消えゆく灯火
<思念通信>の魔法陣が消えていく。
過去の映像はぷっつりと途切れ、レイとバルツァロンドの魔眼にはオルドフの姿だけが映っていた。
彼の魔力は、先程よりも失われている。
今すぐ滅びぬのが不思議なほどに。
「…………即位の、日に……」
最後の力を振り絞るように、オルドフは掠れた声を発した。
「……伝えた通り、だ……レブラ……ハルド……我らを捕食……するが獣……奴らを狩るのが、狩猟貴族…………」
最早、助かることはないとオルドフとて承知しているのだろう。
それゆえ、最期の言葉を息子たちに伝えようとしているのだ。
「渇望だけの……獣を、祝福することが……狩猟貴族の本懐……渇望を捨て、理性を得た獣は……人となる……」
バルツァロンドは父の言葉に耳をすます。
一言一句聞き逃すまいと、全神経をそこに集中していた。
「……それが……正しき道と信じた……それが……正義と信じた……だが……」
息を呑み、オルドフは問う。
「私、たちは……本当に正しかったのか……?」
それは聖王として虹路を邁進した果てに辿り着いた大きな疑問だ。
ここに辿り着く以前のバルツァロンドならば、迷わず正しいと答えただろう。
だが、オルドフの過去を垣間見た彼は、今際の際に父が訴えようとしていることの重さを肌身に感じ、そう断じることはできなかった。
「……間違っていたと……父上は、そう仰いたいのか……? 我々に、正義などなかったのだと……」
数秒の沈黙が流れ、オルドフはまた口を開く。
「……わからぬ……」
最早殆ど耳が聞こえぬはずの彼に、それでもバルツァロンドの声が届いたか。あるいは、ただの偶然なのか。
息子の問いに答えるように、父は語る。
「……わからぬのだ……答えを、探した……探し続けた……どこかにあるはずの、真の虹路を目指し……だが、私はとうとう……」
弱々しい声に無念さが滲む。
「それを見ることが……できなんだ……これ……以上はもう……歩くことが……できん……」
僅かにオルドフの手が震える。
「……だが、私には…………」
瞳の奥に僅かな希望が見えた。
それだけが、今にも消えてしまいそうな彼の命をつなぎ止めている。
そんな風に思えた。
「……息、子が……いる……」
彼の想いに応えるように、レイは手を握り返す。
志半ばで、死にゆく戦士が縁とするのは、世界が変われども同じだろう。
たとえこの場限りの嘘であろうと、せめて安らかに逝けるように。
それが数多の戦場をくぐり抜けてきたレイが、違う世界で戦い続けてきた勇者へ贈る、ささやかな手向けであった。
「……この道を、代わりに……歩む……若き勇者が……」
最早、光を映さぬオルドフの瞳が、それでも強く訴える。
「どう、だ? レブラ……ハルド……お前はまだ……歩ける……か……?」
痩せ衰えた体。
魔弾に抉られ、今にも消滅しそうな根源。
だが、それでも、まだオルドフは夢を諦めてはいない。
獣を狩るのではなく、獣を人に戻す祝福をお仕着せるのではなく、より理想に満ちた答えを彼は求めた。
自らの世界において主神の祝福を受け、正しいとされるその虹路よりも、真に正しき道を歩むという――その遙かな夢を。
「……どう、だ……? レブラハルド……」
バルツァロンドが目を伏せる。
「……歩いているよ……」
レブラハルドを演じ、レイは言った。
死にゆく者への、礼儀とばかりに。
「父上、私は気がついた」
<聖域>の光がレイとオルドフを包み込む。
耳が聞こえず言葉は届かずとも、重ねた想いは確かに届く。
そう信じたか、レイは老いた勇者にそっと告げる。
「正しさを求め、良心を信じ、戦い続けた日々があった。正義の名のもとに敵を討ち、断罪の名のもとに悪を裁いた。それが傲慢な行いだと、私はある世界で知った」
オルドフはなにも言わない。
だが、その目の奥が僅かに気を発したように思えた。
「信じた正義は間違いだった。敵などどこにもいなかった。ただ私たちは互いに守ろうとしただけだった」
二千年前の戦いを振り返るように彼は言う。
「だけど、そのときには見えなかった。正しい道も。本当の敵が私たちの中にある恐怖と憎しみだということも。良心に従ったからといって、欲しかった未来が手に入るわけじゃない。いや――」
静かに首を振り、レイは言い直した。
「――なにが本当に欲しかったのかすら、私たちは気がついていないときがある」
想いが流れ込むように、<聖域>の光がオルドフの体に入っていく。
レイの想いが通じているのか、彼の表情が僅かに和らいだ気がした。
「良心を疑うべきだと私は思う。自らが正義と盲信すれば、人はどれだけ残酷なことだってできてしまう」
勇者ジェルガがそうだったように、復讐に駆られた魔族たちがそうだったように、正義はときに他の何物よりも醜悪だ。
