渇望に背中を押されて
「あ……」
ルナが声をこぼす。
エルウィンの体は消滅したが、その中にいた幻獣、蒼猫と朱猫は滅びていない。
霧散した光が集まるようにして、二匹は再び猫の姿を象った。
「精霊? いや、違うな」
セリスの魔眼に紫電が走る。
泡沫世界にはいないはずの幻獣を確かに捉え、万雷剣にて二匹を斬り裂く。
しかし、実体のない蒼猫と朱猫を滅ぼすことはできない。
霧散した二匹は泥のように変化すると、セリスに取り憑こうと体にまとわりついた。
「危ないっ」
ルナは立ち上がり、二匹を手で振り払おうとして、ピタリと止まった。
まるで取り憑かれる様子はなく、男は平然としているのだ。
「……あ、れ?」
災禍の淵姫であるルナの魔眼で見ても、彼からは僅かな渇望も感じられない。
それでも幻獣を寄せ付けないのは、揺るぎない強い意思を持っているからだろう。
「女。これがなにか知っているか?」
不思議そうな顔をしながら、ルナは答える。
「……その、蒼猫ちゃんと朱猫ちゃんは幻獣って言って、悪い子たちじゃないんだけど、でも、お祖父様に利用されているのかもしれなくて……」
要領の得ない説明をしながら、ルナが手を伸ばす。
すると、蒼猫と朱猫は再び猫の姿になって、彼女にすり寄った。
言うことを聞いてくれたことに、ルナはほっと胸を撫で下ろす。
「故郷に帰しちゃうと大変なことになるんだけど、できれば助けてあげたくて」
ルナがぎゅっと二匹の猫を抱き、セリスを見た。
「見逃してくれませんか……?」
「己を襲う獣を飼うとは愚かな女だ」
言葉は、彼女の胸を鋭く刺した。
災禍の淵姫の宿命は断ち切られていない。
それが愚かな行為だと、ルナもわかっていた。
「……そうですよね……」
瞳を暗く染め、ルナは俯く。
「この世は食うか食われるか。誰もが冥府へ続く列に並び、その順番を待っている。敵も突き落とせぬようなら、次はお前の番だ」
男の言葉で、ルナは悟る。
この泡沫世界は過酷なのだ、と。
予想していたことではある。
秩序の整合が取れない小世界は荒む。
死が蔓延り、あらゆる生命は世界とともに滅びへ近づいていく。
イーヴェゼイノの追っ手がかからないといえども、決して楽園などではないのだ。
「…………でも……」
だから、彼女は言った。
「……そのときは、そのときだと思います……」
セリスは真顔で、鋭い眼光を向けてくる。
なにも言わない。
だが、その視線は『自ら死地へ赴くか?』と問うているように、ルナは思った。
「誰だって、いつか死にますから」
彼女が言うと、セリスは僅かに眉を動かした。
「……生きるために生きるのは、本当に生きてるのかなって思って……だから……うまく言えませんけど……そんなのは嫌だなって……」
稲妻の如く魔剣が走った。
ルナが気がつけば、万雷剣の切っ先がその喉元に突きつけられていた。
「なすべきことがありながら、感情で動くか。愚かだな、女。すべての我を通せる理想郷などない。愚者の末路は無意味な死だ」
容赦のない口調。殺気だった眼光。
セリスの警告に、けれども、彼女は一歩も引かずに笑ったのだ。
「きっと、それが、わたしらしい生き方なんです」
「ならば死ね。馬鹿め」
ぎゅっとルナが目を閉じる。
セリスは魔法陣を描き、その中心に万雷剣を収納した。
彼はゆるりと踵を返す。
「え……と……あの……?」
ルナは戸惑う。
すると、どこからともなく声が響いた。
「ご安心を。団長はあなたを気に入ったようです」
<幻影擬態>と<秘匿魔力>が解除され、姿を現したのは魔族の男だ。
手にしている魔槍は、緋髄愴ディルフィンシュテイン。
骨で作られた槍だ。
「……今、ならば死ねって……馬鹿めって……?」
「面白い女だ。気に入った、という程度に解釈していただければ」
そう男は言う。
顔はイージェスの面影があるが、雰囲気が違い、どこか達観した表情だ。
その根源は確かにイージェスのもの。
それでいて、彼よりも底知れぬなにかを感じさせる。
なにより、その魔愴から発せられる魔力が尋常ではなかった。
「一番。余計なことを言うな」
「了解」
セリスの言葉に、真顔で一番は答えた。
