餌食霊杯
銀海に敷かれた銀灯のレール上を、俺とアルカナは生身で飛行していた。
ハイフォリアにいるレイやミーシャたちに、今のところ大きな問題は起きていない。オルドフの手がかりがつかめていないが、まず鉄火島に行ってみるしかあるまい。
銀灯のレールを通じた魔法線では、界間通信と同じくタイムラグや制限が発生するが、許容範囲だろう。
「お兄ちゃん」
ふと気がついたように、アルカナが言う。
「ここから先、イーヴェゼイノの方角にはレールがないだろう」
「問題ない」
二律剣に<掌握魔手>を纏わせ、刃を走らせる。
夕闇の剣閃とともに、銀灯のレールは三つに切断された。
一つが、聖剣世界ハイフォリアへ向かうレール。
一つが、鍛冶世界バーディルーアへ向かうレール。
最後の一つが、行き先のない短いレールだ。それは、<掌握魔手>の効果にて増幅され、みるみる前後にレールを伸ばしていく。
三つのレールがつながり、三叉路となった。
更に<掌握魔手>の二律剣を走らせながら飛んでいけば、ぐんぐんと銀灯のレールが前方へ伸びていく。
その方角には、災淵世界イーヴェゼイノがある。
「災いの子となにを話すのだろうか?」
「なぜイーヴェゼイノを動かしたか、理由を知りたくてな」
「オルドフを連れてこなければ、ハイフォリアを滅ぼすと彼は言った。それが脅しではないことを示したかったのではないだろうか?」
その可能性は高いが、
「オルドフとの誓いに関係があるやもしれぬ」
鉄火島になにも手がかりがなければ、そろそろ手詰まりだ。
誓いの内容は、もう一人の当事者に確かめた方が早いかもしれぬ。
「素直に教えてくれるだろうか?」
「さて、聞いてみぬことにはな」
メリットがあれば話す、というような男には見えなかった。
奴の興味をそそれば、あるいはといったところか。
災人が話し合いに応じなければ、レブラハルドにも言ったようにイーヴェゼイノは力尽くで止めるしかあるまい。
それをするにも、動いている原理を突き止める必要がある。
猶予はさほどない。
俺とアルカナは可能な限り急ぎ、銀灯のレール上を飛び抜けていく。
やがて、小世界では夜が明ける頃、ハイフォリアの偵察船が視界の端に映った。俺たちに気がついたか、ゆるりと舵を切った。
『こちらはハイフォリア狩猟義塾院、レッグハイム侯爵である。パブロヘタラの校章を確認した。貴公の所属と目的を尋ねたい』
侯爵か。五聖爵の一人のようだな。
さすがにイーヴェゼイノ領海付近に、生半可な実力の者は配置せぬか。
「転生世界ミリティア元首、アノス・ヴォルディゴードだ」
『……聖王陛下より、伝達は受けている。本気であの災人と話し合うつもりか? イーヴェゼイノに入ってしまえば、生きて帰れる保証はないぞ』
「いらぬ心配だ。お前こそ、うっかりイーヴェゼイノの領海に入るなよ。餌食霊杯を察知した幻獣どもが飛び出しては面倒を見きれぬ」
速度を落とさず、その場を一気に通過すれば、距離が離れたことにより、<思念通信>が切断された。
目の前には黒く濁った銀水が見えてきた。
迷わずそこへ飛び込み、先にある銀泡を目指す。視界は悪いが、中心に向かって飛んでいくと、前方に分厚い暗雲が姿を現した。
災淵世界を覆う結界だ。
初見ならば少々骨が折れたところだが、一度入った際に急所は知れている。
「<掌握魔手>」
かつて通ったその暗雲に二律剣を突き刺し、ぐるりとこね回す。分厚い暗雲が渦を巻き、その中心に穴が空いた。
僅かに銀灯の明かりが漏れ出してくる。
二律剣を振るって、銀灯のレールを災淵世界に接続した後に、<掌握魔手>の右手を使い、内部へ侵入を果たす。
黒窮を降りていけば、空が見える。
太陽が昇っている頃だが、雨雲がすべてを覆っていた。
以前に来たときよりも遙かに気温が低く、そして土砂降りの雨が降っている。
眼下に見える巨大な水たまり――<渇望の災淵>が凍りついていた。
本来そこへ流れ込むはずの雨粒は氷床の上に溜まり、冷気に冷やされ、氷の塊と化す。降り注ぐ雨は、<渇望の災淵>の上方で凍りつき、巨大な氷の柱を形成していた。
ゴ、ゴゴゴゴ、と地鳴りがし、地面が激しく震動する。
氷の柱はガラガラと崩れ、氷河となって下流へ流れていった。
それらは木々や建造物をあっという間に押しつぶしていく。
「主神と元首が目覚めたのに、どうしてこんなに荒れているのだろう?」
悲しげに、アルカナは災淵世界の惨状を見つめた。
と、そのときだ。
「――てめえの物差しは、なんでも計れんのか?」
その空域の雨が瞬く間に凍りつき、みぞれと化した。
アルカナが頭上を見上げれば、そこに災人イザークが浮かんでいた。
