渇望に突き動かされて
天と地が震え、世界が不気味な音を立てる。
<渇望の災淵>からイーヴェゼイノ上空にまで響き渡ったその遠鳴りは、あたかも巨大な獣が悲鳴を上げているかのように錯覚させた。
レイにとどめをさそうとしていたイザークが、一瞬動きを止め、眼下を見据える。
巨大な水溜まりである<渇望の災淵>、その水位が急速に減少しているのだ。
奴は獰猛な眼光を、更に鋭くする。
「……なにをしやがった…………?」
呟きが漏れる。
それと同時に、災淵世界が一際大きい悲鳴を上げた。
氷の大地に二本の亀裂が走り、それは空にまで広がっていく。<混滅の魔眼>の影響が、<渇望の災淵>の外にまで及んでいるのだ。
耳を劈くような爆音は、なにかがズレた音を彷彿させる。<渇望の災淵>、その水底が地層ごと切りとられ、ゆっくりと災淵世界から放れていくのだ。
まるで世界崩壊の序曲のようだ。しかし、イーヴェゼイノはかろうじてその秩序を働かせ、原形を保っている。
そして、その光景を見ていたのはイザークたちだけではなかった。
「……なによ、あれ……?」
合一エリア。
幻魔族、狩猟貴族の双方と戦っていたサーシャが遙か彼方へ視線を注いでいる。その距離からでも、災淵世界の一部が切り離されていくのがよくわかった。
彼女の隣でミーシャが言う。
「アノスが<渇望の災淵>を切り取った」
「はぁっ!?」
サーシャは大きく目を見開き、信じられないといった顔をした。
「また無茶苦茶して……」
「捕食が止まる」
ミーシャが眼下に視線を向ける。
境界線のように張り巡らされたレブラハルドの<破邪聖剣王道神覇>。
そこに食い込み続けていた災淵世界の勢いが、みるみる衰えていく。
次の瞬間、境界線に亀裂が走った。
けたたましい音とともに、地割れが起こり、それはみるみる広がっていく。
「ちょっと……これ、大丈夫なの……?」
「元の形に戻るだけ」
少しずつ、ゆっくりと、聖剣世界と災淵世界が離れ始める。それにより、合一エリアの地割れが大きくなっているのだ。
変化はそれに留まらななかった。
「……くっ……!」
バーディルーア工房船。
乗り込んできた幻魔族の爪を避け、エレオノールは鎧剣軍旗ミゼイオンにてその両足を切り落とす。
だが、止まらない。
切断面から泥のような液体が溢れ、それが代わりの足を象った。
「ギ、ギガガガッ」
「もーっ、きりがないぞっ……!」
彼女の周囲には未だ十数名もの幻魔族がいる。
ダメージがないわけではない。代わりの足ができようとも、傷が癒えているわけではないのだ。
しかし、どれだけ痛めつけても、絶命するまでは止まらぬとばかりに、ボロボロの体で奴らは何度も突っ込んでくる。
滅ぼせば、さすがに止まるだろう。
だが、エレオノールは戦を止めるためにそこにいる。命を奪う選択は彼女にはなかった。
「船の外に……ぶっ飛ばすです……」
エレオノールと背中合わせになり、ゼシアが緋翔煌剣エンハレーティアを構える。
剣身から放たれた光がいくつもの複製剣を作る。そして、それらがハンマーのような形に早変わりした。
「よおーし、ゼシア。いっくぞぉっ!」
幻魔族たちが、奇声を上げて飛びかかった。
迎え撃つため、エレオノールは軍旗を振り、魔法陣を描く。
そのときだ。
耳を劈くような地割れの音が、大きく鳴り響いた。
ピタリと幻魔族たちが足を止める。
エレオノールとゼシアが慎重に身構える。
だが、奴らが襲いかかってくる気配はない。
「来ないなら……こっちから……です……」
「待って、ゼシアッ!」
飛びかかろうとしたゼシアを、エレオノールが止める。
彼女は魔眼を凝らし、幻魔族たちの深淵を覗く。
「……様子がおかしいぞ……」
つい数瞬前まで、我が身を犠牲に飛びかかってきた幻魔族たちが、途端に我に返ったかのように脂汗を垂らし、苦痛に表情を歪ませている。
魔力が乱れている。
いや、正常に戻ったというべきか。
狂っていた魔力が、制御されつつあるのだ。
その奥底には確かに、理性の光が見えた。
「状況は理解したのかな? もう君たちに勝ち目はないんだ」
幻魔族たちの異変を察知するや否や、エレオノールは言った。
「引き下がるなら、追わないぞ」
そう口にして、エレオノールは軍旗を下ろす。
真似するようにゼシアも聖剣を下ろし、複製剣を消した。
