戦う意味
真夜中。
すーすーと寝息が聞こえてくる。
マングローブの掘っ立て小屋。吊り下げたハンモックの上で、第二魔王ムトーは眠りについていた。
エレネシアはベッドに身を横たえながら、彼の様子を観察していた。
一撃入れることができれば勝ちだ。ムトーはせっかく人質にとった彼女を解放しなければならない。
にもかかわらず、ムトーはエレネシアのそばを寝床に選んだ。
人質なのだから、当然といえば当然かもしれない。しかし、彼はエレネシアを拘束することさえせず、あまつさえ先に眠ってしまった。
正直、彼女には理解しがたい行動であった。
だが、チャンスだと思った。
物音を立てないように、エレネシアはゆっくりと身を起こし、ベッドから下りた。
彼女は静かにハンモックのそばまで歩いていく。
手が触れられるほどの距離にまで近づいても、ムトーは起きる気配がまるでない。
「いつでも……とあなたが言ったこと」
言葉を発しても、彼はなんら反応しない。相変わらず、すーすーと気持ちよさそうに眠っている。
その表情だけを見れば、あたかも幼い子供のように錯覚する。
エレネシアはすっと手のひらをかざし、雪月花を降らせようとして、はたと思いとどまった。
魔力を使えば、その時点で勘づかれる可能性がある。完全に熟睡しているとはいえ、相手はムトーだ。
無論、魔力を使わずに彼を傷つけられるはずもないが、彼との勝負は一撃を入れればエレネシアの勝ちだ。
かすり傷にすらならずとも当てさえすればいい。
エレネシアは魔力を殺したまま、静かに手で拳を作る。申し訳なさそうな表情を浮かべた後、意を決して素早く振り下ろした。
「勝負かい?」
エレネシアは神眼を丸くする。
下ろした拳は空を切り、ハンモックを叩いていた。彼の姿は消えており、声は背後から聞こえてきた。
「……寝ていなかった?」
そう彼女は疑問を向けた。
「いいや。寝てたよ。ぐっすり」
そう口にして、ムトーは眠たそうにあくびをする。
目を覚ますなり、拳をかわし、一瞬にしてエレネシアの背後に回り込んだのだ。その速さに今更驚くことはない。
だが――
「……魔力は使っていないのに、どうして……?」
「害意だよ」
その意味を図りかねたか、エレネシアはすぐには口を開けなかった。彼女の戸惑いを察して、ムトーは説明を加えた。
「攻撃よりも意識が早い。君が攻撃をしようと害意を持った時点で、それがオレにはわかる」
「そんなことが……?」
できるはずがない、とは言えない。
ここはエレネシアが創造した世界とは違う。銀水聖海では自らの知らないことが溢れているのだろう。そう彼女は思った。
そして害意を感じとれるのなら、魔力を殺しても意味はない。つまり、ムトーに不意打ちはほぼ効かないということだ。
「続き、やろうか」
「…………」
エレネシアが絶句すると、ムトーは不思議そうに彼女を見た。
「どうかしたかい?」
「……あなたが起きた以上、もう勝負にはならない」
すると、ムトーはまっすぐな瞳を向けてきた。
戦意でも、闘志でもない。
もっとひたむきななにかだ。
「確かにオレは強いよ。だけど、やってみなきゃわからない」
エレネシアは言葉を返さず、怪訝な瞳で彼を見つめた。
これだけの力を持っておきながら、ムトーはどうやら本気で言っているようだ。それが彼女には信じがたかったのだろう。
「あ」
と、ムトーはドアに視線を向けた。
「ちょっと待ってて」
そう言いながら、ムトーが歩き出す。
「どこへ?」
「お客さんのお出迎え」
彼はドアを開き、外に出る。
マングローブの浅瀬。暗闇の中、月明かりに照らされ、人影が僅かに浮かび上がる。
一つ、二つ、三つ――四人だ。
彼らは魔力を隠していなかった。
「第二魔王ムトー!」
前に出た一人の男が声を張り上げた。
「私はドルフィン・グロウ! 覚えているかっ!? 二〇〇年前、貴様に敗れた魔炎世界の炎術士をっ!!」
木の上から飛び降りて、ムトーは答えた。
「魔炎世界の神童と呼ばれていた子だね。一七歳でその世界の魔法すべてを極めた。覚えているよ」
ムトーは笑う。
楽しみなおもちゃを目の前にしたかのように。
「強かったから、将来が楽しみだと思って生かしておいた」
「私は強くなった。魔炎世界ラジアスが元首になるほどに!」
ゴォッとドルフィンの体から炎が立ち上る。瞬間、マングローブ林一帯の気温が急上昇した。
