聖剣の声
翌朝――
俺が目を覚ますと、じっとこちらを見つめる瞳が間近にあった。
「おはよう」
微笑みながら、ミーシャが言う。
夜通し俺を治療していたのだろう。彼女の隣にはシーツにくるまり、すやすやと寝息を立てているサーシャがいる。
「……眠るまででよいと言ったはずだが」
「迷惑だった?」
ミーシャが小首をかしげ、俺に訊いた。
仕方のない奴だ。
身を起こし、ねぎらうように彼女の肩を軽く叩く。
「おかげでずいぶんと体の調子がいい」
「よかった」
俺はベッドから下りると、足下に魔法陣を描く。それが頭まで上がっていけば、着ていた寝衣が制服に変わる。
歩き出せば、ミーシャが俺の後ろに続いた。
「まだ早い。休め」
「大丈夫」
彼女は創造神の権能を取り戻し、その力は強化されている。
いつぞやのように、疲労の肩代わりにより動けぬといったことにはならないだろうが。
「昨日は少々、夜更かしをしたからな。まともに起きてくるとは思えぬ」
すやすやと寝息を立てるサーシャを見れば、ミーシャもそこに視線を注ぐ。
姉を起こせ、という意図は伝わっただろう。
「わかった」
「また後でな」
寝室を後にして、俺はその足で宿舎を出た。
ドアの前にはシンが立っていた。
魔王学院がフォールフォーラル滅亡の首謀者を捕らえたという噂は、すでにパブロヘタラ中に広まっている。
情報源は熾死王が毎日のようにバラまいている号外だ。
ミリティア世界は不適合者が元首を務める。泡沫世界が聖上六学院になることを快く思わぬ連中が、闇討ちを仕掛けてくる可能性があったため、率先して見張りに立ったのだ。
目を閉じているが、眠っているのは半分だけだ。
異変を感じれば、ただちに剣を抜くだろう。
俺の気配に気がつき、彼は目を開けた。
「変わりはありません」
「ご苦労だったな。休め」
「御意」
俺を見送った後、シンは宿舎に戻っていった。
宮殿の廊下をのんびりと歩き、やってきたのは庭園だ。
朝早くから購買食堂『大海原の風』では父さんと母さんが忙しそうにパン作りに勤しんでいる。
店の前では、エールドメードが立ったままパンを食いながら、次の号外の内容をナーヤに説明していた。
他に客の姿はない。
庭園の片隅で、一人の男が岩に腰かけ、じっと聖剣を見つめている。
「レイ」
声をかければ、彼はこちらを振り向いた。
「やあ。早いね」
「お前ほどではない」
言いながら、彼の隣に立つ。
レイは霊神人剣に視線を戻した。その深淵を覗くようにじっと魔眼を凝らしている。
「眠れなくてね」
「ほう」
「……霊神人剣から、声が聞こえる気がするんだ。ちょうどイーヴェゼイノを出ようとした頃から……」
レイが手にする霊神人剣へ、俺は魔眼を向けた。
魔力の振り幅が少々大きい。力を出そうとしているが出し切れぬ、そんな印象だ。
だが、声は聞こえぬ。
「今もか?」
「微かに」
耳を傾けるが、やはり同様だ。
霊神人剣の使い手にしか聞こえぬ声なのだろう。
「なんと言っている?」
「たぶん、だけど」
聖剣に耳を傾けながら、レイは言った。
「助けて」
「なるほど」
「ミリティア世界にいたときは、こんなことはなかった」
銀水聖海に出て、思う存分に力を振るえるようになった霊神人剣が、何事かを訴えようとしているのか?
