シータ
それは、まさに天上の調べだった。
声の一粒一粒が宝石の輝きを発し、耳を優しく撫でていく。
囁くように彼女が歌えば、その声はまるで夜空にちりばめられた星屑となって、語りかけるように彼女が歌えば、声が流星となって降り注ぐ。
これほど美しい音があったのかと思わせるほど、その声は澄み切っていて、聞く者の心を感動に満たす。
このまま永遠に聞いていたいと誰もが足を止めるだろう。
エレンも例外ではなく、その歌声に感銘を受けていた。
しかし、彼女はなにかに気がついたように舞台へと向かって、階段を下り始めた。
立ち止まり、意を決したような表情を浮かべると、次の瞬間、すっと息を吸い込み、なんと同じ歌を歌い始めた。
突如響き渡った力強い歌声に、舞台の上の少女はピクリと反応を示す。しかし、止まることなく歌唱を続けた。
彼女の澄み切った歌声と、エレンの力強い歌声が混ざり合い、天上の調べを更に昇華させていく。
見る者を魅了する輝きを発しながらも、どこか氷のような冷たさがあった歌は、エレンの熱さに感化されたように楽しげな調べへと変わった。
蒼い花の少女はますます力強く、空に向かって歌い上げる。その声量は山を動かさんばかりであり、地下の劇場がガタガタと震えていた。
ついてこられる? と、まるでエレンを挑発するかのように、一瞬だけ少女は彼女を見た。
エレンは笑う。
負けじと彼女はありったけの声量で遙か彼方へと歌声をぶつける。
魔王聖歌隊として歌い続けた日々は彼女を鍛え、その声は街の隅々にさえ轟くだろう。
じゃれ合うように、声と声がぶつかり合い、愉快なハーモニーを奏で始める。
ときに小さく、ときに大きく、ときに早く、ときにゆっくりと、蒼い花の少女は変幻自在に歌い上げる。
どんな歌い方をしても彼女の声は鮮やかに輝き、まるで宝石を違う角度から眺めているかのようだった。
エレンは彼女に合わせ、同じく声量、同じリズムで歌を歌う。心を魔力に変える彼女の歌は、なによりも愛に満ちていて、輝く歌声と共鳴し合う。
まるで宝石の歌に魂を込めているかのようで、その合唱は数十分続けられた。
「――それで」
歌い終わり、青い花の少女がエレンを見た。
「君はスパイ? ここは蒼花歌唱隊以外は入っちゃいけないよ」
「え、あ……」
エレンが慌てた素振りで、声を発する。
「か、勝手に入っちゃってごめんなさいっ!」
と、彼女は深く頭を下げた。
「あたしは、スパイとかじゃなくて、転生世界ミリティアから来ました。エレン・ミハイスです。吟遊神選の候補者を探していたんですけど、迷っちゃって……」
「転生世界ミリティア?」
不思議そうに、青い花の少女はエレンの顔を見た。
「どうりで唱霊族とも器霊族とも違うと思った。エレンはなんていう種族なの?」
「あたしは魔族です」
「魔族は歌が得意なんだ」
「え、うーん、どうかなぁ? 得意な人と得意じゃない人がいるけど」
すると、青い花の少女は意外そうな表情を浮かべた。
「エレンは得意でしょ。即興であんなについてくる人は初めて」
そう口にした後、考える素振りを見せ、彼女は言い直した。
「二人目かな?」
ほんの僅か、少女の頬が緩んだように見えた。
「あたしは聖歌隊なんです。でも最初から上手かったわけじゃなくて、一生懸命練習して、少しずつできるようになったんです」
「魔族は練習すれば、あんなに声が出せるんだね」
「え? えーと?」
エレンがきょとんとした顔で少女を見返す。
発言の意図が、今一つ理解できなかったからだろう。
「わたしは蒼花歌唱隊のシータ・メルン。シータでいいよ」
「じゃ、あたしもエレンで」
「エレンはさっき、吟遊神選の候補者を探してるって言ったよね?」
「うん。ウィスプウェンズにお願いがあって来たんだ」
「そう。わたしも候補者だよ」
「ほんとっ? ちょっと待って」
エレンは候補者のリストを取り出し、それに目を通していく。
「えと、蒼花歌唱隊……蒼花歌唱隊……あった! 蒼花歌唱隊のシータ・メルン……吟遊派で、吟遊詩人の序列が……え、一位っ!?」
エレンが驚いたように声を上げ、リストからシータへ目を移す。
「一位ってことは、シータがウィスプウェンズで一番歌が上手いの?」
