聖エウロピアネスの祝福
聖剣世界ハイフォリア。虹水湖。
真夜中、空を飛ぶ銀水船ネフェウスから二つの影が舞い降りる。虹の橋がかかる湖の上に、レイとバルツァロンドは着地した。
二人はそのまま水面を歩いていく。
まっすぐ目的地を目指すバルツァロンドに対して、レイは興味深そうに湖を眺めていた。
様々な虹がハイフォリアの至るところから、この場所へかけられている。他の小世界では見たことのない幻想的な光景だった。
「この間来たときも思ったけど、不思議な場所だよね」
「虹水湖には狩猟貴族たちの良心が集まるのだ」
疑問を浮かべるレイに、バルツァロンドは説明する。
「すなわち、虹路だ。この水にはハイフォリア中の良心が溶けている。なにより神聖で、なにより正しく、そしてなによりも祝福された聖域。それがこの虹水湖だ」
思うところがあったか、レイはじっと湖の一点を見つめた。
「それは、まるで<淵>のようだね」
オットルルー曰く、<淵>とは、想いの溜まり場。数多の小世界から溢れ出す想いが集まり、貯蔵される。<渇望の災淵>には渇望が溜まり、<絡繰淵盤>には滅びた世界への追憶が溜まる。
狩猟貴族たちの良心が水に溶けているという虹水湖は、確かに<淵>とよく似ている。
「それほどの影響力はありはしない。<淵>は銀水聖海中の想いが溜まるが、虹水湖はあくまでハイフォリアのみの話だ」
そう言って、バルツァロンドが足を止める。
彼は目映い虹の光の向こうへ声をかけた。
「ご足労いただき感謝します。天主」
雲間が晴れるように折り重なった虹の光が分けられていけば、そこにいた少女の姿があらわになった。
純白の法衣を纏い、背には虹の輝きを放つ二枚の翼。光の輪が頭上に浮かぶ。
聖剣世界ハイフォリアが主神、祝聖天主エイフェである。
「すべては虹路の導きゆえ」
エイフェを中心に水面に波紋が立った。
それはみるみる広がっていき、同時にかけられた虹の橋に変化が現れる。あたかも天地をつなぐ柱のように、彼らの周囲に立てられたのだ。
そうして、柱の外側から、四人の狩猟貴族が姿を現した。
くせっ毛の髪に羽帽子をかぶった、紳士然とした男。
叡爵ガルンゼスト。
十字の聖剣を背中につけ、怪しい色香を放つ男。
侯爵レッグハイム。
耳に剣状のピアスをした、武人の佇まいをした男。
男爵レオウルフ。
そして、聖王レブラハルドだ。
彼はエイフェの隣に並び、バルツァロンドたちに正対した。
「フレアドール卿はいずこか?」
バルツァロンドが問う。
「まもなく来る」
短くレブラハルドは答えた。
「しばらく時間はある様子。その間に、バルツァロンド卿。一つ、お尋ねしてもよろしいですか?」
そう口にしたのは五聖爵の長、ガルンゼスト叡爵である。
「構いはしない」
「確かに我々五聖爵には、天主と聖王、そして五聖爵を招集する権限が与えられております。しかし、その使用は己の良心に従い、然るべきときとしなければならない。みだりに招集すれば、ハイフォリアの不利益となりましょう」
「承知している」
ガルンゼスト叡爵は、バルツァロンドを睨む。
「貴公は先日、我がハイフォリアと天主に弓を引き、恩赦されたばかり。本来ならば伯爵の座を剥奪されていてもおかしくはありません。それでもなお、貴公はこの招集が正道であると言い切れますか?」
「私はハイフォリアと天主に弓を引いたことなど一度もない」
毅然とした態度でバルツァロンドは言葉を返す。
ガルンゼストは開いた口が塞がらぬといった様子だ。
「なにを馬鹿な、この痴れ者め。貴公の矢は天主を射抜いたではないか!」
あまりにも白々しい言い分と思ったか、横からレッグハイム侯爵が口を挟む。
「天主が許したからと図に乗るなよ」
「私の矢は良心の矢。私が射抜いたのは天主ではなく、その過ちのみだ」
「なっ……!? 天主が過ちだと!? 口が過ぎるぞ、バルツァロンド卿っ!」
「レッグハイム卿。ハイフォリアに弓を引いたのは貴公らではななかったか。先王オルドフの遺志から目を背け、その仇である大提督ジジ・ジェーンズから目を背け、道を違えた聖王に忠義の進言すらなさない」
強い口調でバルツァロンドは糾弾する。
「これがハイフォリアへの反逆でなくてなんだと言うのだっ! 貴公らは狩猟貴族の誇りをお忘れかっ?」
「私が正道に背いているだと?」
このハイフォリアにおいては度しがたい侮蔑の言葉なのだろう。憤怒の形相でレッグハイムはバルツァロンドを睨めつける。
「落ちつくのだな、レッグハイム卿。天主の御前だ」
「落ちついてなどいられぬっ!」
レオウルフ男爵が諫めるも、ますますレッグハイムは激昂した。
「天主の御旗のもと、聖王陛下の指揮に従い、獣を狩るべく戦った我々が、あろうことかそれを逃がした男に正道を説かれたのだぞっ!! これほどの侮辱があるかっ!」
「ならば、レッグハイム卿。貴公は先王オルドフが道を誤ったと言うのだな?」
