亡霊の花嫁
「帰れ」
にべもなく告げ、セリスは再び歩き出す。
その背中を見ながら、ルナが思い出していたのは一番の言葉だ。
『たとえば、亡霊の里に迷い込んだ姫を、日の当たる場所へ帰してやりたかった。だから、皆、あなたを姫と呼んだのです』
『団長は言ったでしょう。亡霊の言葉に価値はない、と。我々を理解したければ、観察し、推察するしかありませんよ』
『あなたを姫と呼ぶように言ったのは団長ですよ』
ずっとそばにいただけじゃ、わからなかった。
気持ちに寄り添おうしても、まだ理解できなかった。
彼らとともに歩むと決意して、様々な疑問が今、ようやく解けたような気がする。
「――帰れっていうのは」
ルナは言う。
彼と同じ場所に立ち、その想いを精一杯汲んで。
「あなたが無謀な戦いだとわかっているから。わたしを巻き込みたくないのね」
セリスは無言で歩いていく。
彼はなにも言わない。
言えないのだ。
この世界でしばらく過ごしたルナは、今が戦乱の時代だとわかっている。
多くの魔族、多くの人間、その他の種族たちが、皆戦火に身を投じている。
憎しみと愛と、守る者のために。
そんな中、幻名騎士団はひどく異質で、彼らには守る者も、なすべきこともなかった。
欲もなく、ただ戦うために戦う。
心は希薄で、仲間にすらどこか薄情で、ひたすらに亡霊で在り続けた。
死ぬまで狂人を演じるなら、その人は結局狂人だ。
だけど、違う。
きっと、違うはずなのだ。
彼はルナを助けた。
それが、ただの気まぐれだとは思えない。
彼らにはなにを犠牲にしても、必ず勝ち取らなければならないものがある。
だから、すべてを捨てたのだ。
大切な者をそばにおけば、彼らの敵に狙われるだろう。
情があることが知られれば、必ずつけ込まれる。
だから、幻名騎士団は血を求める亡霊のように戦った。
それで守れなかったものも沢山あったはずだ。
だけど、その方がより多くを守れると信じていた。
なぜなら、彼らの目的は――
「あなたは、本当は可能性を残したい」
ルナは言う。
「本当は平和が欲しいの。だけど、届かない。だから、次代のためにこの世界に<転生>を遺そうと思ったのね」
ルナはかつて、彼を狂気に突き動かされた化け物と形容した。
間違いだった。
イーヴェゼイノに生まれた彼女の魔眼には、はっきりと見えている。
彼は渇望に支配などされていない。
その揺るぎない意思は、幻獣でさえも寄せ付けないのだ。
「いつか、誰かが、その夢を継いでくれるって信じてるの。滅びを覆すほど強くて、世界を平和にするほど優しくて、綺麗な心を持った人が、いつか生まれるって」
亡霊は語らず。
その通り、彼はなにも語らなかった。
ただ巨大な敵を求めているように思えた。
狂気の実験を繰り返し、世界に爪痕を遺したいだけにも見えた。
秩序に逆らいたいだけのようにも。
だって、命をなげうっても彼らにはなにも残らないから。
それは、人らしい生き方ではないと思っていたのだ。
違う。きっと、そうではない。
確かに、残りはしないのだろう。
それでも、彼が見たのは今じゃない。
いつだって紫電が迸る鮮やかな魔眼は、遠い未来だけを見つめていた。
いつか必ず自分の意思を継いでくれる者が現れると信じて。
「きっと、その人も、平和の夢と引き換えに多くのものを失ってしまう。だから、あなたは<転生>を遺そうと思った。すべてを捨ててきたあなただから、未来の王様にはなにも失わない道を用意してあげたかったの」
ようやく気がついた。
なにも言えない彼の戦いに。
誰にも理解されず消えていく亡霊たちの尊き理想に。
弱味を見せず、情を見せず、己の幸せをすべて捨て、渇望すらもその意思の力でねじ伏せて、ただ未来にすべてを懸けた。
自らに関わりのないすべての命を、彼は愛している。
この世界を愛し、いつか訪れるこの世界の遠い勝利を信じているのだ。
こんなにも孤独に、この人は戦っていた。
「……わたし、夫婦っていいよねって思ってたわ……」
生者は彼と並んでいくことができない。
幻名騎士団は、皆、己の幸せをなげうった亡霊たちだ。
だから、振り返らないセリスに、彼女は笑顔で言ったのだ。
