祝福
サーシャが疑問の表情を浮かべ、首を捻った。
「もうちょっと詳しく訊きたいんだけど、あなたはハイフォリアの主神なのに、自分が相応しくないと思ってるってことでいいのかしら?」
「正しく答えるには、少し長き話になる」
祝聖天主エイフェは、そう三人に窺う。
「大丈夫」
ミーシャが言った。
すると、エイフェは踵を返す。
「こちらへ」
隣の操舵室へ移動すると、エイフェは壁に魔法陣を描いた。
ミーシャたちが入ってきた入り口だ。神々しい光に祝福され、つながっていた空間に結界が構築された。
「これにて狩猟宮殿から、この聖船エルトフェウスに入ってくる者はなきゆえ」
そう口にして、エイフェは三人に向き直る。
「其の方らは、この聖剣世界ハイフォリアを平定する元首――聖王の選定方法をご存じか?」
「霊神人剣エヴァンスマナ」
淡々とミーシャが答える。
「それを抜いた者は、聖王の王位継承権が得られる」
ルナ・アーツェノンを救うため、レブラハルドは霊神人剣を抜き放った。王位継承権を得た彼は、退位した先王オルドフの後を継ぎ、聖王となった。
「それは正しきこと。霊神人剣は、私の権能、聖エヴァンスマナの祝福を受けし聖剣。私には虹路を見る神眼があり、霊神人剣に至ってはこのハイフォリアの虹路を見る力がある」
「虹路は人の良心が具象化したものでしたわね。ハイフォリアの虹路というのは、どういうものですの?」
ミサが問う。
「言葉にするのは難しきことなれど、それは言わば世界の良心が具象化したもの。ハイフォリアが他世界との関係において、良き行い、相応しき行いをし、正しき道を歩む。そのための標こそ、世界における虹路とご理解を」
「ハイフォリアがよりよい世界になるための道ってことかしら?」
サーシャの質問に、エイフェはうなずく。
「霊神人剣エヴァンスマナは、ハイフォリアを導く王を選定する。エヴァンスマナを抜いた歴代の聖王は皆、私利私欲に囚われることなく、良心と理性に従い、この世界が正しくあるために力を尽くした」
バルツァロンドが、エヴァンスマナの柄を持っていたということは、彼も次期聖王の器というわけだ。
確かに少々頭は足りぬが、義理に厚い男だ。己を犠牲にし、部下を助ける気概もある。周囲の支えがあるならば、善き王になるだろう。
霊神人剣に選ばれたのも、納得のいく話だ。
「よくわからないんだけど、エヴァンスマナはあなたの権能なのよね? 歴代の聖王がそれだけ尽力したんなら、あなたが主神に相応しくないってことはないんじゃないの?」
「……それはかつての話。今では私の心が、エヴァンスマナと乖離している。いいえ、この神眼とさえ隔たりがある」
心苦しそうに、祝聖天主エイフェは言った。
「現聖王レブラハルド。彼は霊神人剣に選ばれし者。私の神眼にも、彼が堂々と虹路を行く姿がはっきりと見えている。私の秩序は、彼が間違いなく正しき道を歩んでいることを示している。だのに――」
エイフェは手をそっと自らの胸に当てる。
「この心は、彼の正義に胸騒ぎを感じる」
ミーシャが瞬きを二回する。
そして、優しく問うた。
「エイフェ。あなたは聖王のなにが間違っていると思う?」
ゆっくりとエイフェは首を左右に振った。
「根拠はなきこと。レブラハルドは、オルドフと同じくその身をハイフォリアに尽くしている。この胸騒ぎの原因を探りはしたものの、彼は私利私欲に飲まれたことはただの一度としてなき。ひたすらに、ただひたすらに、正道を求めて邁進している」
確かに、ルールにこそ厳格ではあるが、非道というわけでもない。
ミリティア世界は少々目をつけられているものの、それとて泡沫世界だということが大きな要因だろう。
結局はミリティアの聖上六学院入りも認めている。
「それゆえに、問題は私の心だけ」
エイフェは言う。
「本来、主神の秩序と心が相反するなど、あってはならぬこと。自ら選んだ王を、根拠なく否定するのは、正しき道ではない」
彼女は静かに目を伏せる。
「正しき道を歩む者には祝福を。それがハイフォリアの秩序。主神たる私自ら、虹路を否定し続ければ、やがてこの世界の秩序にも歪みが生じる」
ミーシャとサーシャの表情に、険しさが生じる。
「私は――壊れ始めているのかもしれない」
「それをオルドフに会って確かめたい?」
ミーシャの質問に、エイフェはうなずく。
「オルドフは聖王を立派に勤め上げた、紛うことなきハイフォリアの英雄。今、この神眼で彼を見て、彼の正義が間違っていると思うのなら、私が壊れていることがはっきりする」
「間違っていると思わなかったら?」
エイフェは口を閉ざす。
そうして、しばし考えた後にこう言った。
「……考えがたきこと。なぜなら、霊神人剣はレブラハルドを選んだ。それゆえ、オルドフに私がどうすべきか尋ねたいと思う」
かつて、ハイフォリアを治めた聖王として、祝聖天主はオルドフに全幅の信頼をよせているのだろう。
彼に会うことができれば、必ず打開策が得られるはずといった口ぶりだ。
「バルツァロンドも兄は変わってしまったって言ってたし、レブラハルドがおかしくなったってことはないの?」
サーシャが疑問を呈すると、ミサが言った。
「だとしても、心がおかしいか、神眼がおかしいかの違いでしかありませんわ」