「鬼ごっこは……なしですっ……!」
すると、一人の幻魔族が一歩、後ろへ下がった。
それがきっかけだった。堰を切ったかのように奴らは後退していき、次々に工房船の外へと飛び出していく。
同じ光景が船の外でも繰り広げられていた。
銀水船に取りつき、<疑似紀律人形>に襲いかかっていた幻魔族たちが、次々と船外へ飛び出し、戦闘空域を離脱していく。
彼らが向かっているのは、イーヴェゼイノの方角だ。
その場所だけではない。
シンと交戦中だった連中も、ミサと戦っていた者どもも、参戦したほぼすべての幻魔族たちが、自らの世界へ引き上げていく。
そのことは、魔法線で視界を共有しているレイにも伝わっている。恐らく災人にも、幻魔族たちの動向は見えているだろう。
災人イザークは、ハイフォリアの方へ視線を注いでいた。
「アノスが見つけたよ」
レイは言った。
「絡繰神が<渇望の災淵>に創り出した<渦>。それが、災淵世界とその住人たちの渇望を狂わせていた元凶だ」
捕食行為が止まり、災淵世界が離れ始めた以上、戻らなければ、ハイフォリアに置き去りにされる危険性がある。
まともな思考ならば、引き返すのが道理というものだ。
だが、これまでの幻魔族たちに、そんな理性はなかった。
<渇望の災淵>に生じた絡繰神の<渦>がイーヴェゼイノの秩序に影響を及ぼしていた。
幻魔族たちの渇望を後押しし、彼らを獣にしていたのだ。
ゆえに<渦>を世界から切り離したことで、正気を取り戻したのだろう。
「君たちの餌食霊杯への執着は小さくなったはずだ」
災人イザークは彼方を見つめている。
そのまま、彼は言った。
「……で? 争いをやめろってか?」
「災淵世界の民にも理性はあった。彼らがまだ争いを望んでいると思うかい?」
「は」
レイの言葉を笑い飛ばし、イザークは言う。
「感謝はするぜ。うちのなわばりを荒らしやがった野郎がいるってのはわかった。だが」
猛獣のような視線がレイに突き刺さる。
「端っからこれはオレの喧嘩だ。うちの連中がやんのかやんねえのかは関係ねえな」
ナーガたち、アーツェノンの滅びの獅子は戦闘不能。幻魔族や幻獣たちも皆、災淵世界へ引き返してきている。
だが、それでもなお、災人イザークの戦意は衰えない。
その災爪を冷たく光らせ、レイに迫った。
「聖王は災淵世界を止める必要がなくなった。祝聖天主も無事だ。君一人で、聖剣世界すべてと戦うことになる」
振るわれた災爪を、レイは<廻天虹刃>で受け止める。
「変わんねえな……」
呟きとともに災人の蹴りがレイの土手っ腹にめり込み、体がくの字に曲がった。
「変わんねえ。<渦>が切り離されようと、オレの渇望はなにも変わりゃしねえ」
言葉とともに、魔力が激しく噴出する。
イーヴェゼイノの空域の温度が一気に下がった。
「やりてえことを、やりてえようにやる! それでくたばんなら上等だぜっ!」
獰猛な獣の如く、災人はレイを追撃する。
「オルドフもこれを狙ってたんなら、傑作だな。うちの連中と違ってオレだけが、素でイカれてたって話じゃねえのっ!」
界殺災爪ジズエンズベイズを、紙一重でかわし、レイは災人の背後を取った。振り下ろされた聖剣を、奴は<災牙氷掌>の腕で受け止める。
白虹と冷気が魔力の粒子を散らし、激しく鬩ぎ合う。
「落胆してるのかい?」
「あ?」
ぐっと霊神人剣が押し込まれれば、僅かに刃が食い込み、奴の腕に血が滲む。
「イザーク、君は……本当は変われればよかったと思ってたんじゃないかい?」
「しつけえ野郎だ」
刃が腕に食い込むのを構わず、災人はそれを力尽くで振り払った。
間髪入れず、災爪がレイを襲った。
身を低くしてそれを避け、霊神人剣が奴の足下を斬りつける。
「君がおかしいとは思わない」
両足から血を流しながらも、イザークは災爪を振り上げる。だが、レイの方が僅かに早く、奴の肩口に霊神人剣を振り下ろした。
「……ぐっ……!!」
エヴァンスマナは肉を斬り裂き、骨に食い込む。断ち切られるより早く、災人が剣身をわしづかみにした。押し返そうとするが、白虹が煌めくその聖剣はびくともしない。
「たぶん、ハイフォリアもなにかを間違えているよ。僕たちは本当に正しい道を、真の虹路を見つけてみせる。だから、少しだけ時間が欲しい」
