慈愛の掌
エレネシアがムトーの人質になってから、月日は流れた。
神魔射手オードゥスや大提督ジジが彼女を取り戻しにやってくるようなことはなく、変わらない毎日が続いている。
ある日のこと、マングローブの林を創造神エレネシアは歩いていた。
人質ではあるのものの、この一帯ならばどこへ行っても咎められることはない。
自由と言えば自由だったが、心はそれとはほど遠かった。
第二魔王ムトーはどこにいても彼女を監視している。エレネシアが逃げ出す素振りを見せれば、たちまち連れ戻されるだろう。
このマングローブの林は、彼女にとって巨大な鳥籠のようだ。
なにより、第二魔王ムトーから解放されたからといって、決して自由になるわけではない。
先代の創造神テルネスよりこの世界を引き継ぎ、彼女は魔弾世界の創造神となった。
主神である神魔射手オードゥスは、銀泡を弾丸にする銀滅魔法<銀界魔弾>の開発を進めている。
エレネシアはその創造の力にて小型銀泡を創るように要求されている。さもなくば、神魔射手はすでにある銀泡を弾に使うという。
今現在、魔弾世界の住人が生きている世界そのものを。
彼女が小型銀泡を創造しなければ、確実に一つの世界が滅びるのだ。
ただ魔法実験のためだけに。
「ここが本当に進化した世界……?」
自問するように一人、彼女は呟いた。
銀水聖海の理を、今はよく理解している。かつての彼女が創造した世界は、泡沫世界だった。それゆえに火露が流出し、世界では常に争いが絶えなかった。
この深層世界では火露が一方的に流出することはない。
泡沫世界から、逆に火露が入ってくる。
滅びと創造の整合はとれており、元首の統治により世界内部で目立った紛争はない。
少なくとも、世界の行く末が危ぶまれるような大戦は起こる気配すらなかった。
多少の小競り合いは、すぐに元首たる深淵総軍が平定するだろう。
大提督ジジは盤石といっても過言ではないほどの戦力を有している。
にもかかわらず、彼らは軍備の増強に務めている。そのことは、世界の外に敵がいることを示唆していた。
結局、変わらないのだろうか、とエレネシアは思う。
たとえ火露が流出せずとも、秩序がどうであれ、人は争いを起こすのだ。
その世界が平和になれば、今度は世界の外にまで戦火を広げる。
もしも、自分のいたあの世界が、火露の流出を食い止められていたら、魔弾世界と同じように他の世界と争うことになったのだろうか。と、彼女はそんなことを考えてしまう。
銀水聖海は広い。
果てしなく広大だ。
自らの世界にならくまなく行き届いた彼女の神眼をもってすら、その全貌を予想することさえできない。
その果てしなさは、彼女には平和までの距離に感じられた。
どれだけ平和を求めても、そこには永遠にたどり着けない。そんな風に思えてしまうほどに、この銀海は果てしない。
たとえ、神魔射手オードゥスのことが解決したとしても、それですべてがうまく回るわけではない。彼らとて、無闇矢鱈に戦力を増強しているわけではない。平和的とは言い難いものの、結局のところそれは自衛だ。
外敵を一方的に撃破するだけの戦力を保有することが、魔弾世界の住人にとっての平和を意味する。
そのことをエレネシアはよく理解していた。
「けれど、それより前に……」
いずれにせよ、当面の問題は第二魔王ムトーだ。
人質になっているこの状況では、平和を案じるどころではない。
彼の目的は、神魔射手オードゥスと大提督ジジ・ジェーンズ。このままエレネシアが人質になり続けることで、彼らはムトーと戦わなければならないのかもしれない。
魔弾世界の滅亡など頓着せずに、ムトーは全力を出すだろう。
守るためでもなく、恨みでもなく、ただ戦うためだけに戦う。そんな争いは、過ちとしか言いようがないと彼女は思う。
それでも、彼を止める力も、言葉も、エレネシアは持っていなかった。
まるで暗闇の中に一人でいるようで、彼女はゆっくりと空を見上げた。
分厚い雲が一面に広がり、月を覆っている。
エレネシアはただその暗闇を見つめるしかなかった。
そのときだ。
闇夜に細い光が走ったかと思えば、それが途方もなく膨れ上がった。
天地をつなぐ光の柱がマングローブの林を吹き飛ばしていく。
震源地は、ムトーがいるほったて小屋である。
尋常ではない魔力だった。ムトーのものに違いない。
