紫の雷鳴
銀水聖海では、一万四千年前。
まだ創造神ミリティアが誕生する前、その泡沫世界の名はエレネシア。
すなわち、銀海とその小世界との間には、時間の不一致が存在する。
ミリティア世界から見れば、およそ七億年以上も昔のこと――
魔族の国ラーカファルセイトから始まった、それは言葉にできなかった恋物語。
雨が降っていた。
聞き慣れた音とは、少し違う響きを耳にして、ルナ・アーツェノンは目を覚ました。
見たこともない雲の形、いつもとは異なる雨の音。
「泡沫世界……」
ぽつりとルナは呟く。
彼女は目的の場所へ来ることができたのだと思った。
赤く染まった腹部に手を当てる。
服は血で汚れているが、傷は塞がっていた。
刺さっていたはずのエヴァンスマナは、どこにも見当たらない。
「ありがとう……男爵様……」
霊神人剣は、アーツェノンの滅びの獅子に対して絶大なる威力を発揮する聖剣だ。
無論、魔族や幻獣にもそれなりの効果があるが、滅びの獅子への特効ほどではない。
懐胎の鳳凰を探し出すことのできていない状況で、ルナが災禍の淵姫である宿命まで滅ぼせる保証はない、とレブラハルドは考えたのである。
ゆえに、彼女がイーヴェゼイノの住人である宿命を断ち切った。
そうすれば、懐胎の鳳凰はルナを見失い、結果的に災禍の淵姫である宿命からも逃れることができるはずだ。
幻獣機関の目の前でルナを滅ぼした風に装い、イーヴェゼイノにある彼女の火露も消えたとなれば、ドミニクたちも諦めざるを得ない。
泡沫世界へは立ち入りが禁止されているため、偶然発見することもないはずだ。
霊神人剣が見当たらないのは、それがルナの胎内ではなく、<渇望の災淵>に突き刺さっていたからである。
ルナと<渇望の災淵>のつながりが断ち切られたのなら、折れた剣身は今、イーヴェゼイノにあるはず。
一通り、彼女は考えを巡らせた。
「……カノ…………キ…………」
ルナははっと身を起こし、耳をすました。
雨音に混ざり、不気味な声が聞こえたのだ。
雨とともに空から落ちてきたのは不定形の二匹の獣。
ルナがいつも朱猫と蒼猫と呼んでいた幻獣だった。
「イカ……ナイデ…………」
「……サイカノ……エンキ…………」
二匹は猫の形を象り、顔を向けてきた。
ルナは身構える。
雨粒が彼女の髪を伝い、こぼれ落ちた。
「どうしよう……?」
実体のない幻獣だからこそ、パブロヘタラの監視に引っかからず、ここまで追ってこられたのだろう。
パリントンが言った通り、二匹は依存の渇望を持っていた。
ルナに依存し、追いかけてきたに違いない。
このままここにいれば問題ない。だが、依存がずっと続く保証もない。
イーヴェゼイノへ帰すわけにはいかなかった。
もしかすれば、これは彼女の祖父ドミニクの企みかもしれないのだ。
蒼猫と朱猫に依存させることで、万が一ルナがどこかへ逃げても、見つけ出すことができるようにしていたのかもしれなかった。
「おいで。蒼猫ちゃん、朱猫ちゃん……。一緒にここで暮らしましょ。ね」
ルナが二匹に手を伸ばす。
そのときだ。
ざっ、と足音が響いた。
彼女が振り返ると、そこに武装をした人間たちがいた。
「……魔族の女……」
「奴らではない、か」
「いや、魔力が普通と異なる。只者ではない」
聖剣を携えた一人の男が歩み出る。
「私はアイベスフォンの勇者、名はエルウィン。問おう、魔族の女よ。汝は何者だ? 幻名騎士団の一味ではあるまいな?」
勇者エルウィンがそう名乗った瞬間、蒼猫と朱猫の魔眼が怪しく光った。
「……逃げてっ……!!」
ルナが叫ぶ。
瞬く間に蒼猫と朱猫が溶け、泥のように不定形な体となって、エルウィンへ襲いかかった。
だが、彼はまるで反応しない。
見えないのだ。
彼らの魔眼に、幻獣を見る力は備わっていない。
「うぐっ……がっ、あぁ…………」
蒼猫と朱猫の泥が、エルウィンを侵すようにその体内へ入っていく。
「エルウィン殿……!!」
「どうしましたっ!? いったい、なにが?」
「……この女の仕業かっ…………!?」
残った三名の戦士がルナに向かって剣を構えたその瞬間、エルウィンが彼らに聖剣を振るった。
「な、エルウィ――」
その一撃に、声はかき消される。
禍々しい魔力が戦士らを飲み込み、塵一つ残さず消し去ったのだ。