冷静にバルツァロンドが問う。
「戯けたことを。先王の行く道は、聖王陛下が継いでおられるではないかっ!」
「ではなぜ、聖王陛下は父が遺した言葉を貴公らに伝えていないのだっ?」
バルツァロンドの言葉に、レッグハイムは絶句する。
まるで心当たりがないといった顔つきだった。
「……なんだと?」
「我が父、先王オルドフは災淵世界イーヴェゼイノとの争いに疑問を持ち、虹路が必ずしも正しくはないことに気がついた。ゆえに真の虹路を求められたのだ」
レッグハイムは眉根を寄せる。
初耳だと言わんばかりに、彼の困惑がその表情にありありと表われていた。
「先王オルドフはその真の虹路を見せると災人と誓いを交わした。ゆえに奴は眠りについたのだ。先王オはしばらくの間、この聖剣世界に奴を匿っていた」
「ありえぬことだ!」
「私もそう思った。兄上も」
すぐさま言葉を返され、レッグハイムは二の句を継げない。
ガルンゼスト叡爵が、エイフェを振り向く。
「天主」
「嘘ではなきこと」
信じられないといった表情で、レッグハイムは「馬鹿な……」と呟いた。
「先王の遺志を隠すのは聖王レブラハルド、あなたが父と道を違えた証明に他ならない。我々ハイフォリアは選ばなければならないのだ。先王と現聖王、どちらの目指す道が真に正しいのかを」
バルツァロンドは言う。決意を込めて。
「だからこそ、貴公らを招集した。私は伯爵の名において聖王継承戦を申し入れるっ!」
聖王継承戦。
バルツァロンドが言うには、主神のもと、聖剣世界ハイフォリアの元首の座をかけて行われる神聖なる戦いである。
現聖王に不満がある五聖爵は、これを申し入れする権利を有している。王が道を誤ったときに、その臣下が正す。言わば、自浄作用を目的とした法律だ。
「バルツァロンド卿。聖王継承戦は本人以外の五聖爵の推薦によって申し入れされ、三名以上の同意をもって祝福されるものです」
ガルンゼスト叡爵が理路整然と指摘する。
「貴公は貴公自身を推薦することはできません」
「継承戦を挑む勇士は私ではない」
承知の上とばかりにバルツァロンドが答える。
ガルンゼストたちの顔に疑問が浮かんだ。
「転生世界ミリティアの勇者レイ・グランズドリィ。伯爵の名のもと、彼を勇士として推薦する」
バルツァロンドの言葉に合わせるように、レイはその手に霊神人剣エヴァンスマナを召喚した。
「なにを……血迷ったか。他の世界の者を推薦するなど……」
「継承者の条件は、霊神人剣を抜けることだったはずだ」
レッグハイムの言葉に、すぐさまバルツァロンドは反論した。
「確かにそれ以外に定めはありませんが……」
ガルンゼスト叡爵はそう言葉を濁す。本来、聖剣世界の住人以外が霊神人剣を抜くなど、あり得ぬことなのだろう。
だが、レイの存在はその秩序を覆している。
この聖剣世界にとって、彼はまさに不適合者に他ならぬ。
判断を仰ぐように、彼らはエイフェを見た。
「レイ。こちらへ」
静謐な声で彼女は言う。
すっとレイは歩み出て、エイフェの目の前に跪いた。
「あなたは霊神人剣に選ばれし勇者。ゆえに聖王たる資格を有す。世界の秩序に背くことはなき。されど世界を作るのは人。人には人の理があるもの」
彼女は言った。
「レブラハルド。あなたの理はいかに?」
「聖王はハイフォリアの進むべき道を定める者だ。そして、ハイフォリアと運命をともにするべき者でもある」
この事態を想定していたのか、レブラハルドは淀みなく言う。
「挑むのであれば、聖エウロピアネスの祝福にて、そなたをハイフォリアの住人として迎え入れよう。その上で改めて、聖王継承戦の申し入れを行ってもらう」
祝聖天主が賛同しているため、レブラハルドも問答無用で断ることはできない。ゆえに、そのような条件をつけたのだろう。
「継承戦を戦えるのは五聖爵三名以上の賛同がある者のみ。ハイフォリアの住人となったとしても、そなたは聖王になるための戦いの舞台に上がれない可能性もある。それでも、結果にかかわらず、ハイフォリアのために尽力すると誓えるか?」
「誓います」
厳しい条件にもかかわらず、レイは迷うことなく即答した。
「そなたの故郷、転生世界ミリティアとの戦いとなったとしても、その聖剣をもちて敵を討つと誓えるか?」
「それが正しき道であれば」
なにか思惑があるのか、それとも単純にそう思ったのか、レブラハルドは僅かに微笑みを覗かせながら言った。
「そなたの心は聖剣世界に相応しい」
すると、エイフェは跪くレイの頭にそっと手をかざす。
「レイ・グランズドリィ。体を楽に。良心を委ねなさい。祝聖天主の秩序のもと、聖王の道に従い、あなたを我が世界へ迎え入れる」
両の翼を広げ、祝聖天主エイフェは虹路の光を発する。
「聖エウロピアネスの祝福」
レイの体に、光が集う。
この場に立てられた虹の柱が彼を優しく照らし、祝福していた。
優しき祝福に包まれ、レイは聖剣世界の住人へと――