銀水世界
上空から二匹の銀海クジラとオットルルーが下降してくる。
「元首リアナプリナの校章が奪取されました。ミリティア世界、元首アノスの勝利です」
<思念通信>にて、オットルルーの声が響き渡った。
俺がゆるりと宙に浮かび上がれば、氷の床に這いつくばる元首たちの姿が目に映る。奴らは半ば呆然といった表情でこっちに視線を向けている。
「文句はあるまい――とは言わぬ」
地に伏す彼らに、俺は告げる。
「だが、お前たちの内誰一人とて、<絡繰淵盤>が破壊されると思わなかったのは事実だ」
口惜しそうな顔で、ガオウが俺を睨む。
他の元首たちも、拳を握り、あるいは歯を食いしばる。
恥じ入るように顔を背ける者もいた。
「……悔しいですが、あなたの言う通りです……」
未だ立つ力の戻らぬリアナプリナが、ぼそっと呟く。
「泡沫世界の件も同じことだ。主神がいなくとも世界は回る」
否――
回らずとも、回してみせよう。
「俺を否定したくば、何度でも挑むがよい。いつ何時でも、我が魔王学院は挑戦を受けよう」
反論の言葉はない。
力で屈服させ、これで素直に納得とはいかぬだろうが、少なくとも奴らが予想できぬことがこの世にはあるのだと証明できた。
ひとまずは、こんなところだろう。
俺はそのまま飛び上がり、空を泳いでいる二匹の銀海クジラに近づいていく。
魔王学院の生徒たち何人かがこちらに手を振っている。
「ふむ。難なく凌いだようだな」
「難なくじゃないわっ! あんな広範囲の魔法使うんだったら予め言いなさいよっ。危うく串刺しになるところだったわ」
サーシャが待ってましたとばかりに、口火を切った。
「くはは。その前にミーシャが気づいただろうに」
こくこくと姉の隣でミーシャうなずいている。
むー、と不服そうにサーシャは唇を尖らせたが、それ以上は追及してこない。
「しかしまあ、<絡繰淵盤>をぶっ壊すとはたまげたもんだねぇ」
もう一匹の銀海クジラから声がこぼれた。
鍛冶世界の元首ベラミーのものだ。
「パリントンが敵わないわけでしょ」
そうナーガが微笑する。
「なんであんたが自慢げなんだい?」
「ふふっ、なんでかしらね」
「しかし、あの歩く魔法はなんだい? まさか浅層魔法じゃあるまいし。なにか知ってるかい?」
ベラミーがギーに尋ねる。
「は。情報はありません」
レブラハルドら聖上六学院の元首たちも無傷で立っている。
<深印>と<深撃>の余波は、問題なく防いだようだ。
「進めてくれ」
「承知しました。それでは、深層講堂に戻ります」
オットルルーが言い、転移の固定魔法陣を起動する。
目の前が真っ白に染まり、次の瞬間、俺たちは深層講堂に戻ってきた。
全員、転移前の席におり、静かに着席していく。
「銀水将棋の決着がついたため、中断していた法廷会議を再開します。序列七位以下の学院にて再採決を行いますか?」
「必要あるまい。賛成でも反対でも肩身が狭かろう」
魔王学院の昇格に賛成すれば、魔弾世界に目をつけられる。
かといって、銀水将棋で完膚なきまでやられた今、反対するのも誇りに傷がつこう。
「私もそれがよいと思うね」
レブラハルドが俺に賛成する。
特に反対の声は上がらなかった。
「承知しました」
オットルルーが、聖上六学院の五名へ言う。
「裁定神オットルルーの名のもとに、パブロヘタラは序列一八位、ミリティア世界、魔王学院をその功績により序列六位に昇格させます。賛成の者は挙手を」
真っ先に手を挙げたのは、魔弾世界のギーである。
「おやまあ、どういう風の吹き回しだい?」
ベラミーは言いながら、挙手をする。
ナーガ、レブラハルド、レコルも手を挙げた。
「賛成五、反対ゼロ。全会一致により、昇格を決定します。また魔王学院は、聖上六学院と見なされ、法廷会議での発言権を有します。それに伴い、世界の字を決める必要があります」
ハイフォリアなら聖剣世界、エレネシアなら魔弾世界が字だ。
ミリティアは学院同盟に入ったばかりなので、まだ決めてはいなかった。
「では、転生世界ミリティアとしよう」
一瞬、講堂の元首たちがざわつきを見せる。
だが、先の銀水将棋が尾を引いているのか、表だって主張する者はいなかった。
レブラハルドが、こちらへ視線を向ける。
「本当にそれでいいのかな?」
「なにか不都合でもあったか?」
「訊いただけだよ。気を悪くしたらすまないね」
この銀水聖海では、転生の概念がミリティア世界とは大きく異なる。生まれ変わりとは、まったく別の人物になることを表すのだ。
我がミリティアが示す転生のように、誰しも根源が有する想いを次へと繋げていくと考えたなら、泡沫世界からこぼれる火露を回収する大義はなくなるだろう。
パブロヘタラにとって、あまり都合の良いことではないだろうな。
「元首アノス、こちらへ」
俺は歩を進め、オットルルーの前に立つ。
彼女が魔力を発すれば、教壇の一席に魔王学院の校章が浮かぶ。