焼けつくような熱波が渦巻く。
川の水が蒸発し、瞬く間に涸れた。
「魔炎帝として、今日こそ二〇〇年前の汚辱を注ぐ。尋常に立ち会うがいい!」
ドルフィンが堂々と訴える。
それを聞き、ムトーはまるで友達に向けるような笑みを見せた。
「待ってたよ。やろう」
ドルフィンが前へ出ると、残りの三人は後ろに下がる。
立会人なのだろう。二人の戦いを見守るといった風である。
「私は一時たりとも忘れたことはなかった」
ドルフィンは言う。
「お前に五秒で心臓を貫かれた、あの屈辱の日を」
ドルフィンが手のひらをかざせば、どっと炎が溢れ出し、竜巻と化していく。
火の粉が夜空を覆い尽くす。
なるほど、魔炎世界の元首というのも伊達ではない。僅かに力を解放しただけで、マングローブ林が炎に包まれている。
エレネシアは雪月花にて火の粉から己の身を守ったが、それも長くは続かないだろう。
二人の戦いが長引けば、その余波だけで彼女は炎に飲み込まれてしまう。尋常ならざる魔力であった。
「どれだけ力をつけようと、魔炎世界の元首になろうとも、私の心には穴が空いたままだった。あの日、私は私であることを失ったのだ」
右手を前へ突き出し、ドルフィンが構えれば、魔力が一気に跳ね上がった。
「第二魔王ムトーッ! お前が不可侵領海であろうと知ったことではない! 私は今日、私の尊厳を取り戻しにきたのだ!!」
炎を噴出しながら、ドルフィンは真正面からムトーに飛びかかる。世界を燃やし尽くさんがばかりの魔炎がその右手に凝縮され、第二魔王に撃ち放たれた。
ムトーは黒い短剣をすっと目の前に構え、一閃した。
「がっ……!!」
放った魔炎ごとドルフィンは根源を切り裂かれ、膝をつく。
歯を食いしばり、手をついて立ち上がろうとするが、体に力が入らないのか、彼はそのまま地面を舐めた。
「三秒」
伏したドルフィンの前に立ち、ムトーが三本指を立てる。
「二秒縮めたね」
まるでどれだけ短い時間で倒せるかの遊びをしていたかのように、ムトーは軽い調子でそう言った。
二〇〇年前より、ドルフィンは確かに強くなったのだろう。
だが、第二魔王ムトーはそれ以上に強くなっていた。
「…………く……………………ご………………」
根源を切り裂かれたドルフィンの体が、ボロボロと崩れていく。
「ど、ドルフィン様っ!」
従者三人が駆け寄ろうとすると、ムトーは彼らに視線を向けた。
「次は君たちの番?」
一睨みで、三人の足が止まる。
忠誠心がないわけではないだろう。だが、ムトーの圧倒的な魔力に畏怖を覚え、従者たちは足が竦んで動けなかった。
「やらないなら帰りなよ」
いつも通り、柔らかい口調だ。
だが、従者の三人はガタガタと体を震わすばかりだ。
「彼らは戦いたかったわけではない」
静謐な声が響く。
ドルフィンのそばへ転移したエレネシアは、雪月花にて彼の根源を創り直していく。
「主を救いたかっただけ」
傷は深いが、まだ手遅れではない。
彼女の権能でも、かろうじて治療することができる。
「なぜあなたは悪戯に命を奪う?」
臆せず、エレネシアは問うた。
「悪戯に奪ってはいない。戦いの結果だ」
「戦う必要はない。この戦いになんの意味があった?」
悲しげに、エレネシアは再び問う。
「彼が勝負を挑んできた。オレはそれに応じた」
淡々とムトーが答える。
エレネシアの憂いが、彼にはまるで伝わっていない。
「逃げれば避けられた」
「逃げる……?」
意味がわからないといったようにムトーは首をひねった。
「逃げられるのなら、逃げればいい。争いは悪しきこと。まして、あなたに戦う意味など、どこにもないのだから」
「戦う意味……」
すぐに反論はなく、そんな呟きが漏れた。
数秒ほど考えた後に、ムトーは言う。
「深く考えたことがなかった。今度、考えておくよ」
エレネシアは怪訝な表情を浮かべる。
彼の声音にはまるで嘘がない。その表情も真摯に彼女に向き合っていた。けれども、それはエレネシアの糾弾にはそぐわないほどの浮いた台詞だ。
本当にわかっていないのだ。
第二魔王ムトー。彼には善悪がまるでない。
踵を返した背中を見て、エレネシアはそんな風に感じていた。
相容れぬ二人の想い――
いつもお読みいただきありがとうございます。
書籍10巻下がそろそろ出回っている頃かと思いますので、
是非是非よろしくお願いします。