よからぬことの前兆でなければよいがな。
「バルツァロンドにでも聞いてみるか」
「そうだね」
と、そのとき、後ろから両手で視界を塞がれた。
背中に柔らかな感触を覚える。
「だーれだ?」
「エレオノールか」
目を覆っていた手が放される。
振り向けば、のほほんと笑っているエレオノールが、紙袋のパンを差し出していた。
「当たりだぞっ。はい、ご褒美の希望パン」
「もらおう」
エレオノールから希望パンを受け取る。
「はい、レイ君にもあげるぞ」
「嬉しいけど、ちょっと前が見えないかな」
レイの両眼を、後ろからゼシアが手で塞いでいた。
「あー、ゼシア、だーれだって言わないとレイ君でも当てられないぞ?」
「……だーれだ……です……!」
「誰だろうね……?」
たった今、答えを耳にしたはずだが、レイは律儀にゼシアの遊びにつき合っている。
「エンネスオーネかな?」
「外れ……です……!」
ゼシアは得意気に答えた。
「それじゃ……ゼシアかな?」
「外れ……です……!」
理不尽な遊戯である。
「ばつとして……レイのパン、ゼシアが没収します……!」
「ええと……やっぱりゼシアじゃないかい?」
「ゼシアだからといって……ゼシアだと思ったか……です……」
言いながら、ゼシアは物欲しそうに口を大きく開ける。
「こぼしちゃだめなんだぞ?」
エレオノールがゼシアの口へパンを入れた。
彼女はパンを頬いっぱいに頬張り、あむあむと食べる。
「ヒントはあるかい?」
「ひょうはやきしましゅた」
レイは真顔で考え込む。
「……意外と難しいね……魔法文字の暗号……語感からいって、相当古そうだけど……」
「パンでうまく喋れてないだけだぞっ。ゼシア、レイ君が混乱するから、ヒントは食べてからにしようねっ」
「わかましゅた」
ゼシアはもぐもぐとパンを食べていき、ごくんと飲み込んだ。
「ヒント……あります……。ゼシアは……ゼシアでも……快挙のゼシア……なーんだ……?」
「んー? もうちょっとヒント出してあげた方がよくなあい?」
「大丈夫……です……!」
ゼシアは得意満面で、きっぱりと断言する。
レイは爽やかな笑みを見せた。
答えがわかったというよりは、笑うしかないといった表情に思える。
「お手上げだよ」
「ほら、ちょっと難しかったみたいだぞ」
ぶるぶるとゼシアが首を大きく振る。
そうして、とことこと俺の後ろに回り込んで、制服の袖を引っ張った。
しゃがんでやれば、ゼシアの手が俺の両目を隠す。
「……だーれだ……です……」
「そうだな。この時間にゼシアが自力で起きてきたことはない。すなわち、早起きゼシアといったところか」
「わおっ。正解だっ!」
驚いたようにエレオノールが言う。
ゼシアは俺の目から手を放し、背中から身を乗り出してきた。
「アノス……レイは……なにしてましたか……?」
「霊神人剣から、声が聞こえるそうでな」
すると、ゼシアは俺の肩に手をつき、ぴょんっと跳ねた。
レイの前に着地すると、霊神人剣に耳を寄せ、なにやら聞いているようだ。
「正確にはわからないんだけどね。霊神人剣が僕になにかを訴えている気がするんだ。もし、本当にそうなら、応えたいとは思ってるんだけど」
「んー? でも、これって、アーツェノンの滅びの獅子を滅ぼすための聖剣なんじゃなかった? アノス君を滅ぼせとか言われたら、困っちゃうぞ?」
ぴっとエレオノールが人差し指を立てる。
「それはね」
と、レイが苦笑した。
「……聞こえ……ます……」
「え?」
エレオノールが疑問の声を上げる。
「えーと、でも、ゼシアに聞こえるのかな……?」
「どうだろうね。ゼシアにも勇者の素質がある。霊神人剣の声が聞こえても不思議はないけど……」
たまたまその声と波長があったということも考えられるだろう。
「なんと言っているのだ?」
ゼシアが言う。
「……早く目覚めた……」
「早く目覚めた?」
いったいなにが、という風にエレオノールがレイと顔を見合わせる。
「……早く目覚めた……子には……」
エレオノールがうなずき、続きを待つ。
「……ご褒美……アップルパイ……」
「霊神人剣は絶対そんなこと言わないぞっ!!」
ただの願望であった。
しかし、なおも真剣ぶった表情でゼシアが言う。
「世界……救う……あるかもしれません……」
「ないぞっ。絶対ありえないぞっ。どうやってアップルパイで世界を救うんだっ?」
「……ありえないこと……人……それは奇跡……言います……」
「もーっ。それはアップルパイ食べたいときに言う台詞じゃないぞっ。どこでそんなこと覚えてきたんだっ? エールドメード先生の真似しちゃ、悪い大人になっちゃうぞ」
購買食堂の前でパンを立ち食いしていた熾死王が、気にしたようにこちらを向く。
俺とレイは顔を見合わせると、互いに笑みを浮かべた。
「そんな訴えなら、言うことないけどね」
「まったくだ」
エヴァンスマナの伝えようとしていることとは――