「汚え泥ん中でしか生きらんねえ魚もいりゃ、荒れた世界でしか自我をたもてねえ獣もいる」
ふむ。
「つまり、これがイーヴェゼイノの平常か」
<渇望の災淵>へ魔眼を向ける。
「お前が目覚めなければ、イーヴェゼイノの住人は理性を失い、渇望に支配されると聞いたが、それを防ぐために<渇望の災淵>を凍らせているというわけだ」
ここへ降り注ぐ雨粒は、<渇望の災淵>により引き寄せられている人々の渇望。
災人イザークの秩序はそれを凍てつかせ、<渇望の災淵>による影響を押さえているのだろう。
「勝手に凍んだよ」
ゆっくりと災人が下りてきて、俺と目線を同じくする。
「オレは好きにやってる。うちの連中は、好きでここにいる。それ以上でも以下でもねえ」
勝手に凍るというのは、まあ嘘ではないだろう。
この男の半身は主神だ。この世界にもたらされている秩序は、制御が利く類のものではあるまい。
「オルドフはどうした?」
本題とばかりに、災人が問う。
「あいにく俺はハイフォリアの住人ではないのでな」
ちっ、とイザークが舌打ちする。
「オルドフとどんな誓いを交わしたのだ?」
「話す義理はねえ」
吐き捨てるようにイザークは言った。
「イーヴェゼイノを動かしているのは、その誓いが関わっているのか?」
「てめえに関係あんのか?」
殺気をあらわにした魔眼がギラリと光り、奴の右腕に冷気が集う。
即座にアルカナは、警戒するように身構えた。
一触即発の気配が漂う中、俺は更に問うた。
「オルドフが凍ったお前をハイフォリアに匿っていたのはなぜだ?」
ギラついたその魔眼から、殺気が薄れ、別の感情が表れた。
それは興味だ。
「…………」
災人は無言で俺を睨んでいる。
数秒がたった後、奴は牙を見せ、僅かに笑った。
「来な」
災人は<転移>の魔法陣を描く。
俺とアルカナはそれと同じ術式の魔法陣を構築し、同時に転移した。
視界が真っ白に染まり、次の瞬間、雑多に椅子が放置された一室が現れた。
外壁には水のスクリーンが張られており、そこに外の様子が映っている。
見えたのは雷貝竜ジェルドヌゥラの貝殻で作られた幻獣機関の研究塔だ。
イーヴェゼイノの船中か。
<渇望の災淵>の中を漂っているようだな。
つまり、災人の秩序で凍っているのは水面部分だけということになる。
「災人さん?」
聞き覚えのある声が聞こえた。
車椅子に乗った女が、室内に入ってくる。
滅びの獅子ナーガ・アーツェノンだ。彼女は俺の顔を見るなり、たちまち絶句する。
「急に出ていったと思ったら……」
招かれざる客と言わんばかりに、彼女は言った。
「これは、どういうことかしらね?」
「表で偶然会った。退屈しのぎだ」
災人の回答を耳にし、ナーガは呆気にとられた。
「……偶然なわけないと思うのだけれども。アノスは敵に回るかもしれないって、あたしもボボンガもコーストリアも忠告したのに、なにも聞いていなかったのかしらね。あと二日で、ハイフォリアと全面戦争をするっていうのに、いったい災人さんはなにがしたいの?」
「ぎゃーぎゃーうるせえ」
イザークが椅子を二脚投げてよこす。
「座んな」
奴は椅子をつかむと、背もたれを前にして座った。
俺とアルカナも着席した。
「なかなかよい船だ」
「うちで一番でけえ災亀だ。狩人どもの船がぶつかってもびくともしねえ」
ハイフォリアとの一戦のために用意したものなのだろうな。
ナーガがどっと疲れたようにため息をついている。
「……責任もって仲間に引き入れるか、片付けるかしてちょうだいね……」
俺の選択肢を限定するように彼女は言った。
だが、見たところ、すべてはイザークの胸三寸だろう。
この男は相手を敵と見なさぬ限り、どれだけ不都合があっても引き留めはしまい。
「餌食霊杯は知ってんのか?」
「幻獣が授肉するための、渇望に乏しい種族のことだろう?」
ハイフォリアの狩猟貴族がそうだ。
生まれながらにして理性が強く、渇望に乏しい彼らは、幻獣の器に適している。
ゆえに、それはイーヴェゼイノとハイフォリアの争いの発端となり、今日に至るまで続けられてきた。
「食欲に抗える獣はいねえ。幻獣はいつでも腹を空かしてる。飢える寸前になりゃ、縄張りを出て獲物を探しに行く」
災人は言う。
「うちの秩序はそういうもんだ。この銀泡は一匹の獣なんだよ」
「イーヴェゼイノ自体が、幻獣の本能をもっているかのように振る舞うと?」
「察しがいいじゃねえの」
獰猛な笑みを覗かせ、イザークは告げた。
「イーヴェゼイノが動いてんのは、腹が減ってるからだ。ハイフォリアを喰らいたくてたまんねえんだとよ」
世界が世界を捕食する――