隣で、静かに座り込んだ。
「……どうして?」
一瞬考えるようなそぶりを見せた後、ムトーは再び《創造の月》に視線を向ける。その輝きに視線を吸い込まれるようにしながら、彼は言ったのだ。
「綺麗だから」
エレネシアが再び神眼を丸くする。
なんのてらいも台詞だった。
もとより、ムトーは言葉を取り繕うような性質ではない。
だからこそ、彼の口からそんな言葉が出てくるとは夢にも思わなかった。
「驚いた」
エレネシアもまた率直な言葉を返した。
「そうかい?」
「あなたに闘争以外の情緒があるとは思わなかった」
ちらりとエレネシアに目を向けた後、ムトーは視線を伏せる。そうして、ぽつりと口にした。
「オレも思わなかったよ。なにかがこんなにも綺麗だと思ったのは生まれて初めてだ」
「一度も?」
「そう、一度もね、オレはないんだ。みんなが綺麗だって口にする言葉が、理解できなかった。これまでは」
また彼は《創造の月》を見上げる。
「たぶん、君の月だからだろう」
エレネシアは僅かに首をかしげた。
ムトーの言葉の意味がよくわからなかったのだ。
「……あなたには、創れない?」
「いや、創れるよ。見た目だけなら、今すぐにでも」
ますますエレネシアは不思議そうにムトーを見返した。
「でも、オレが創った月はあんなに綺麗にはならないだろうね」
エレネシアは無言で彼を見返す。
やはり、ムトーの気持ちが理解できないでいた。
「どうして?」
「それがわかれば創れるよ」
苦笑するようにムトーは言った。
第二魔王と呼ばれる彼の表情は、まるで幼い少年かのようにあどけない。
エレネシアはなぜか、言葉に詰まっていた。
「わからない」
ムトーは言う。
どこか楽しげに。
どこか、嬉しそうに。
「わからないんだ。君はオレよりも遥かに弱い。小指一本でも、オレは君を滅ぼすことができる。だが」
強い瞳がまっすぐエレネシアを見つめる。
彼女の深淵を覗くように。
彼女をもっと知ろうとするように。
「君の攻撃をオレは避けることができなかった。君の害意をオレは感知することができなかった」
どこまでもまっすぐ魔眼を向けながら、彼は語る。
「君との勝負に、なぜ負けたのか。オレにはわからない。きっと、君はオレが持っていないなにかを持っているんだろうね。オレが、もっと強くなるためのなにかを」
ムトーは胸の内を打ち明ける。
だが、エレネシアの思考はただ一つのことに支配されていた。
「……負けた?」
そう彼女は聞き返す。
「君は確かにオレに一撃を入れた。勝負は君の勝ちだ」
当たり前のようにムトーは答えた。
確かに、勝負の内容はそうだった。
だが、あのときのエレネシアは決して勝負で彼を叩いたわけではない。それが有効だとは思っていなかったのだ。
「……それでは?」
「ああ、もちろん約束は守るよ。一週間後に君を解放しよう」
はっきりとムトーは言った。
エレネシアの胸中に安堵がよぎる。だが、次の瞬間にはもうその心は不安で塗りつぶされていた。
たとえ、ここから解放されようとも、彼女に自由などない。再び神魔射手オードゥスの籠に閉じ込められるだけだろう。
エレネシアの問題は、何一つ解決したわけではないのだ。
「エレネシア」
ムトーに呼びかけられ、エレネシアは顔を上げた。
彼はさらりと言った。
「逃がしてやろうか?」
彼女は一瞬返答に詰まる。
ムトーの意図がよくわからなかった。
彼にそんなことをする理由はない。
「……そうすれば、あなたはオードゥスと戦えるの?」
「いや。あいつは次の創造神を探してくるだけだろう。どうやら、大提督と神魔射手はなにがあってもオレとは戦いたくないらしい」
その説明を聞いて、ますますエレネシアは疑問を覚えた。
「では、なぜ私を逃がそうと?」
「オレは君が気に入ったんだ」
考え込むように、エレネシアは目を伏せる。
「それだけで?」
「わからない奴だな」
ムトーの手が、エレネシアの手に重なる。
不思議そうに彼女が見返すと、その瞳が迫ってきた。
彼女の呼吸が止まる。
魔弾世界の月と《創造の月》、二つの月明りの下、ムトーはエレネシアの唇を奪っていた。
「君が好きだと言ったんだ」
至近距離で彼は囁く。
「オレと来い、エレネシア。神魔射手だろうと、大提督だろうと、君には手を出させない」
その言葉に、しかしエレネシアはなんの返事をできなかった。
ただ呆気にとられたように、ぼんやりと彼を見つめるばかりである。
長い沈黙が続いた。
「嫌なのか?」
「ムトー」
静謐な声が、優しくこぼれ落ちる。
彼の目を優しく見返し、エレネシアは言った。
「あなたの気持ちは嬉しいこと。されど、この身は神なれば、慈愛はあれど愛は持たない。私は世界であり、そしてただ一つの秩序。人とは異なる存在」
エレネシアの言葉を受け、今度はムトーが黙り込んだ。僅かにうつむく彼を、月明かりがそっと照らし出す。
その視線はじっと虚空に向けられていた。
「そうか」
納得したようにムトーは言う。
「そういえば、そうだった。君があまりに神族らしくないから忘れていたよ」
少し寂しそうに彼は笑ったのだった。
芽生えた想いは、届かず――