「序列は人気順だから。上手いのとは関係ないよ」
真顔でシータは答えた。
謙遜というわけでもなさそうだ。
「でも、やっぱり上手い人が人気があるんじゃないの?」
「どうかな? 今は吟遊派が主流だから、穏健派は上手くても応援してもらえない」
シータの声に不満が漏れていたので、エレンは訊いた。
「派閥で人気が決まっちゃうの?」
「つまらないよね。歌にはなんにも関係ないのに。みんな、わたしの歌が好きなのか、そうじゃないのか、よくわからない」
言いながら、シータはしゃがんで、そのまま舞台に座り込んだ。
「わたしはね、エレン。このウィスプウェンズを出て、色んな世界で歌を歌いたいんだ。だって、この世界はつまらないことに縛られてる。種族の違いや、外の世界と交流するかどうか、どんな主義や心情を持っているか、そんなことばかり言ってる気がする」
床に手をつき、シータは天井を見上げた。
「歌ってそうじゃない。そんなこと歌にはなんの関係もないのに……みんな、純粋に歌だけを聴いてくれないんだ」
疲れたような様子で、彼女はその顔に憂いをたたえる。
エレンもしゃがみ込み、少女に問うた。
「だから、シータは吟遊派なんだ?」
「そう。ここは色んなしがらみがあるから。ウィスプウェンズとは関係ないところで、わたしのことを誰も知らないところで、歌を歌いたかったから」
暗い表情のまま、シータは続けた。
まるでそれが、叶わなかったと言わんばかりに。
「だけどね、吟遊派になればなったで、やっぱりその派閥に囚われる。蒼花歌唱隊のみんなは、わたしを助けてくれるけど、きっと悪いこともいっぱいしてる」
「悪いことって?」
俯き、暗い顔でシータは言った。
「……同じ吟遊派で、序列二位の子が、吟遊神選を辞退したから……」
「蒼花歌唱隊の人がなにかしたってこと?」
シータは考え込む。
それから、言った。
「わからないけど、証拠はなにもないし、仲間を疑っちゃいけないってそう思うけど……でも、二位の子が辞退する理由はなにもなかった。それで有利になったのはわたし。みんな、わたしが吟遊宗主になるだろうって言ってるから」
同じ派閥の候補者がいれば、それだけ票はバラける。候補者が一本化されるほど、序列一位のシータは有利なのは確かだ。
辞退の理由に疑問が残るなら、怪しいのは得をした陣営だというのは道理だろう。
「エレンの歌は、なんだかいいよね」
「え、そ、そうかなっ?」
照れたようにエレンは、シータを見た。
「力強くて、愛があって、細かい道理なんてぜんぶ吹っ飛ばしてやれって、そんな歌に聞こえる。すごく昔、似たような歌を聴いたよ」
シータの口からこぼれたのは、遠い昔を思い出すような声だった。
その歌い手に彼女は憧れを抱いているのかもしれない。
「わたしの歌、どうだった……?」
恐る恐るといった調子で、シータが尋ねる。
「えと、すごく綺麗な歌だったよ。今まで聞いたことないぐらい、ずっと聞いていたいって思うぐらい」
エレンは言う。
「でも、なんだか、寂しそうで……違うかもしれないけど、その、誰かを待ってるみたいな……そんな気がした……」
「だから、一緒に歌ってくれたんだ?」
こくりとエレンはうなずく。
「あたしの勘違いかもしれないけど……」
「たぶん、正解」
ぽつりとシータは言った。
「あのね、エレンは他の世界の人だから言えるけど、内緒にしてくれる?」
その声音が強ばっていたから、エレンは優しく答えた。
「うん。どうしたの?」
「わたしは、本当は吟遊宗主になりたくないんだ」
エレンは目を丸くする。
候補者である限りは、皆、吟遊宗主を目指していると考えるのが普通だ。
まして序列一位、もっとも選ばれる確率の高い彼女が、そんなことを口にするとは思わなかったのだろう。
「……どうして?」
シータは静かに膝を抱える。
「わたしの歌は空っぽだから。エレンは綺麗だって褒めてくれたけど、ただそれだけ。でもね、吟遊宗主の歌は、ウィスプウェンズの在り方を決めなきゃいけないんだ」
肩を震わせ、彼女はその思いを吐露する。
「できないよ、そんなの。わたしは歌が好きなだけ。世界の在り方なんて、考えたこともなかった」
吟遊宗主に近い少女が見せる弱音。エレンがかける言葉とは――?