「楽しみにしてたの。きっと、いつか会えるって思ってた。世界はこんなに広くて、海はどこまでも広がっているんだもの」
遠ざかっていく背中は、なにも語りかけることはない。
それが亡霊となった彼の精一杯の優しさだと、今のルナにはよくわかっている。
決別は、彼女の幸せを望んでのことだ。
「愛する人と一緒なら、ほんのちょっとのスープと堅いパンがあればいい。豪華なドレスがなくたって、自分で縫ったツギハギのお洋服を着ればいい。二人で一緒に見られるなら、綺麗な宝石じゃなくても、小さなガラス玉が一つあればいい」
遠い昔、遠い海の向こうで口にした言葉。
ルナの胸の内に燻り続けた決して消せない渇望。
「なにも、特別はいらない。ありふれた日々でいいわ。穏やかで、優しくて、楽しい、そんな家庭がわたしの夢だった」
だけど、と彼女は言った。
所詮夢は夢だったのだ。
「理想と現実は全然違ったの。故郷を追われて、命がけの大冒険。色んな人に助けられて、こんな遠いところまでやってきた。それでも宿命からは逃れられなくて……」
静かにルナは息を吸う。
「愛した人は、わたしに振り向きもしない亡霊だった」
セリスは立ち止まらず、洞穴へ向かっていく。
ルナは軽い足取りで、彼の背中を追う。
「あなたは誰かを愛することはないの。だって、あなたは誰も幸せにはできないから。情がないように振る舞って、義理がないように振る舞って、沢山沢山傷つけて、亡霊みたいに戦い続けるの。この世界に、たった一つ、平和の可能性を遺すために」
水たまりを弾むように歩きながら、ルナはセリスに追いついていく。
構いやしない。
たとえ、彼がただ一度の愛の言葉を口にしなかったとしても。
その戦いを止めることはない。
「いいじゃない。亡霊だっていいじゃない。幸せにしてくれなくてもいいじゃない。だって、わたし、そんなに弱くないもの」
彼女は駆け出し、ぴょんっと跳躍してセリスに並ぶ。
彼の隣に、ようやく並んだ。
「勝手に幸せだから、そばにいさせて」
彼は無言だ。
「あなたの無言に優しさを感じて」
セリスが眼光鋭く、ルナを睨めつける。
その魔眼を、彼女は指さす。
「あなたの瞳に楽しさを感じて」
「愚かな女だ」
ふふっ、とルナは笑みをこぼす。
「あなたの拒絶に、愛を感じるの。ねえ。あなたは亡霊だけど、わたしの頭はお花畑よ。いいじゃない。相性ぴったりだと思わない?」
両手を組み、名案を思いついたという風にルナは微笑みかける。
「思わぬ」
「そうだよね。ぴったりどころか、運命だよねっ」
あまりに強引な解釈に、さしものセリスも足を止めた。
ルナは嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。
「あなたが捨てる渇望を、後ろから拾い集めていってあげるの。わたしは、日の当たる場所へ帰る姫なんかじゃない。暗い地獄の底で、脳天気に笑ってる、亡霊の花嫁だわっ」
ルナはセリスを追い越して、くるりと振り返る。
それから、そっと自らの腹に手を触れた。
「わたしの胎内にね、一本の聖剣が刺さってるの。人の名工が鍛え、剣の精霊が宿り、神々が祝福した。この世界の秩序に支配されない、宿命を断ち切る聖剣。世界を滅ぼす子供を産む宿命から、わたしを解放してくれるはずだった」
エレネシアがその神眼を光らせ、ルナの胎内を覗き込む。
「だけど、駄目だったわ。うぅん、駄目だと思ってた。きっと霊神人剣はわたしを導いてくれたの。わたしの運命に」
まっすぐセリスの魔眼を見つめ、ルナは言う。
「生まれ変われば、きっとわたしは今度こそ宿命から逃れられる。それなら、霊神人剣は今の秩序を斬り裂いて、<転生>に味方してくれるはず。幻名騎士団のみんなも永遠の苦しみから解放されて、生まれ変わるわ」
あくまでルナの希望的観測だ。
それでも、試してみる価値はあるはずだった。
「彼女の胎内に、強き神の力を宿す聖剣が刺さっているのは事実」
エレネシアが言う。
「けれども、神の力は根本的には私と同質。秩序に味方するものであっても、それを覆すものではない」
「運命は人を裏切るものだ」
セリスは言った。
「俺は信じぬ」
「裏切らないわ。だって、わたしの運命はあなただもの」
にっこりと彼女は微笑む。
