偽物の力
災亀の甲羅の上――
ミサが突き出した<深源死殺>を頬にかすめながら、ナーガは飛び退いた。
躊躇なくミサは前へ踏み込み、漆黒の指先がナーガの眼前に迫る。彼女はその手首をつかみ、滅びの獅子の力で押さえ込んでいく。
「<深悪戯神隠>の魔法は、攻撃するときは消えられないのね」
ぎりぎりとミサの手首を締め上げながら、ナーガが言った。
「それがどうかしましたの?」
つかまれた手の指先から魔力を放ち、ミサは魔法陣を描く。
その術式と魔力の波長を瞬時に見抜き、ナーガは素早く手を放した。
「<聖砲十字覇弾>」
聖なる十字の砲弾がナーガに直撃し、派手に爆発した。咄嗟の反魔法も間に合わず、頭部を守った彼女の両腕は焼け焦げている。
間髪入れず、ミサは<聖砲十字覇弾>を連射する。
飛び退きながらも、ナーガは反魔法を展開した。十字の砲弾が次々と着弾して、その防壁が削られていく。
「<獅子災淵滅水刃>」
獅子の左脚が漆黒に輝く。ナーガが鞭のように脚を横に蹴り出せば、黒き水の刃がミサへ向かって飛来した。
<深悪戯神隠>で隠れてかわせば、<獅子災淵滅水刃>は災亀の甲羅に直撃する。
スパッとその甲羅は斜めに切り落とされた。
存在が消えたミサを探すように、ナーガは魔眼を光らせた。
「祝聖天主から祝福の魔法をもらっていたのね」
注意深く視線を巡らせながらも、ナーガはそう軽口を叩く。
「確かに、<聖砲十字覇弾>は、あたしたちにも有効。でも、いくらあなたがアノスの伝承から生まれた精霊でも、所詮伝承は伝承。祝聖天主の祝福を足しても、滅びの獅子には及ばない」
ミサは答えず、ナーガの隙を窺っている。
彼女は見透かしたように言った。
「アノスを待ってるんでしょ? 時間を稼ぎさえすれば、彼がこの状況を打破してくれると思ってる。そううまくいくかしらね」
ナーガは獅子の左脚を軽く上げ、周囲に数十もの魔法陣を描いた。
「その精霊魔法のカラクリを暴かなくても、あたしは別にあなたに付き合う必要はないもの」
彼女の視線が、空域をゆっくりと旋回している魔王列車に向けられる。
「<災炎業火灼熱砲>」
雨あられの如く、黒緑の火炎が連射される。
魔王列車から歯車砲が放たれるも、自力の差がありすぎる。弾幕をものともせず、黒緑の火炎は車両を飲み込んだ。
ごうごうと音を立てて炎が巻き上がる。
だが、次の瞬間、ナーガは視線を険しくした。
<災炎業火灼熱砲>が斬り裂かれたのだ。
その向こう側に姿を現したのは、軍勢鎧剣ミゼイオリオスで武装した<疑似紀律人形>たちだ。
この場に戦力が足りぬと見て、エレオノールが送ってきたものだ。
<疑似紀律人形>たちは、魔王列車の上下左右に位置取り、ナーガや災亀、狩猟貴族らの銀水船を警戒している。
「魔王の船が簡単に落とせると思いましたの?」
後ろから響いた声に、ナーガは振り向く。
だが、それは魔法で響かせた囮。
逆方向に姿を現したミサが、<深源死殺>の指先をナーガの背中に突き出す。
背を向けたまま上半身を折り、黒き獅子の左脚で、彼女はそれを蹴り上げた。
「<聖砲十字覇弾>」
ミサの左手から、聖なる十字の砲弾が放たれる。ナーガは反転し、右手の反魔法でそれを防いだ。
「芸がないのね、偽者さんは」
ナーガの左脚が、ミサの顎に迫った。身を引いて、ミサはそれをかわす。
彼女が左手の<深源死殺>を突き出すと同時、蹴り上げられたナーガの脚が踵から落ちる。
ダガァァァンッとけたたましい音が鳴り響き、ミサの左腕をナーガの踵が蹴り落とした。
腕は真っ赤な血に染まり、災亀の甲羅には大きな穴が穿たれた。
「しばらく使い物にならないわね」
「そうでもありませんわ」
<創造建築>の魔法で、ミサは剣を創造し、それを血まみれの左手で握る。
飛び上がったナーガは、回転蹴りを放った。剣で身を守りながら、ミサが後退するも、あえなくその切っ先が砕かれる。
勢いのままナーガはくるりと回転する。今度は義足の蹴りがミサへ襲いかかった。
「<深聖別>」
ミサの剣が再生すると、それはたちまち聖なる輝きを放つ。<深印>によって深化した<深聖別>は、深層世界級の聖剣を作り上げたのだ。
その剣にて、義足を受け止めれば、僅かに刃が食い込んだ。
ナーガは宙に浮いたまま黒き獅子の脚で、ミサの体を蹴りつける。
怯まず、彼女は義足の足首に食い込んだ聖剣を振り抜いた。
「<深撃>!!」
