理性と渇望
空気が――異様に冷えていた。
聖上大法廷に立ちこめる冷気が、際限なく室温を低下させ、あらゆる物を瞬く間に凍てつかせていく。
その真っ只中にいる男はズボンのポケットに両手を突っ込み、獰猛な顔つきでレブラハルドに視線を向けていた。
「おい」
荒々しく、奴は言う。
災人の放つ声はそれだけで、聖上大法廷をガタガタと揺さぶった。
「耳がねえのか?」
「先王になに用かな?」
動じた素振りも見せず、レブラハルドは言葉を返す。
「今はこの私、レブラハルド・ハインリエルがハイフォリアの聖王だ。先王からはすべてを継承している。用件があるならば、私が承ろう」
災人は無言でレブラハルドを睨む。
「約束があんだよ」
「約束とは?」
災人がうんざりしたようにため息をつく。それに伴い冷気が噴出されるが、レブラハルドは手を振り、反魔法でかき消した。
「どこにいやがる? くたばったわけじゃねえだろうな?」
「先王は健在だ。しかし、危害を加えるかもしれない相手に会わせるわけにはいかない」
「あの大馬鹿野郎が、ちっと話したぐれえで死ぬタマかよ」
乱暴な口調で言いながら、イザークは髪をかき上げる。
真っ白な霜がキラキラと落ちて、床がますます凍りついた。
「勇者オルドフといえども、老いには勝てない。そなたが知る頃の力はないと、理解してもらえるね?」
「うるせえ」
面倒臭そうに災人は言う。
「とって食おうってわけじゃねえんだ。四の五の言わずに、居場所を教えな」
レブラハルドは、災人の蒼い魔眼を見つめる。
その心中を覗こうとするように、彼は問うた。
「危害を加えるつもりはないと?」
凶暴な視線が、レブラハルドが射貫く。
これ以上押し問答が続けば、今にも襲いかかってきそうな気配だった。
彼は静かに目を伏せた。
「……わかった。ただし、先王は浅層世界を放浪していてね。今は何処がつかめない。一ヶ月ほど猶予をくれないか?」
「長え」
短く、イザークが言う。
「銀水聖海は広大だ。先王は定期的にハイフォリアへ帰る。一ヶ月以内には戻ってくるだろう。勿論、こちらでも捜索をしよう――」
災人の体中に、冷気が渦巻いた。
奴の苛立ちに呼応するように、魔力が桁外れに膨れ上がる。
「しち面倒くせえ!」
途端に鈍い音がパブロヘタラのそこかしこから響いた。
ガッ、ガガガッ、ガガガガガガガガガガガガガッと破壊音が鳴り響き、浮遊大陸ごと宮殿の三分の一が崩れ落ちていく。
災人から発せられる魔力に、パブロヘタラが耐えられぬのだ。
「ここがぶっ壊れりゃ、駆けつけてくんだろ」
ぐっとイザークが拳を握る。
即座にレブラハルド、ギー、ベラミーが反応する。奴の攻撃に対抗するべく、素早く魔法陣を構築していく。
「遅え――」
「まあ待て」
災人が視線を鋭くする。
俺は堂々と正面から近づき、奴の拳を掌で包み込んでいた。
噴出する蒼き冷気と、渦巻く黒き粒子が、バチバチと衝突しては激しく火花を散らす。
「パブロヘタラを滅ぼしたとて、隠居している老人の耳に入るのは、いつになるやらわからぬぞ」
「どきな」
ぐっと災人が力を込めるも、しかし、その拳は寸分たりとも動かぬ。
行き場のない力の余波が、パブロヘタラ宮殿をガラガラと崩し、第七エレネシアをも震撼させた。
そこで初めて、イザークは俺の顔をはっきりと見た。
「……誰だ、てめえは?」
「転生世界ミリティアが元首、魔王アノス・ヴォルディゴードだ」
すると、災人は僅かに興味を覚えたような顔をした。
「は。ナーガが言ってやがったアーツェノンの滅びの獅子か」
レブラハルドが表情を険しくする。
ベラミー、ギーの注意が、一瞬にこちらに向いた。
「――だが、それだけじゃねえ」
俺を値踏みするように、イザークは魔眼を凝らし、深く深淵を覗き込む。
「見せてみな」
振り上げた奴の左腕に魔法陣が描かれ、蒼く凍てつく。
「<災牙氷掌>」
「<根源死殺>」
俺と災人は、互いに腕を突き出す。
蒼き冷気と黒き粒子が渦を巻き、凍てつく手掌と、漆黒の指先が激突した。