「悩み、考え、迷い続けるべきだと私は思う。自らが正しいと信じた時点で、私たちは正しさを失ってしまう」
自らへの戒めの如く、レイはその想いを吐露した。
「たぶん、真の虹路は探し続けるものなんだ。決して、私たちの前に見えることはない。これが正義と信じられる道など、どこを探しても見つかりはしない」
正しき道が虹路となって現われるハイフォリアでは、その考えはひどく受け入れがたいものかもしれぬ。
それでも、そのハイフォリアで夢を追い求めたオルドフには伝わるはずと信じ、レイは言葉を重ねた。
「だけど、もしも……もしも、真の虹路を見られるときが来るとすれば」
迷いながら、レイは言う。
「それは、私たちの後ろにできるものだと思う。迷い続け、それでもまっすぐ歩んだ私たちの、その後ろに」
レイが握るオルドフの手に、目映い光が集まっていく。
「父上」
優しくレイは言う。
本当の父へ、伝えるかのように。
「父上は真の虹路が見えないとおっしゃった。それはあなたが、今日まで正しき道を探し、歩み続けてきた証拠だ」
その想いが、確かに届いたか、薄らとオルドフの瞳に涙が滲む。
「私は信じている。偉大なる父の後を継ぎ、この見えない道を迷いながらも歩み続け、そして、いつの日か振り返ったとき、そこに――」
力強く、レイは訴える。
「――燦然と輝く真の虹路があると」
満足そうに、オルドフは微笑んだ。
そして、言った。
「……確かに、託したぞ……息、子よ…………」
ふっと穏やかな風が吹いた。
命の灯火が消えるように、オルドフの魔力が風に流されていく。
「……父上っ……!!」
死にゆく父の意識をつなぎとめるように、バルツァロンドが叫ぶ。
「まだ……父上……まだ私は……!!」
そのときだ。
霊神人剣が光り輝き、そこに天命霊王ディオナテクが姿を現す。
手にした木簡には『延命』と描かれていた。
現われた光の玉がゆっくりとオルドフの体に吸い込まれていき、そして根源と同化した。
消滅したかに思えた魔力が、僅かに回復する。
ディオナテクの声が響いた。
『……命を救うことはできない……彼の想いを……救って……』
ぱっと光が広がる。
それが次第に収まっていくと、天命霊王の姿は忽然と消えていた。
「父上……!」
バルツァロンドがオルドフに触れ、呼びかける。
だが、返事はない。
目を閉じたまま、ぐったりとしていた。
その様子をじっと見つめ、レイはバルツァロンドに切り出す。
「僕たちの世界へ連れていこう」
「……ミリティア世界ならば、救える者がいるのか?」
バルツァロンドが問う。レイは静かに首を左右に振った。
「ならば――」
「転生はできるかもしれない。この状態じゃ、まともな転生は無理だけど、それでも他の世界で滅びるよりは可能性がある」
バルツァロンドが奥歯を噛む。
「……どうなるのだ?」
「わからない。生まれ変わったとしても記憶はない。もう会うこともないかもしれない」
「馬鹿なっ! それにいったいなんの意味があるのだっ!? 助けなければっ!」
「想いは残るよ」
バルツァロンドがはっとしたように、言葉を失う。
「いつかどこかで、君の父は生まれ変わる」
「……それは……ハイフォリアの宗教ではない……」
転生という概念がないのだ。
<転生>で完全に記憶が受け継げるならともかく、今回は保証すらない。
まず転生が成功するかも定かではないのだ。
バルツァロンドの判断は、無理からぬことだろう。
「一度、ハイフォリアへ連れ帰りたい……」
「祝聖天主エイフェなら、可能性があるかい?」
バルツァロンドは即答できない。
難しいのだろう。
それが容易いなら、迷う必要はなにもない。
「……兄に会わせなければ……まだ命がもつのならば……」
バルツァロンドは歯を食いしばる。
苦渋の決断とばかりに、彼は言葉を絞り出した。
「……恥知らずなのは承知の上だ……父は貴公のおかげで、満足して逝けるだろう……感謝してもしきれない。だというのに、ミリティアの秩序を……疑うような態度は業腹なはずだ……だが……」
バルツァロンドは俯く。
「……兄ならば、なにか手立てを……いや……」
しばし黙り込み、そして彼は言い直した。
「……手立てがなくとも、なにもしなければ後悔する……せめて、なにか、かける言葉が……」
ばつが悪そうに、バルツァロンドは顔を背けた。
彼の肩に、レイは手を置く。
「先にハイフォリアへ行こう」
「……すまない……」
バルツァロンドはオルドフを魔法で浮かせる。
速やかに、二人はその場を後にした。
その想いをつなげるために――
【次回更新について】
いつもお読みくださり、ありがとうございます。
少々更新の時間が取れず、29日はお休みしまして、
次回は2月1日(土)に更新いたします。
誠に申し訳ございません。