雲海迷宮
絵画世界アプトミステ。雲海迷宮。
銀水船ネフェウスは雲の中を突き進んでいた。
雲海迷宮の名の如く、進行方向にはひたすら雲が広がっている。そこは方向感覚を狂わせる迷宮だ。
まっすぐ進んでいたはずが、いつの間にか進路が変わり、入り口へと戻っている。それならばまだいい方だ。運が悪ければ、雲海迷宮の奥深くへ迷い込み、永遠に出られなくなることもあるという。
絵画世界の住人とて、この雲海の中で正確に進路を取ることは難しい。
バルツァロンドの銀水船も、絵画世界の元首ルーゼットから《方位絵画》をもらわなければたちまち迷っていただろう。
《方位絵画》に描かれた正しい方位が光の矢印となって具現化している。銀水船ネフェウスはそれに従い飛んでいるのだ。
「あとどのぐらいかな?」
銀水船の船首にて、目の前を見据えながら、レイが問う。
「数分ほどだろう」
そうバルツァロンドが答えた。
神画モルナドが置かれた場所までの所要時間だ。
「先に辿りつけると思うかい?」
「元首ルーゼット、画神バファディが雲海迷宮に永遠回廊を構築している。
どれだけ永遠に続く円環の回廊だ。《方位絵画》を持たない者が雲海迷宮の祭壇に辿り着くのは、通常ならば不可能だ」
通常ならば、という言葉にバルツァロンドは含みを持たせた。
「つまり、その永遠回廊すら超えてくるってことかい?」
バルツァロンドがうなずく。
「恐らくは。そもそも、なんの手立ても持たないなら、わざわざ雲海迷宮に入るなど考えられはしない」
「絵画世界の元首と主神の力が、時間稼ぎにもならないってことはないと思うけどね」
自らの世界において、主神と元首はその力を最大に発揮する。永遠回廊の力も並大抵のものではあるまい。
「無論だ。だが、現れた絡繰神がイーヴェゼイノで元首アノスが戦った奴だとするのならば、条件は五分五分と見た方がいいだろう」
絡繰神ならば雲海迷宮を吹き飛ばすこともできるやもしれぬ。だが、それでは目的の神画モルナドまで破壊しかねない。
目的の物を手に入れるまでは、奴はこの世界で全力を出すわけにはいかぬはずだ。
「なんとしてでも、先に押さえなければならない。神画モルナドを手に入れたならば、奴はこの絵画世界を残しておく理由がない」
神画モルナドを破壊する恐れがなくなれば、奴は<銀界魔弾>を手加減なしでいつでも撃てる。
救援にやってきたレイたちを一網打尽にするにはもってこいだ。
そうはさせぬとばかりに、銀水船ネフェウスは全速力で雲海迷宮を飛び抜けていく。雲をいくつも通り抜け、やがて視界が一気に開けた。
そこにあったのは、巨大な雲の祭壇である。
中心に多面体の物体が浮かんでいた。どの面にも額縁があり、絵が描かれている。
神画モルナドだ。
辺りに敵影はない。モルナドも無事だ。
どうやら、絡繰神よりも早く到着したようだ。
銀水船ネフェウスは祭壇まで移動していく。
「神画モルナドを回収する」
そう口にして、バルツァロンドは船から飛び上がった。
彼は祭壇の中心に浮かぶ神画モルナドへと向かう。その瞬間、雲間を切り裂き、閃光が走った。
「バルツァロンドッ!」
瞬時に察知したレイは、エヴァンスマナを抜き放ち、バルツァロンドの背後を守る。
ガギィィッと甲高い音が鳴り響き、レイの視界に絡繰神の顔が映った。握った聖剣をぐっと押し込み、霊神人剣と鍔迫り合いに興じる。
「はぁっ……!!」
気合いとともに、蒼白き剣閃が走った。それは難なく聖剣を切断し、絡繰神の胴体を真っ二つに斬り裂いた。
僅かにレイは表情をしかめる。その手応えに疑問を覚えたのだろう。
そして、それよりも数瞬早く、真っ二つになった絡繰神が矢のように飛んだ。
上半身と下半身は神画モルナドの前で、半液体化して結合し、元通りの姿となった。
「君は、隠者エルミデかい?」
霊神人剣を構えながら、レイが訊く。
「問わねばわからぬ貴様らの末路は知れている」
「そうかな?」
と、レイが言った瞬間、雲間を割って四つの銀水船がそこへ降りてきた。
乗っているのはバルツァロンドたちとともに絵画世界へやってきた狩猟貴族。
男爵レオウルフ、子爵フレアドール、侯爵レッグハイム、叡爵ガルンゼストである。