切断された義足が宙を舞い、蹴り飛ばされたミサが甲羅の上を数度跳ねた。滅びの獅子の一撃を受けた胸には、黒き痣が浮かんでいる。
着地したナーガは、義足が多少短くなっただけと言わんばかりに、倒れたミサへ飛び込んでいく。
「精霊魔法――」
膨大な魔力が、ミサの体から放たれる。
暴虐の魔王の伝承を有し、大精霊レノの力を受け継ぐ彼女とて、魔力と精神を振り絞り、なお十全には操れぬ術式。それは、深層世界の精霊の力を模倣する大魔法だ。
「――<天命木簡>」
ミサの手に現れたのは、天命霊王ディオナテクが持っていた木簡と筆。ミサは木簡に素早く文字を書いた。
傷口悪化、と。
瞬間、飛び込んできたナーガの義足に亀裂が入る。
「っ……あ……っ……!!」
右脚から傷が広がるように黒緑の血がどっと溢れ出し、ナーガは甲羅の上に叩きつけられた。
ゆるりとミサが起き上がる。
滅びの獅子の蹴りを受けたミサの胸元もまた傷口が広がり、どくどく血が溢れ出している。
だが、ナーガの方が傷が深い。
義足の傷の影響は、さほどではないだろう。
ミサが狙ったのは、レイが霊神人剣で傷つけた獅子の右脚だ。霊神人剣は滅びの獅子を滅ぼすための聖剣。その傷が開けば、もはや本来の力を発揮することはできぬ。
「わたくしの勝ちですわ」
ミサは地面に這いつくばるナーガに<深聖別>の聖剣を向けた。
「どうかしらね?」
まだ勝負はついていないとばかりに、ナーガが微笑む。
ミサがゆるりと聖剣を上げ、奴めがけて振り下ろした。
ジジジジジッと耳を劈く轟音が響く。その一撃を、ナーガは獅子の左脚にて受け止めていた。
「もう動けないと思った?」
彼女は両手で倒立して、聖剣を脚で払う。
僅かによろめいたミサめがけ、倒立したまま獅子の脚を回転させる。
「<獅子災淵――」
その魔法に反応して、ミサが<深悪戯神隠>で姿を消す。しかし、すでに種を見抜いていたか、ナーガはその瞳を閉じた。
見れば、存在を消す精霊の力も、見ていなければ発動しない。ミサの姿が現れると同時に、ナーガの蹴りが放たれる。
「――滅水刃>ッッッ!!!」
滅びの力を内包した黒き水の刃が煌めいた。空間すら切断してしまうほどの凶悪な左脚が、ミサに直撃する。
「――この一撃を確実に当てるために、見ているときだけ姿が隠れることに、気がつかないフリをしていたんですのね」
目を開けたナーガが、僅かに視線を険しくする。
<獅子災淵滅水刃>を、ミサは聖剣で受け止めていた。
いかに<深聖別>を使っていようとも、ナーガはアーツェノンの滅びの獅子。本来ならば聖剣ごと彼女は真っ二つになっているはずだった。
ふんわりとミサは微笑し、魔法陣を描いた。
ポツポツ、とそこに雨が降り始める。
「優れた剣と、天命霊王ディオナテク、祝聖天主の祝福で、さて、なにができると思いますか?」
ミサの姿が霧と化して消える。
途端に土砂降りの雨が降り注いだ。
ナーガが魔眼を凝らしても、ミサがどこにいるかが判別できない。
その雨の一粒一粒からミサの魔力が見えた。
<深雨霊霧消>である。
ナーガは雨の降る場所からすぐさま離脱しようと、獅子の左脚に力を込め、思いきり蹴った。
矢のように飛んでいくナーガ。しかし、その瞬間、頭上から落ちてきた雨粒がミサに変わった。
「正解は――霊神人剣エヴァンスマナですわ」
一閃。
ミサが振るった聖剣は、<深撃>によって威力を増し、ナーガの左脚の付け根を斬り裂いた。
「……あっ、が、ぁっっ……!!」
獅子の左脚を切り落とされ、ナーガから大量の血がどっと溢れ出す。
黒緑ではなく、赤い。
根源から溢れる滅びの獅子の血が、封じられているのだ。
「どれもこれも模造品、所詮は虚構にすぎませんけれども――」
よろず工房の魔女ベラミーが鍛えし聖剣に、天命霊王ディオナテクが宿り、祝聖天主エイフェの権能、聖エヴァンスマナの祝福によって生まれたのが、霊神人剣エヴァンスマナだ。
ミサは<深聖別>の聖剣に、精霊魔法<天命木簡>を宿らせ、予め受けていた祝聖天主の祝福を重ねた。
そうすることで、擬似的な霊神人剣エヴァンスマナを再現したのだ。
無論、力は本物に比べれば数段劣る。
それでも、傷ついた滅びの獅子には十分な威力を発揮した。
「――あなたは、偽物以下ですのね」
もはや飛ぶ力さえ残っていないか、ナーガはイーヴェゼイノの方角へ落ちていった。
獅子を斬り裂く、偽りの聖剣――