牙を覗かせ、イザークは薄く笑った。
「わかってんだろ、ミリティアの不適合者。てめえが見つけたところで、なんの意味もねえぜ」
空からは氷の結晶が降り注ぎ、魔法陣を描きながら、舞い降りてくる。蒼き氷晶が周囲に漂い、霊神人剣が凍り始めた。
それは物体のみならず、魔力や時間、秩序、根源さえも凍らせ、万物余さず、あらゆる活動を停止させる深層大魔法――<氷獄災禍凛令終天凍土>。
今のレイでは耐えきれぬ。
「――月は昇らず、太陽は沈み、神なき国を春が照らす」
空に響くは、背理の詠唱。
イザークが視線を鋭くする。
レイの腕にまで及んでいた凍結が、そこで止まった。
「<背理の六花>リヴァイヘルオルタ」
燃え盛る氷の大輪を背に、舞い降りてきたのアルカナだ。
彼女はこの機会を待っていた。
主神の権能を封じるその力にて、災人を止める機会を。
リヴァイヘルオルタがこの場を背理の秩序で満たし、イザークの権能である<凍獄の災禍>が封じられる。同時にその力を利用する<氷獄災禍凛令終天凍土>の発動が止まった。
霊神人剣が白虹を放ち、レイの腕が凍結から解かれていく。
だが――奴は怯まない。
それよりも先にイザークは飛び出し、アルカナへ襲いかかっていた。
「背理剣リヴァインギルマ」
燃える氷の花――春景立花が集まり、彼女の手にリヴァインギルマが現れる。
「<災牙氷掌>」
蒼き掌がアルカナの顔面を叩く。
「災人の子。この身は永久不滅の神体と化した」
「不滅だろうが凍んだろ」
<災牙氷掌>の冷気が、一瞬にしてアルカナの全身を凍結させる。だが、表面だけだ。すぐさま、その氷は砕け散った。
しかし、その一瞬の間に、すでにイザークは燃え盛る氷の大輪――<背理の六花>に迫っていた。
「<狂牙氷柱滅多刺>」
包囲するように無数の魔法陣が描かれ、蒼き氷柱が出現する。それらは一斉に発射され、<背理の六花>に牙を剥いた。
神族に対しては無類の強さを誇る<背理の六花>だが、災人は半神半人。封じたのは主神としての権能のみだ。それを失ってなお、奴は遙か膨大な魔力を有す。
氷柱という氷柱が突き刺さり、背理神の権能は氷の墓標と化していく。
「秩序は歪みて、背理する――」
リヴァインギルマを鞘から抜き放ったアルカナが、災人へ迫る。
白銀の剣閃が鋭く走った。
「――我は天に弓引くまつろわぬ神」
「は」
交錯した両者。
魔力の火花が散り、災人の<災牙氷掌>がアルカナの心臓を貫いていた。
<背理の六花>が完全に凍結され、リヴァインギルマが消滅したのだ。
「オレが主神の力に頼ってるとでも?」
アルカナを放り捨てるように、イザークが腕を無造作に振るう。
彼女はゆっくりと落ちていく。
そのとき一瞬、地上が光った。
バルツァロンドの<氷縛波矢>が風を切り、目にも止まらぬ速度で疾走した。
災淵世界に起きた異変、不意を突いたアルカナ。二重の陽動を仕掛けてなお、しかし災人はその矢を寸前でかわした。
「見えてんぜ、オルドフの息子」
<氷縛波矢>を避け、イザークは災爪を振り下ろす。
空間を引き裂く爪撃は、射撃後のバルツァロンドを容赦なく斬り裂き、大地を割る。
夥しい鮮血が大地を血に染め、がくん、と彼は膝を突く。
「……見えたのは一本だけだ、災人……」
血だまりの中に崩れ落ちながら、しかしバルツァロンドは笑みをたたえる。
「天地命弓、秘奥が壱――」
バルツァロンドが同時に放った矢は合計四本。
災人が避けたことで、ちょうど奴はその四つの矢の内側に移動している。
「――<風月>ッ!!」
四本の矢がそれぞれ魔法線をつなげ、三角錐の結界を構築する。<氷縛波矢>の魔力が解き放たれ、結界内が凍りついた。
イザークの動きが一瞬止まる。
凍結の魔法を得意とするイザークを、僅かとはいえ足止めするほどの氷結結界。バルツァロンドは宣言通り、災人の動きを奪ったのだ。
「レイッ!!」
バルツァロンドが叫ぶ。
承知の上とばかりに、レイはエヴァンスマナを構えていた。
「霊神人剣、秘奥が伍――」
レイの背後に浮かぶ三三本の虹刃がくるりと回転し、地上に刃を向ける。凍りついたイザークへレイは真っ向から飛び込んだ。
<氷縛波矢>と<風月>による氷の結界に亀裂が走る。
レイが霊神人剣を振り上げれば、虹刃が目映く輝いた。
一閃。