俺の姿が、球形黒板に映し出された。
「本日、ここに新たな聖上六学院、転生世界ミリティアが誕生しました。銀水聖海の凪のため、学院同盟一同、ともに力を合わせましょう」
そうオットルルーが事務的に述べる。
静寂の中、拍手の音が聞こえた。
レブラハルドだ。
次いでギー、ベラミー、レコル、ナーガが拍手をする。
次第にそれは講堂にいた元首たちにも波及し、講堂は大きな拍手に包まれた。
「それでは閉廷します」
それを合図に、元首たちがまばらに立ち上がった。
ギーとナーガが出ていき、レブラハルドとベラミーもこの場から立ち去っていく。
俺に近づいてきたのは、傀儡世界のレコルである。
「卿の世界を歓迎しよう。暴虐の魔王アノス」
「話がわかる奴がいてなによりだ」
初対面を演じるように、レコルが手を差し出す。
俺は握手に応じた。
『日暮れ頃、第七エレネシアの周辺海域で待つ』
傍受されぬように、直接接触の<思念通信>にてレコルの声が耳に響いた。
時と場所は<赤糸の偶人>と樹海船アイオネイリアを交換するためのものだ。
「パリントンがいなくなり、ルツェンドフォルトの様子はどうだ?」
「平常通りとはいかない」
「それはすまぬな。猶予をやれればよかったが」
「卿の責ではない。じきに元首も決まる」
レコルはそっと手を放す。
「では」
そのまま彼は立ち去っていった。
「元首アノス」
オットルルーが呼ぶ。
振り向けば、彼女は手に赤いわら人形を乗せていた。
「パリントンの身柄をお返しします」
「そちらでは裁かぬのか?」
「軍師レコルの話では、パリントンはすでにルツェンドフォルトの元首ではなく、人型学会からも正式に除名されました。彼の火露はイーヴェゼイノに戻らず、宙に浮いています。パブロヘタラはこれ以上の関与は行いません」
力と権力をなくし、学院同盟からも外れたとなれば、裁く理由も庇う理由もないというわけか。
「では、好きにさせてもらおう」
オットルルーから赤いわら人形を受け取り、魔王学院の席へ放り投げた。
ぴょんっと飛び上がり、ゼシアがそれを両手で捕まえる。
「……捕まえ……ました……!」
「なくすな」
「……お任せ……です……」
彼女は得意げに胸を張った。
「オットルルー。訊きたいことがある」
「なんでしょうか?」
「パブロヘタラの成り立ちだ。この学院同盟にはわからぬことが多い。そもそも、誰がこの組織を作ったのだ?」
「今この場で簡単にお伝えすることはできます。詳しくお知りになりたいですか?」
「できるだけな」
「承知しました。転生世界ミリティアは聖上六学院となったため、詳細をお話することができます。場所を変えてもよろしいですか?」
他の元首に聞かれぬためだろう。
聖上六学院に入った意味はあったようだ。
「構わぬ」
「では魔王学院の方々も、魔法陣へ。転移を行います」
オットルルーが魔力を込めれば、転移の固定魔法陣が起動し、視界が真っ白に染まった。
やってきたのは、先程と同じくパブロヘタラの最深部――黒い空間に氷の床が延々と広がる<絡繰淵盤>の上だ。
「<絡繰淵盤銀水将棋>」
オットルルーが魔法を使えば、<絡繰淵盤>が目映く輝き、暗闇に大空が描き出された。
森と草原と、果てしなく続く廃墟が現れる。
先程踏み潰したにもかかわらず、こうも容易く復元するとは、まだまだ余力が残っている証拠だろう。
あくまで学院同盟内での模擬戦ゆえ、<絡繰淵盤>の真価は発揮していなかったということか。
「イーヴェゼイノで、<渇望の災淵>をご覧になりましたね?」
「ああ」
「<絡繰淵盤>はそれと同じく<淵>の一つ。<淵>とは、想いの溜まり場のこと。数多の小世界から溢れ出す想いが溜まる場所なのです。<渇望の災淵>には渇望が溜まり、この<絡繰淵盤>には滅びた世界への追憶が溜まります」
オットルルーが魔法陣を描き、大きなねじ巻きを入れて回す。
ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ……と三度回転すれば、遠くに見えていたボロボロの宮殿が僅かに光を漏らす。
妙に見覚えがある建物だ。
「――パブロヘタラ」
ミーシャが呟く。
「あー、そういえば、似てるぞ。すっごくボロボロだけど」
エレオノールが言ったその瞬間、地鳴りとともに、大地が激しく振動する。
「わおっ、なんだ? 地震だぞっ」
「……ゼシアは……揺れません……」
一瞬で地面に長い亀裂が走ったかと思えば、丸く切り抜かれたその大地が宮殿ごと浮上を始めた。
それを裁定神は見上げている。
「あれがオットルルーの世界の追憶」
いつもの事務的な口調とは違い、ほんの少し悲しげに彼女は言った。
「あの小世界は、かつて栄華を極め、遙か深く、九九層に到達しました。最も深淵に近づき、そして飲まれた。パブロヘタラは滅び去った銀水世界が唯一残した学院です」
パブロヘタラの成り立ちが今、明らかに――