「話は簡単だと思うの。わたしに<転生>をかければ、霊神人剣が味方してくれるかもしれない。この聖剣の力は、エレネシアちゃんでもはっきりとはわからないでしょ?」
セリスが僅かに視線を傾ければ、創造神は静かにうなずいた。
彼女は、なぜその深淵を覗けないのか、不可解そうに神眼を凝らしている。
「ほら、ちょっとだけ可能性があるわ。<転生>が成功する可能性。あなたは幻名騎士団として、沢山の生者を滅ぼしてきた。それなら、冷酷なフリをして、わたしに<転生>をかけるべきじゃない?」
可能性は著しく低い。
本当に霊神人剣がそんな奇跡を起こすのか、彼女自身にもわからない。
失敗すれば、末路は一番たちと同じ。
未来永劫滅ぶことなく、生と死の狭間で苦しみ続ける。
けれども、ルナは微塵も迷いもしなかった。
これだけが、ただ唯一、彼の隣にいられる道なのだ。
「亡霊に伴侶は不要」
セリスは振り向き、ルナに告げる。
「生者には生者の道があるものだ」
それがなんなのだ、と彼女は笑い飛ばした。
「どこかの王子様が蜜のように甘い言葉をかけてきたって、あなたの剣に刺される胸の痛みの方が何万倍も素敵だわ」
うっとりとした表情で、ルナは覚悟を見せる。
セリスは呆れたように嘆息した。
「馬鹿め」
「うん。きっと、生きているのに亡霊になったあなたと同じぐらい」
彼は表情を崩さず、魔法陣を描く。
その中心から、万雷剣ガウドゲィモンを引き抜いた。
ルナの体に<転生>の魔法陣が描かれる。
「思い残すことはあるか?」
「ないわ」
亡霊たちと同じように、ルナは迷いなく言った。
「だって、あなたがまっすぐわたしを見てる。初めてね」
セリスを受け入れるように、ルナは両手を広げた。
「できるだけ、ゆっくり殺して」
セリスはゆるりと歩を進め、彼女の目前で立ち止まった。
見つめ合ったのは僅かに数秒。
雨音を斬り裂くように、雷が鳴った。
振り抜かれた万雷剣により、ルナの体が紫の粒子と化して消えていく。
微笑む彼女は、じっとセリスの顔を見つめていた。
瞳に焼きつけるように、瞬きもせず。
「――最期だ。名を聞こう」
不思議そうな表情を浮かべる彼女に、セリスは言った。
「お前の名だ」
「……ルナ・アーツェノン……」
その魔眼に、彼女はぼーっと見とれ、そのまま尋ねた。
「……あなたの名前は……?」
「セリス・ヴォルディゴード」
頭をよぎったのは、ルナが自ら口にした問い。
……結婚するとき、不便じゃないの? 名前知らないと……
亡霊に名は不要。
いつもそう言っていた彼が、ルナに自ら名乗ったのは、たぶんそういうことなのだろう。
「とうに捨てた名だ」
「じゃ、それもわたしが拾っていくね」
セリスはそれ以上を口にすることはない。
それで彼女には十分だった。
「すぐに忘れる」
「雨の音が聞こえていたの」
微笑みながら、ルナは言った。
セリスには意味がわからなかっただろうが、彼女の体は消えていく。
もう魔力も殆どない。
<思念通信>が使えるかわからなかったが、彼女は必死に思念を飛ばした。
――雨音が聞こえていた――
――不吉な音が、ずっと、ずっと。
だけど、あなたと初めて会ったとき、それが止まったわ――
思い返すのは、鮮やかな紫電の瞳。
己の渇望をねじ伏せるほどの強い意思に、心を奪われていた。
――代わりに雷の音が耳から離れなくなった。
今だって、その音がわたしの心臓と一緒に、ずっと鳴り響いている――
一目惚れだったのだろう。
冷たい運命に、それでもどんどん惹かれていった。
自分を殺して、未来のために戦い続けてきた彼が、今は愛おしくてたまらない。
――結婚なんてしなくていい――
――ありふれた家庭もなにもいらないの――
――あなたが教えてくれた名前でわたしは十分――
――戦うわ。わたしは戦う。あなたと一緒に――
――お願い、霊神人剣――
――このお胎から、子供を産む宿命を断ち切ってもいい。
未来の幸せをぜんぶ斬り裂いてくれてもいい。
わたしは生まれ変われなくたっていいわ――
――その代わり。どうか、どうか――
――どうかお願い――
――戦い続ける彼の過酷な日々を、ここで終わりにしてあげて――
――未来はきっと、誰かと笑顔に――
花嫁は逝く。遠い未来へと――