「どうしますか? その幻獣という猫、見たところ人間の体を奪うことにより凶暴化するようですが……?」
「首輪をつける」
セリスが空を見上げる。
「刻限だ。奴が来る」
そう彼が口にした瞬間だった。
分厚い雨雲に光が差し、真っ二つに分かれていく。
昼が夜へと変わっていき、空には<創造の月>アーティエルトノアが現れた。
静寂が世界を包み込む。
その瞬間は、まるで時が止まったかのように感じられた。
ひらりひらりと雪月花が舞い降り、月明かりとともに降りてきたのは、一人の女性。
長き白銀の髪を右側で結い上げ、柔和な顔をした神族。
創造神エレネシアだった。
「久しく。最後のヴォルディゴード」
静謐な声がこぼれ落ちる。
まるで優しい鈴の音のようだった。
「あなたの心はいかに?」
嫋やかに問い、エレネシアは言葉を続ける。
「私と盟約を交わし、不適合者として選定審判を戦い、世界の秩序を保つか。それともこれまでと変わらず、神族を滅ぼすか。答えを聞かせて欲しい」
「幻獣とはなんだ?」
セリスの問いに、エレネシアは虚を突かれたように沈黙した。
「そこの猫だ」
彼女は蒼猫と朱猫に視線を移す。
じっと深淵を覗き、エレネシアは答えた。
「私が創った生物ではない。人の仕業。精霊に変化が起きたと思われる」
「実体がなく、人間の体を器にする。創れ」
エレネシアはうなずく。
たおやかに両の手のひらをかざし、雪月花を放つ。
その創造の権能にて、猫の体が構築された。
その器が様々な魔力的変化を起こしていくと、やがて蒼猫と朱猫が興味を持つように近づき始めた。
「噂と伝承ではない。其は心。渇いた心」
幻獣が取り憑きやすい器を見抜いたか、エレネシアは蒼い体毛の猫と朱い体毛の猫を創造し終えた。
すると蒼猫、朱猫が泥のように崩れ、餌食霊杯としてその猫の器を食らった。
すぐさまその渇望を剥き出しにして、ルナを睨む。
「サイカ……ノ――」
「<羈束首輪夢現>」
間髪入れず、セリスが漆黒の首輪を二匹の猫につけた。
渇望に任せ、暴走しようとしていた二匹はこてんとその場に倒れ、眠りこけた。
<羈束首輪夢現>にて夢を見せられているのだ。
授肉した以上は、それから逃れることはできないだろう。
「………………」
ルナは言葉もなく、ただ視線を彼に釘づけにされていた。
餌食霊杯を簡単に創った創造神もそうだが、授肉した幻獣をいとも容易く眠らせた彼も、並大抵の実力ではない。
浅層世界の魔族にはまず不可能。
ここは泡沫世界だが、彼は深層世界の住人に劣らない力を持っている。
もしかしたら、この世界は終わりかけているのかもしれない。
滅びへ近づく根源は力を増す。
それと同じく、滅びへ近づき、今にも弾ける寸前の泡沫が最後の輝きを放ち、埒外の力の持ち主を誕生させた――
「私はもう一度、あなたに問う」
エレネシアが言う。
「答えはいかに?」
「条件がある」
「それはなに?」
セリスは指先に魔力を集め、目の前に魔法の術式を描いた。
それは、<転生>である。
だが、ミリティア世界のときとは少々術式の細部が異なる。
未完成なのだ。
「<転生>を完成させるのに力を貸せ」
エレネシアは悲しげにその魔法の術式を見据え、次に同じような瞳でセリスの顔を見た。
それから、静かに口を開く。
「……最後のヴォルディゴード。どうか聞いて欲しい。あなたは強き滅びの根源を持ち、その力は秩序である私たち神族を上回るほど。けれど、不適合者と呼ばれるあなたの力をもってしても、この奇跡は起きない。誰もが死ねばそこで終わり」
世界には、まだ転生が存在しなかった。
「一つ、この世界はそれほど優しく創られていない。一つ、あなた以上に秩序へ干渉できる不適合者が必要。一つ、あなたにはもう時間が残されていない」
「二度は言わぬぞ」
紫電を宿した強い瞳で、セリスは言った。
「力を貸せ、創造神。まだ終わりではない。たとえこの身が朽ち果てようとも、戦いは続く。俺が伸ばしたこの手は、次に訪れる死闘の可能性だ」
それは稲妻の如く、苛烈な言葉だった。
「それは次へ次へとつながり、いつか必ず届く。この世界の愚かな秩序に楔を打つ。それが滅びの前触れだ」
