待望
王宮まで延々と立ち並ぶ桃の木。その道を挟んで、大きな舞台が二つある。
そこは並木道の式場と呼ばれる場所だ。白塗りされた木材で組まれた舞台の上には、花びらが降り積もり、鮮やかな桃色に染まっていた。
上手の舞台に立つのは、蒼い花の少女、シータである。
彼女は俯き加減で、手をきゅっと握りしめていた。
静かな大気が漂う中、長い黒髪が小刻みに揺れる。
シータは震えている。
隣の舞台には来るはずだった彼女の友人、リンファの姿がない。それどころか、赤聖歌唱団の一人として、未だ姿を現わさなかった。
彼女はかつて、エレンに語ったことがある。
蒼花歌唱隊はきっと悪いこともいっぱいしてる、と。
ベルンが暗躍していることに薄々と勘づいていたのだろう。それでも、確証には至らなかった。確証に至らず、仲間を疑うことなどあってはならないと思っていたのやもしれぬ。
しかし、この最終神選の場にリンファたちがやって来ない理由と結びつけるには十分すぎる疑念だ。
シータの胸中は如何なるものか。
幼き日に交わした、果たせなかったはずの約束。けれども、それを果たすためにリンファは吟遊神選にやってきた。
そして、その実力で最終神選の舞台に上がる権利を勝ち取ったのだ。
昔と変わらない、力強い歌声で。
昔よりも、遥かに成長した姿で、リンファは素晴らしい仲間たちを引き連れてやってきた。
その夢を、もしかしたら蒼花歌唱隊が卑怯な手段で奪ってしまったのかもしれない。
あるいは、そんな不安が彼女の胸に渦巻いている。
『――赤聖歌唱団リンファ候補者が最終神選の舞台に現れません。定刻はすでに大幅に過ぎております』
並木道の式場、そしてウィスプウェンズ全土に<思念通信>が響いた。
『前例に則り、リンファ候補者を棄権と判断します。よって、最終神選にて選ばれましたのは、蒼花歌唱隊シータ候補者となります』
一瞬のざわめきが聞こえたその直後だ。
大きく歓声が上がった。
蒼花歌唱隊の支持者たちだろう。最終神選を見るため、並木道の式場に集まった彼らは皆、シータの勝利に盛り上がっている。
「待って!」
大歓声をかき消すように、その声は世界中に響き渡る。
口にしたのは他でもない、勝者たるシータだった。
「リンファは必ず来る。だから、それまで待って」
自らの支持者たちへ、そして吟遊神選の進行役へ、彼女はそう訴えた。
『すでに取り決めよりも長く待ちました。これ以上の遅滞は、神詩ロドウェルに失礼にあたるため、承服することができません。吟遊神選を滞りなく進めることも、候補者として必要な作法。如何なる理由があれど、彼女はそれを成せませんでした。あなたが選ばれたのです』
「……選ばれてなんかいない……」
呟くように、シータが言う。
「誰も納得しないよ。みんな聴いたでしょ、リンファの歌を。彼女と歌い合って、彼女に勝たなきゃ、選ばれたなんて思えない。吟遊宗主はウィスプウェンズで一番の歌い手のことなんだから」
毅然とした声で彼女は訴える。
まるで歌のようなその調べは、シータの想いを聴く者へと伝える。
『吟遊宗主にはしかるべき作法も必要です』
「少し遅れたぐらいで、なにが作法なの」
民たちがぎょっとする。
それは神聖なる吟遊神選を貶める言葉だ。これから吟遊宗主になろうという者が口にしていいことではない。
『シータ。言葉は柔らかく、敬意をお持ちください』
「じゃ、君たちは、リンファに敬意を持ったことがあるの?」
そこに集まった民たちへ。そして、世界中の吟遊詩人へ彼女は告げた。
「リンファは器霊族だってだけで、吟遊詩人になれない。彼女が表舞台に立てるのは、この吟遊神選だけ。生涯で1回だけ」
一度選ばれなかった者は、吟遊神選に立候補することができないのだろう。リンファに次はない。ゆえに、シータは頑として引かなかった。
「リンファに与えられたチャンスは、たったの1回。それでも、彼女は文句も、泣き言も言わずに、その1回にすべてを懸けてきた」
まっすぐ前を向いて、シータは言う。
「わたしたちが奪ったんだよ。彼女から。吟遊詩人になるチャンスを。表舞台で歌うチャンスを。それでも、リンファは諦めず、歌い続けてきた」
それがどれほどの苦難の道だったか。シータにはわかったのかもしれない。
瞳に涙を溜めながら、彼女は力強く訴えた。
理不尽に激しく怒りを燃やしながら。
「少しぐらい返してあげてもいいでしょ。これはたった1回しかないチャンスの中、リンファが実力で勝ち取った舞台だよ」
並木道の式場は静まり返っていた。
庭園劇場やウィスプウェンズ全土でもそれは同じだっただろう。
皆、彼女の言葉に耳を傾けている。
黙っていれば世界元首になれる機会を放棄してまで、シータはすべての民へと語りかけている。
リズムもメロディもな。、けれどもそれは確かに詩だったのだ。
「わたしは……」
シータは言う。
「だって……わたしは……ずっと……」
涙の雫がこぼれ落ち、桃の花びらを優しく濡らす。
「ずっと、待ってた。いつか、リンファと歌える日を。誰よりも熱い歌を歌う、わたしの大好きな吟遊詩人が、嫌なことをぜんぶ歌い飛ばして、わたしの目の前にやってくるのを。ずっと、待ってたんだっ!」
それは叶わぬ夢のはずだった。
だから、彼女は願わぬようにしてきたのだろう。
それでも、心のどこかに一縷の望みがあったのだ。
リンファならば、もしかしたら、と。
シータの願いに、言葉を返す者はいなかった。
わかった、とは言えない。
なにか口にするとすれば、それでもやはり、吟遊神選の定めに則らなければならないという他あるまい。
それを告げたくはないからこそ、皆黙っていたのだ。
ゆえに、一人だけだ。
彼女に声をかけられる存在は。
「ほら」
その声に目を見開き、シータの気持ちが顔に溢れ出す。
「やっぱ待ってたんじゃん」
下手の舞台に人影が現われる。
特徴的なお団子ヘアにささった赤い花。赤聖歌唱団のリンファは、得意満面といった表情でシータに視線を向けていた。
シータの声はウィスプウェンズ全土に響いていたのだ。
最初からずっとリンファにも聞こえていただろう。
「リンファ……」
僅かに笑みを浮かべようとして、シータは彼女が一人だということに気がついた。
リンファの衣装は、所々破れている。
まるで、何者かに襲われたと言わんばかりに。
「イリヤさんたちは……?」
「第二神選でだいぶ無理したから、倒れちゃって。それで遅くなった」
それが嘘だということぐらい、シータにわからぬはずもない。それでも、なんの心配もないというようにリンファは笑った。
「シータ」
彼女は言う。
人懐っこく、親しげに、まるで幼き日に過ごした友のように。
「待たせてごめん」
万感の想いが去来したかといったように、シータの表情が泣き笑いに変わった。
顔を上げ、昔を思い出すように彼女は言った。
「早く歌おうよ。みんな、わたしたちを待ってる」
二つの視線が交差して、リンファとシータは同時に振り返った。
両者は舞台の中央に立った。
祝福するように温かな風が通り過ぎていき、桃の花びらが舞う。
ずっと追いかけてきたリンファ。
ずっと待っていたシータ。
二人が願った夢の舞台。
選ばれるのは、一人だけ。
最終神選の幕が開く――
かつて夢だった舞台に少女たちは辿り着いた――