大地が派手に抉れ、後ろの木々は軒並み斬り倒されていた。
明らかに泡沫世界の人間の魔力を超えている。
「……授肉……した…………?」
ルナの口から、驚きとともに言葉がこぼれ落ちる。
「……ハイフォリアの狩猟貴族と同じ……餌食霊杯なの……?」
幻獣は生物に取り憑くが、決して体を自分の意のままに操ることはできない。
授肉することはないのだ。
渇望には渇望で対抗できるため、というのがその理由だ。
しかし、数多ある小世界の中には、極めて渇望に乏しい種族がいる。
ハイフォリアの狩猟貴族がそうだ。
下級のものを中心に約六割ほどの幻獣は、彼らの根源を内側から食らうことで、その肉体を手に入れ、明確な意思を持つ。授肉することができるのである。
幻獣に適したその器は、イーヴェゼイノでは餌食霊杯と呼ばれ、多くの幻獣たちは好んで襲いかかり、食した。
無論、幻獣に耐えうる器は少なく、数ヶ月もすればその肉体は滅び去る。
だが餌食霊杯の味を覚えた幻獣は、次の肉体を強く欲するようになる。
この餌食霊杯と幻獣の関係は、イーヴェゼイノとハイフォリアの長きに渡る争いの発端だった。
「……行カ……ナイデ……」
一瞬にして、エルウィンはルナの目の前に移動した。
蒼猫と朱猫、二匹の幻獣がすでにその勇者を餌食霊杯とし、授肉している。
その男は最早、エルウィンではない。
「殺ス……僕ノモノにスル……!」
聖剣すらも汚染され、すでに魔剣も同然だ。
その禍々しき剣にて蒼猫朱猫は、ルナの腹部を斬りつけた。
「……きゃあぁっ……!」
悲鳴と同時に血が溢れ、魔剣がバキンッと折れた。
剣身が彼女の胎内に飲み込まれたのだ。
ルナは斬られた勢いのまま弾き飛ばされ、地面を数度跳ねては、水たまりに仰向けに倒れた。
「殺ス……」
蒼猫朱猫は、人間の戦士が地面に落とした聖剣を拾い上げた。
それに莫大な魔力を込め、倒れたルナめがけて振りかぶる。
しかし、彼女は呆然としていた。
「…………嘘…………」
僅かながら、しかし確実にルナが感じているのは胎内にある<渇望の災淵>。
耳に響く、故郷の音。
イーヴェゼイノの住人ではなくなったはずだ。
だが、なおも、雨は止まない。
水たまりで仰向けになった彼女に、それはとめどなく降り注ぐ。
「殺シテ……ヤル……!」
剣は渇望に染め上げられ、魔剣と化してルナに投擲された。
一秒の猶予もなくそれが彼女の身に迫り、赤い血がルナの頬を濡らす。
だが、痛みを感じなかった。
一人の魔族が立ちはだかり、手のひらを貫かせてなお、その魔剣を受け止めたのだ。
紫の髪と、滅紫に染まった魔眼。
外套を纏った男だった。
「……誰ダ……?」
「亡霊に名は不要」
返答よりも早く、人間に受肉した蒼猫朱猫が突っ込んでくる。
男は携えた万雷剣ガウドゲィモンを、まるで居合抜きでもするかのように、鞘に見立てた魔法陣の中に納める。
「しかし、冥府に行く者は、せめてこの名を刻むといい。幻名騎士団、団長――」
「……逃げて……! この世界の住人じゃ、幻獣は倒せ――」
立ちこめた暗雲から紫電が、魔法陣の鞘に落雷する。
帯電したその魔剣が放つ魔力は、<滅尽十紫電界雷剣>級、否――それ以上だ。
万雷剣、秘奥が拾――
――<滅刃雷火>。
「滅殺剣王ガーデラヒプト」
突っ込んできた勇者エルウィンをすり抜け、魔法陣の鞘から抜き放った万雷剣にて斬り裂いた。
傷口に雷撃が走った。
斬った箇所のみに走る滅びの稲妻は、一瞬にして勇者エルウィンの体を滅ぼし尽くした。
バチバチと紫電を体に纏わせながら、ゆるりとその男、セリス・ヴォルディゴードは振り向いた。
「奇妙な魔力だ。女、名はなんと言う?」
すぐには答えることができなかった。
不吉な音が止まっていた。
雨は降っている。
なのにもう雨の音は聞こえない。
もっと、もっと大きな音が、彼女の全身に響いていた。
そうして、座り込んだままの姿勢で、ルナはその男の顔を見上げる。
イーヴェゼイノに雷がないわけではなかった。
雨の日が続く災淵世界では、それは当たり前の災害だ。
それでも、このとき、彼女は生まれて初めて、輝くような目映い紫電を見た。
大きくて、大きくて、止まらない。
紫の雷鳴が、遠く心臓に鳴り響く――
その出会いは、稲妻の如く――