「我ら五聖爵とミリティアの勇者レイが相手だ。貴様は勝ち目どころか、逃げることさえできはしない」
そう言いながら、バルツァロンドは弓を引き絞る。
「追い詰めたと思っておるのか? この隠者エルミデを」
嘲るように、そいつは言った。
「釣り出されたとも知らずに」
そのとき、雲海迷宮が激しく揺れた。
絵画世界のどこかで膨大な魔力が弾けたのだ。
ガルンゼスト叡爵がはっとする。その表情はいつになく青ざめていた。
「<銀界魔弾>です……!!」
直後、爆音が耳を劈いた。
雲海迷宮の中にいて、なおもけたたましいその音が、被害の大きさを物語っている。
すぐさま、オットルルーから<思念通信>が届く。
『<銀界魔弾>の二射目が着弾しました。被害は甚大、絵画世界は崩壊を始めています。元首ルーゼット、画神バファディの力ではこの銀泡を維持することができません』
五聖爵とレイが険しい表情を浮かべる。
ここで奴を捕らえたとしても、絵画世界は滅びる。それだけは避けねばならぬ。
「レッグハイム卿、レオウルフ卿、フレアドール卿。貴公らは絵画世界の穴を塞いでください。力を合わせれば、まだしばらく崩壊は食い止められるでしょう」
そのために、エルミデはあえて<銀界魔弾>を手加減して撃っている。
絵画世界の守りと修復に戦力を割かせるためだ。
「奴は私たち三人で捕らえます」
弓に優れたバルツァロンド、堅固な護りを持つガルンゼスト、霊神人剣を操るレイ。三人が連携すれば、絡繰神とも戦える。ガルンゼストはそう考えた。
しかし――
「穴を塞ぐなら、ガルンゼスト卿がお得意でしょうっ!」
マントをなびかせ、フレアドール子爵が銀水船を飛び出した。
「我が狩道は獲物の捕縛に適しているっ!」
細剣を抜き放ち、フレアドールはあっという間に絡繰神との間合いを詰めた。目にも止まらぬ突きがその左胸をめがけ一直線に走る。
しかし、隠者エルミデは細剣を片手で難なく受け止めていた。
「このような児戯は通用せんよ」
「勘違いも甚だしいですね」
エルミデの手の平に白い線が浮かび上がり、その腕ががくんと下がる。まるで手が急に重くなったかのようだった。
「狩猟剣アウグストは獲物を切らず、ただ捕縛するのみっ!」
右手、右足、左手、左足、胴体、頭とフレアドールは一呼吸の間にエルミデを滅多刺しにした。
その剣は絡繰神を傷つけることなく、白い線を刻んで体を縛る。
「なにをしているのですか、ガルンゼスト卿っ! 早く行ってくださいっ!」
エルミデに狩猟剣アウグストを刺し続けながら、フレアドールが声を上げる。ガルンゼストは視線を険しくするも、銀水船後退の指示を出した。
「行きましょう、レッグハイム卿、レオウルフ卿」
三人の五聖爵とともに、三隻の船は雲海の中に消えていく。
なおもフレアドールはエルミデに突きを繰り出し続け、奴を縛る白き線を刻み続ける。
「さあ、隠者エルミデ。いいのですか。このままでは、指一本動かすことはできなくなりますよっ!」
ぴくり、とエルミデの手が動いた。
はっとして、レイが叫ぶ。
「避けろっ! フレアドールッ!!」
「もう遅い」
瞬間、エルミデはフレアドールの顔面をつかんでいた。狩猟剣アウグストの束縛などまるで感じさせぬほどの速さだ。
「<覇弾炎魔熾重砲>」
蒼き恒星が至近距離で放たれ、フレアドールが炎上する。だが、追撃することなく、エルミデは背後を振り返った。
バルツァロンドの矢が唸りを上げて襲いかかる。首を捻ってそれをかわせば、同時に飛び込んできたレイがエヴァンスマナを振り下ろした。
左手の魔法障壁がそれを受け止めるも、ピシィ、とそこにヒビが入る。
「来たれよ、輝神剣ヴァゼスタ」
魔法陣から神々しい魔力が漏れ、そこに輝く赤き聖剣が姿を現わす。
霊神人剣が魔法障壁を斬り裂いた瞬間、エルミデは輝神剣ヴァゼスタをレイに突き出した。
咄嗟にレイは剣の軌道を変え、その突きをいなすように受け止める。
「狩猟剣を無防備に受け続けたのは、僕を警戒していたからかな?」
「驕りにすぎんよ。所詮は霊神人剣の力だ」
至近距離にて、レイとエルミデは睨み合う。
レイが輝神剣を弾き飛ばしたのを合図に、両者はそれぞれの剣を同時に走らせた――
死闘が始まる――