災人の胸がぱっくりと斬り裂かれ、その体に三三本の虹刃が突き刺さる。その一本一本に含まれているのは、<廻天虹刃>にて斬り裂いた祝聖天主と災人の魔力だ。
虹刃が明滅し、溜めた力を一気に解放する。
「――<廻天虹刃・転>ッッ!!」
三三本の刃から虹の輝きが発せられ、天を丸々覆うほどの大爆発を引き起こす。
虹刃に変えることで吸収した魔力に、自らの力を上乗せして敵を斬り裂く<廻天虹刃・転>。自力に勝る相手に打ち勝つための、それはまさに廻天の一撃であった。
レイは静かに息を吐く。
その瞬間、彼は目を見開いた。
爆煙の中からぬっと腕が伸びてきた。
「……ぐっ……ぁ……っ!」
災人の指先が、レイの腹を貫いていた。
「惜しかったな」
聖ハイフォリアの祝福、界殺災爪ジズエンズベイズ。その魔力を溜めた虹刃三三本をまともに受けてなお、災人イザークを止まらぬ。
滅びなど知らぬとばかりに、全身からは蒼き冷気が溢れ出す。
災淵世界の空に悠々と君臨するその姿は、まさに不可侵領海と呼ぶに相応しい。
「根源が七つあるたあ驚いたが、残りは一つだ。てめえは死ぬぜ」
災人の手が、体内にあるレイの根源をつかんだ。
レイは動きを見せず、さりとてなにも言わず、ただイザークを見返している。
その瞳には、怯えや恐怖など微塵も感じられない。
「……気に入らねえな」
すぐにとどめを刺そうとはせず、奴は言った。
「まだなにか手があんのか?」
「……聞きたいかい?」
数秒の沈黙の後、災人は口を開く。
「いや――」
「変えてみせるよ、ハイフォリアを」
根源を潰そうとした災人の手が、ピタリと止まった。
「外から大層なご高説を垂れたところで、ハイフォリアは変わらねえ。端っから虹路が見えねえんなら、奴らも正義に狂いやしなかった。てめえに――」
災人の目の前に光が走った。
レイの体から立ち上るそれは、確かに虹路である。災人が言葉を失う中、虹路はある魔法陣を描く。
<契約>の魔法陣を。
そこに記述された契約内容は――
「僕が聖王になる」
イザークが目を丸くする。
レイの言葉に、初めて明確な驚きを見せたのだ。
「くく……くっくっくっく……なにを寝ぼけてやがる。てめえが? ミリティアの不適合者が、ハイフォリアの聖王になれると思ってんのか?」
「聖剣世界では、霊神人剣を抜いた者にその資格があるはずだよ」
興味深そうに奴はレイを見つめ、そして問うた。
「わからねえな。なにがてめえを駆り立ててんだ?」
「大した理由はないよ。ただ、約束したんだ。先王オルドフと、彼の息子と」
レイはいつものように爽やかな笑みを見せる。
「約束は守らなきゃね」
くく、と再び微かな笑声がこぼれた。
それはどことなく、先程よりも穏やかな響きだ。
そうして、奴は天を仰ぐ。
彼方を見つめ、イザークは静かに口を開いた。
「……ちょうど三日か。てめえらの言う通り、あの野郎は来なかった……」
牙を覗かせ、イザークは笑う。
「だが、確かに寄越しやがったぜ。代わりの大馬鹿野郎をな」
レイの胸から腕を抜き、イザークは血を払う。
「一月待ってやる。できなきゃ、てめえは終わりだ」
「構わないよ」
イザークは<契約>を書き換え、レイはそれに調印した。
奴は身を翻し、ゆっくりと飛んでいく。
「ナーガ。生きてんだろ?」
災人が呼ぶと、魔法陣が描かれ、そこにナーガが転移してきた。
「他の連中に伝えな。喧嘩は仕舞いだ」
「それには賛成だけれど、ボボンガとコーストリアが捕縛されたままよ」
災人が舌打ちする。
「弱え」
「どうするの?」
「しち面倒くせえ。放っとけ」
「……ちょっと、災人さんっ!」
去っていく災人を、ナーガが追いかけていく。
コーストリアとボボンガを滅ぼせば、再びイーヴェゼイノとの戦争になる。ミリティアもいる以上、ハイフォリアとて下手な扱いはできぬと踏んだのだろう。
もっとも、面倒だというのも嘘ではあるまい。
「イザーク」
レイの言葉に、災人が振り向く。
「オルドフは僕たちの世界にいる。君を、待っていると思う」
「はっ」
イザークは軽く笑い飛ばした。
「大馬鹿野郎が」
そのまま振り返らず、彼は去っていく。
境界線の地割れがますます広がり、イーヴェゼイノとハイフォリアは少しずつ離れていった。
一つの大きな約束を残し、災淵世界との戦いは幕を閉じる――