「あなたは最後のヴォルディゴード。もう次はない」
エレネシアは、端的に事実を口にする。
彼の終わりは近かった。
ヴォルディゴードの滅びの根源、その力が日に日に彼自身を蝕んでいる。
抑えていられる猶予は、幾ばくもない。
「亡霊は死なず。愚かな世界を滅ぼすまでは」
二人がなんの話をしているか、ルナにはよくわからなかった。
唯一わかるのは、不適合者という言葉。
敗北の宿命を背負い、世界の理に刃向かう者。
だけど、これまでに聞いた不適合者とはどこか印象が違うような気がした。
秩序を乱し、世界の仇敵となるのが不適合者。
銀水聖海ではそのように伝えられている。
主神や適合者に敗れる運命を辿る彼らは、純粋な悪であるはずなのだ。
それなのに――
目の前の男は、どこまでもまっすぐな瞳で、この世界の遠い未来を見つめている。
「<転生>を遺そう。この愚かな世界と戦い続ける亡霊に、それは勝利をもたらす。エレネシア、お前が信じるならば、俺はお前と盟約を結ぼう」
エレネシアは一度目を伏せる。
そうして、再びまっすぐセリスを見つめ、言ったのだ。
「あなたの勝利を信じ、あなたの神となろう。最後のヴォルディゴード。神の起こせぬ奇跡を、この地上に」
セリスの指に、選定の盟珠が現れ、それが火を灯した。
「いつでも喚びなさい。<神座天門選定召喚>。それで私は地上へ降臨できる」
エレネシアに月明かりが降り注ぐ。
その姿が透明になっていくと、うっすらと<創造の月>が消えていき、夜が昼へ戻り始めた。
太陽がその場を照らし出せば、エレネシアの姿はもうどこにもなかった。
「行くぞ」
すぐにセリスが歩き出す。
一番が無言で後に続いた。
「あ、ま、待ってっ……!」
考えるより先に、言葉が口を突いていた。
どう説明すればいいか、ルナは必死に頭を悩ませる。
「あの……わたし、その……身よりがなくて、突然迷い込んじゃったから、右も左もわからなくて……」
彼女にはまるで取り合わず、セリスと一番は走り出す。
あっという間に見えなくなっていく二人を、ルナは咄嗟に追いかけた。
地面に寝ていた蒼猫と朱猫を拾い、腕に抱えて走っていく。
もっと平穏に暮らせるところを探せばよかったのかもしれない。
だけど、わけもわからずに彼女は走り出していた。
自身の渇望が強く強く訴える。
彼から、離れてはいけないと。
「すみませんっ、待ってください。最後のヴォルディゴードさんっ」
<秘匿魔力>と<幻影擬態>でセリスと一番は姿を消す。
だが、深層世界出身のルナには、二人の姿を追うことができた。
すぐに振り切れると思った一番は、意外そうな顔で彼女を振り向く。
「普通の魔族ではありませんね。事情がありそうですが?」
セリスは無言で更に速く駆けた。
崖から崖へと飛び移り、魔力場の荒れた場所を突き進んでいく。
ルナは二人を必死に追う。
身体能力はさほどではない彼女だったが、この世界に来てから妙に体が軽い。
泡沫世界だからだろう。
セリスと一番は<飛行>を使い、風の吹き荒れる崖下を飛び去っていく。
ルナも<飛行>にて追いかけたが、そのとき水音が耳に響いた。
胎内から、僅かに声が聞こえる。
魔力を使いすぎて、<渇望の災淵>とつながりかけたのだ。
慌ててそれを押さえ込んだ瞬間、<飛行>が切れ、彼女は真っ逆さまに落ちていく。
災禍の胎の制御は、間に合いそうもない――
地面への激突を覚悟したそのとき、ぐんと腕を引かれた。
セリスが、ルナを持ち上げていたのだ。
彼女の腕からこぼれた猫二匹も、<飛行>で浮かされていた。
「その腹、なにが寄生している?」
異常を感じ取ったか、彼は魔眼にてルナの深淵を覗く。
「……いえ、これは……違うんです……」
ルナがどう説明しようか迷っていると、彼は言った。
「パンは焼けるか?」
「え……?」
「大所帯だ。人手が足りん」
数秒の沈黙。
ようやく意味を理解したか、ルナは満面の笑みを浮かべる。
「はいっ、花嫁修業はばっちりですっ!」
それまで厳しい面持ちを崩さなかったセリスが、呆気にとられる。
遠くで一番が笑っていた。
思い込んだら一直線――