幽閉
真っ暗な洞窟の中、霊神人剣が放つ輝きが、仄かな明かりを灯している。
だが、その世界は、どこまでも闇深い。
二人の前にいるのは、ハイフォリアの先王、変わり果てた姿のオルドフである。
力強く隆々としていた筋肉は痩せこけ、手足はまるで小枝のようだ。
皮膚はただれ、目は焦点が定まらず、耳が歪に変形している。
いったい、いつからここに幽閉されていたのか。
彼の姿が、昨日、今日の出来事ではないというのを物語っている。
「<総魔完全治癒>ッ!」
バルツァロンドが魔法陣を描き、オルドフが温かな光に包まれていく。
だが――治らない。
憔悴しきったオルドフの体も、今にも消えそうなその魔力も、僅かさえ回復の兆しを見せることはない。
「……ええい、まどろっこしいっ!」
バルツァロンドから白き光が放たれ、ゴゴゴゴゴと音を立てて洞窟中が震撼する。
<総魔完全治癒>にありったけの魔力の注ぎ込むつもりだ。
ここは泡沫世界。それも滅びかけだ。回復魔法といえども、彼が全力を出せば天地に影響を及ぼすこととなろう。
「父上、今助け――」
全力の<総魔完全治癒>を行使しようとした彼の腕を、レイが握った。
「なにをする? 多少、泡沫世界に影響が出ようとも――」
ゆっくりとレイが首を左右に振った。
沈痛な表情で、彼はバルツァロンドをまっすぐ見つめる。
「手遅れだよ」
その言葉を受け、バルツァロンドは真顔になる。
わからぬはずもないだろう。彼とて深層世界の戦士だ。これまで多くの者を看取ってきたはずだ。
「…………そんなはずはない……!」
倒れているオルドフのそばでしゃがみ込み、バルツァロンドは<総魔完全治癒>を使う。
レイはその魔眼で、先王の深淵を覗いていた。
「鋭利な魔弾が、根源に食い込んでいる……。その魔弾があるから、かろうじて根源が崩壊していないだけだよ。撃たれた直後なら、手の施しようはあったかもしれないけど……」
「それぐらいはわかっている!」
叫ぶように言い、バルツァロンドは悲痛な表情で、オルドフの根源に突き刺さった魔弾を睨む。
「……これは、<魔深根源穿孔凶弾>……魔弾世界エレネシアでも、二人と使い手のいない大提督ジジ・ジェーンズの魔弾魔法だ……」
僅かにレイが驚きを見せる。
「根源深くに撃ち込まれたが最後、助かる術はない」
そう口にしながら、バルツァロンドは回復魔法の手を休めることはない。
「……だが、父は……我が父は――偉大なる先王、勇者オルドフ! 歴戦をくぐり抜け、いかな獣にも屈することのなかった本物の狩人だ。幾度となく、奇跡を起こしてきた!」
一向に回復する気配のない父の深淵を覗きながら、それでもバルツァロンドは言った。
「敗れるわけがない! この程度の傷に、敗れるわけがないのだっ……!!」
魔力を一気に使い切るほどの勢いで、バルツァロンドはなりふり構わず<総魔完全治癒>を行使する。
目映い光がオルドフを包み込むが、しかし、それだけ根源が抉られた状態で今更治せるわけもない。
オルドフはすでに半歩、滅びに足を踏み入れている。
それでも、彼は諦めきれぬとばかりに、ありったけの魔力を注ぎ込んだ。
レイは、エヴァンスマナに視線を向ける。
宿命を断ち切ることのできる聖剣は、しかしこの場においては沈黙している。
その本質は、やはり剣だ。
いかに強大な力を取り戻したとて、滅びゆく根源を救済することはできぬ。
「…………ぁ…………ぁ……」
バルツァロンドがはっとする。
僅かに、声が聞こえたのだ。
彼は、父に顔を寄せ、全身を耳にしながらそれを聞いた。
「…………バ……ル……」
掠れきった、音にならぬほどの囁き。
だが、確かにそれは、オルドフのものだった。
「……ツァ…………ンド…………」