恐らく、また誰かと戦っているのだろう。
そう思ったエレネシアは、すぐにほったて小屋まで飛んだ。
近づくにつれ、だんだんと光が収まっていく。
先ほど感じたムトーの魔力が、今は完全に消えていた。
決着がついたのだろうか、とエレネシアは辺りを見回す。
だが、攻撃したはずのムトーの姿がどこにもない。
彼が戦っている相手もいない。
エレネシアは神眼を凝らし、彼を探した。
光はますます消えていく。
視線を巡らしていたエレネシアは、次の瞬間はっとした。
ムトーを見つけたのだ。
徐々に収まっていく光の、その中心に、彼は横たわっていた。
「……ムトー……?」
その魔法の威力が殆ど収まっていることを確認した後、エレネシアは光の中心に飛び込んだ。
ムトーのそばにまでたどり着いた彼女は息を呑む。
ボロボロだった。
全身はもとより、その根源が今にも崩壊してしまいそうなほど傷ついている。放っておけばものの数分で滅びるだろう。
容態を把握するなり、エレネシアは手をかざした。
闇夜に現れたのは、《創造の月》アーティエルトノア。白銀の光がムトーに降り注ぎ、傷ついたその根源を優しく癒やしていく。
彼が滅びれば、エレネシアは解放される。だが、彼女にはそんなことさえ頭になく、ただただ夢中で崩壊しそうな根源を創り直していた。
「……じゃ……」
かろうじて滅びを免れたか、ムトーがかすれた声を発する。
「まだ声は出さないで。私の力で治せる保証はない」
エレネシアはその場に座り込むと、ムトーの胸に手をかざす。そうして、雪月花を舞わせた瞬間、彼がその手を乱暴につかんだ。
エレネシアが目を見開く。
「……邪魔を……しないでほしい……」
彼女は一瞬、言葉に迷う。
なにを言われたのか、よくわからなかったのだ。
「……それは……戦いの邪魔ということ……?」
「……鍛錬だよ……」
エレネシアは絶句した。
考えてみれば妙だった。
放たれた光の柱からは、確かにムトーの魔力を感じた。だが、ここに来てみれば、倒れていたのは魔法を放ったはずの彼だ。彼が戦っていたはずの敵の姿はどこにもない。
「……あなたは、まさか……」
エレネシアがはっとしたちょうどそのとき、滅びかけだったムトーの根源に魔力が満ちた。
アーティエルトノアの力ではない。
まるでロウソクの火が消える寸前、明るさが増すように彼の根源が輝きを放った。すなわち、灯滅せんとして光を増し、その光を持ちて灯滅を克す。
そうして、第二魔王ムトーは、平然と起き上がった。
「滅びを克服するために、自らの魔法と戦っていたの……?」
「君の言いたいことはわかるよ。このやり方じゃ今更、大して強くもなれない。まあ、日課みたいなものだよ」
ムトーは苦笑いを浮かべた。
エレネシアの疑問を、彼は別の意味に捉えているようだ。
彼女はすっと立ち上がり、まっすぐ射貫くようにムトーを見つめた。
「一歩間違えれば、滅びていた。いいえ」
自らの言葉を否定し、エレネシアはこう断言した。
「このようなことを続けていれば、あなたはいつか本当に滅びる」
「それぐらいじゃないと、運動にもならない。体がなまっちゃうからね」
「なんのために」
静謐な声で、咎めるようにエレネシアは言う。
「あなたはなんのために力を求めるの?」
ムトーは口元に手をあて考え込む。
数秒考えた後に、彼は言った。
「欲しいから」
彼がそう口にするのと同時、乾いた音が響いた。
エレネシアがムトーの頬を叩いていたのだ。
彼は不思議そうな表情で、自らの頬に触れている。ムトーには害意がわかる。エレネシアが彼を叩こうとしたなら、手を動かす前にそれがわかるはずなのだ。
だが、ムトーは察知することができなかった。
「あなたは自らを大切にできないから、他者を大切にすることができない」
ムトーに一撃を入れたことなどまるで頭にはなく、エレネシアは憤りをあらわにした。
「自らを守るためでもなく、大切な人を助けるためでもなく、ただ強くなるために強くなる。そんなことに意味はないと私は思う」
エレネシアの言葉に、ムトーは反論しなかった。
彼は黙り込んだまま、エレネシアをじっと見つめている。
そうして、どのぐらい経ったか。彼は初めて、彼女の前で柔らかい笑みをみせた。
「君は意味ばかりを問うね」
なぜか人懐っこく、ムトーは言ったのだった。
彼女の力では、決して届かない。そのはずだった――