エイフェは、レブラハルドが堂々と虹路を歩んでいる姿が見えると言った。それが誤っているのなら、事態は更に深刻だろう。
虹路は恐らく聖剣世界の根幹。それを見るべき彼女の神眼が狂っているのなら、すでに秩序には異変が生じているのかもしれぬ。
「エイフェの異変はいつから?」
ミーシャが問う。
「今から、約一万四千年前のこと」
清浄な声で、祝聖天主は語る。
「エヴァンスマナを抜いたレブラハルドは、その剣身を失い、ハイフォリアに帰ってきた。法により、エヴァンスマナについての黙秘は許されていない。しかし誰に問い質されようと、彼はなにがあったのかを頑なに喋らなかった。先王オルドフにさえ」
よもや災禍の淵姫を助けてきた、とは言えまい。
レブラハルドがルナ・アーツェノンを守るために口を閉ざしたことは想像に難くない。
「私はレブラハルドを罪に問わなかった。彼の行く先に、燦然と輝く虹路が見えていたがゆえに。それからまもなく、先王は退位し、レブラハルドが即位した。少しずつ、私の心と私の秩序が、乖離し始めた」
「レブラハルドの人が変わったのは即位してからですの?」
ミサが問う。
「即位と同時に、彼の部下が全員虐殺されたがゆえに」
驚いたように、ミーシャが目を丸くした。
「……どうして?」
「私は咎めなかったが、それを誤ったメッセージとして受け取る者もいた」
「虹路が見える以上、主神は手を汚せない。ですから、自分が泥を被って断罪するのが正しいと考えたということですの?」
エイフェはうなずく。
「彼の部下も秘して語らず、その報復を受けた」
良心と理性に従うのが美徳とされるハイフォリア。
だが、正義も行き過ぎれば、ろくなことにならぬものだ。
「犯人は堂々と名乗り出た。彼らの極刑を望む声が多かったが、それを諫めたのがレブラハルドだった。彼は聖王として、正しき行いをした」
僅かに瞳を曇らせ、エイフェは言う。
「それから彼は変わった。より正しくあろうと、万人が遵守すべき法を厳格に定め、それを正義と信じた」
悲しげな声が、ぽとりと落ちる。
「レブラハルドは法に背いたがゆえに、部下を失ったと思ったのかもしれない」
それで法を正義と信じるようになった、か。
あるいは、ルナ・アーツェノンを助けたことさえ、後悔しているのやもしれぬ。
「そんなことがあったんなら、無理がない気もするけど」
サーシャが言うと、隣でミーシャがこくりとうなずく。
「それに、そこまで間違ってるって気も……」
言いかけて、サーシャははっとしたような表情を浮かべた。
「どうかした?」
「……ちょっとおかしいと思って……約一万四千年前にレブラハルドは即位して、その事件があって、それで少しずつ彼がなにかおかしいってエイフェは思うようになったのよね?」
祝聖天主はうなずく。
「オルドフは、たまにハイフォリアに帰ってくるんじゃなかった?」
「ハイフォリアは平和ゆえ、私は殆どの期間を聖船エルトフェウスにて遠征している。パブロヘタラの領海を広げ、小世界を学院同盟へ勧誘するのが一つの目的」
「それはレブラハルドの考えですの?」
「そう。銀水聖海の小世界すべてがパブロヘタラに入れば、よき正義を実行できるというのが彼の理想ゆえ」
少なくとも争い自体は減るだろう。
揉めたとしても、銀水序列戦というルールの中で決着をつけられる。
すべてというのは、また遠大な目標だがな。
しかし、偶然か?
息子のバルツァロンドや主神のエイフェ。オルドフに近しい者をオルドフから引き離そうとしているようにも思えるが……?
「それじゃ、オルドフの船に通信用魔法具がないっていうのも、本当なのね?」
「ハイフォリアの界間通信は、いずれも私が祝福した魔法具にて行われる。その中にオルドフと通信しているものはなき」
サーシャが頭に手をやって考え込む。
「……じゃ、あと考えられるのは……」
「他の世界から手に入れた魔法具ですの?」
エイフェがうなずく。
「心辺りは一つ。ハイフォリアは鍛冶世界バーディルーアと友好条約を結んでいるがゆえ、この銀泡にはバーディルーアの自治領がある」
祝聖天主が魔法陣を描き、そこに地図を表示する。
「バーディルーア鉄火島。その場所には、バーディルーアの界間通信用魔法具がある。私は盟約により許可なく立ち入りできないが――」
「わたくしたちなら、忍び込めるということですのね」
ミサの言葉に、祝聖天主は首肯した。
「レブラハルドに、オルドフと通信できるか尋ねた?」
ミーシャが問う。
「災人イザークの狙いはオルドフ。先王のことは、任せて欲しいと彼は言っていた。私はイーヴェゼイノ接近に備えなければならない」
通信手段があるようにも取れる。
だが、わざわざバーディルーアの魔法具を使う理由があるのか?
「わかったわ。わたしたちの魔王様は、どのみちオルドフを探してるし、そのときにあなたのことを伝えればいいのね?」
「大きな感謝を。火急のときである今、表立っての力添えは難しきこと。せめて、其の方らに困難を打ち破る祝福の魔法を授けよう」
ミーシャが小首をかしげる。
「……祝福の魔法?」
答えの代わりに、エイフェは虹の翼を広げる。
それが輝きを発したかと思えば、目映い光がサーシャたちを照らし出し、それぞれを祝福していった。
オルドフに辿り着けるか――