刹那、<根源死殺>がたちまち凍りつき、俺の左腕の付け根までが凍傷に侵される。
「浅え。そんなもんじゃねえだろうが」
災人が俺の土手っ腹を蹴り飛ばす。右腕でそれを防ぐも、弾き飛ばされた体は聖上大法廷の机を破壊した。
ベラミー、ギーは室内を反魔法と魔法障壁で覆いながら、パブロヘタラ宮殿への被害を食い止めている。
レブラハルドはオットルルーを守るように位置取り、彼女はある魔法陣を描いている。レコルはその魔法を隠蔽していた。
『そのまま時間を稼いでくれれば、災人を<絡繰淵盤>に引きずり込める』
レブラハルドから<思念通信>が届く。
なにはともあれ、それが先決だろうな。
災人はまだ遊んでいる。今のうちに隔離しておかねば、本気を出した瞬間、パブロヘタラ宮殿が消滅してもおかしくはあるまい。
「本気を出しな、アノス・ヴォルディゴード」
凶暴な顔つきで、災人が言う。
「出させてみよ」
俺は目の前に魔法陣を描いた。
「<深印>」
更にもう一つ別の魔法陣を重ね、立体魔法陣を構築する。
「<災牙氷掌>」
獣が襲いかかるが如く、一足飛びで迫った災人が、凍てつく掌底を繰り出す。それに対し、俺は再び真っ向から手を伸ばした。
「<深源死殺>」
氷が砕ける音が響く。
黒き<深源死殺>の手が災人の<災牙氷掌>の手を抑え込んでいた。
「はっ」
災人の声が弾んだ。
「浅層魔法を深化させやがったな。火露なしでそれをやんのは第三魔王ヒーストニアぐらいだが――どこで習いやがった?」
「なに、<深印>の術式はパブロヘタラで見たものでな。ただ深淵を覗いたにすぎぬ」
すると、災人は笑った。
ひどく興味を覚えたような、けれども狂気に満ちた笑みだ。
「面白え」
災人は魔力を収め、拳を引いた。
そうして、無防備に曝すように、俺の目の前で背を見せた。
「帰んぞ」
イザークが言う。
すると、これまで事態を静観していたナーガが、呆れたように口を開いた。
「災人さんはあたしの好きにしろって言わなかったかしらね? こんなことするんなら、最初から一人で来ればよかったじゃない」
「気が変わったんだよ」
「その気まぐれのせいで、せっかく頑張った裏工作がぜんぶ台無しね」
「隠すからバレんだよ。嘘つき女の末路じゃねえの」
当てつけのようにナーガはため息をつき、車椅子をイザークのそばまで走らせた。
「おい」
災人は、レブラハルドに視線を向けた。
「三日だけ待ってやる。オルドフをイーヴェゼイノへ連れてこい」
「善処はさせてもらうが――」
「できねえなら、ハイフォリアを潰す」
さらりと災人はそう言い切った。
「そういう約束だ」
「それは、パブロヘタラに敵対するという意味と思って、構わないね?」
「好きにしろ。学院同盟なんざ興味はねえ」
<飛行>を使い、天井の穴へイザークとナーガは上昇していく。
「災人イザーク」
レブラハルドが言う。
「パブロヘタラと戦えば、そなたはともかく、イーヴェゼイノの住人はただでは済まない。主神であり、元首であるそなたが、民を思わぬそのような振る舞いをするのは果たして正道と言えるのか?」
「ハイフォリアの連中が言うこたぁ、いつの時代も変わらねえな。やれ虹路だ、やれ正道だの、しち面倒くせえ。あたかもこの銀海に正義ってもんがあるような面してやがる」
毅然とした態度を崩さず、レブラハルドは答えた。
「正義は存在するよ。少なくとも、渇望のままに生きるのはそうではない」
はっ、とイザークがその言葉を笑い飛ばす。
「てめえは正義を渇望してねえのかよ?」
「私たちは正義のためならば、正義を求める心すらも捨てられる。それが人の理性だよ」
真顔のレブラハルドへ、イザークが狂気じみた笑みを返す。
「正義に飼われた獣よりゃ、悪しき獣になって野垂れ死んだ方が何億倍もマシだろうよ」
二人は更に上昇し、宮殿から飛び去っていく。
「オレからすりゃ、てめえの方が遙かに狂ってんぜ。オルドフの息子」
聖王と災人、両者の意見は交わることなく――