バルツァロンドの瞳から、僅かに涙が滲む。
「……ええ、ええ、父上! ご安心をっ……! 祝聖天主エイフェの祝福があれば、きっと。ハイフォリアまでの航海、耐えてくださるかっ?」
ほんの僅かだけ、オルドフは瞳を動かす。
震えながら伸ばされた手は、しかしバルツァロンドとは別の方向へ向いた。
「……どこ……だ……? いる……のか……?」
見えていないのだ。
その瞳には、目の前にいる息子の姿さえ、映っていない。
「父上」
バルツァロンドは父の手を優しく取った。
そうして、<思念通信>を送りながら言う。
「ここに。確かに、バルツァロンドは、ここに。父上」
数秒遅れ、オルドフは言った。
「……すまぬ……もう殆ど……聞こえぬのだ……」
今にも事切れそうな弱々しい声が、その場に響く。
<思念通信>ですら、今の彼には届かぬ。
「……だが……懐かしい……光を感じる……」
虚ろな瞳が、そっと霊神人剣に向けられた。
ハイフォリアの象徴であるその光だけは、五感を失おうとも間違えぬとばかりに。
「……お前も……そこに……いるのだな…………レブラ……ハルド…………」
オルドフはミリティア世界のことなど知らぬ。
霊神人剣の所有者は、レブラハルドをおいて他にいない。
そう考えたところで、無理からぬことだろう。
「……必ず……来ると信じていた……やはり、お前は……真の聖王……」
掠れた声を、オルドフは絞り出す。
それはまるで、命を振り絞っているかのようだった。
「……覚えて……いるか…………あの日の誓いを…………災人は…………」
オルドフが懸命に、もう一本の手を伸ばす。
思うように動かず、震えていた。
バルツァロンドはそれを見て、唇を噛みしめた。
赤い血が滴り、ぽとりと落ちる。
「……父上。ここに、兄は――」
「覚えているよ」
レイは優しく、オルドフの手を取った。
「安心してほしい、父上。私はあの誓いを決して違えることはない」
レブラハルドの口調で、レイは言う。
それが伝わったのかは定かでないが、オルドフが僅かに微笑んだ気がした。
「……そう、か……」
バルツァロンドが感謝を示すように、レイに頭を下げる。
霊神人剣が優しく三人を照らしていた。
「……私……は…………幽閉……されていた……<聖遺言>を、封じるため、だ…………」
ルナ・アーツェノンの記憶を見た限りでは、亡くなる際、ハインリエル勲章に遺言を遺すのが狩猟貴族の習わし。
<聖遺言>はそのための魔法だ。
オルドフを遅々と滅ぼすことで、<聖遺言>を使えぬようにしたか。
大提督ジジ・ジェーンズが?
いや、いかに固有のものとて、魔法だけでは断定できぬ。
「……レブラハルド……最期に……お前に伝えておくことが……」
ゆっくりとオルドフは魔法陣を描いていく。
枯渇しかけた魔力を振り絞り、使おうとしているのは<思念通信>だ。
「最期などと……父上……そのような弱気な言葉は……」
バルツァロンドが言う。
今にもこぼれ落ちそうな涙を、彼は必死に堪えていた。
「……お前も……だ……バルツァ……ロンド……」
父の言葉に、彼は息を呑む。
「……聖王の行く道…………この虹路は険しく、敵が多い…………お前は……お前、だけは……王を支えて……やってくれ…………」
「……なにを……そんなことは言われなくとも……ご安心を……」
何度もうなずき、バルツァロンドは父の手を握る。
「……言葉だけで十分と、お前は言ったが……あの日の……災人との誓いを……今こそ、見せよう……レブラハルド……バルツァロンド……」
弱々しい<思念通信>の魔法陣が完成した。
オルドフと二人の間に魔法線がつながった。
ゆっくりと記憶の欠片が流れ込んでくる。
そこに過去の映像が蘇った――
災人と先王、遙かな誓い――