ハインリエル勲章
一万七千年前――
鍛冶世界バーディルーア。
雨が降っていた。
目の前は濃霧に覆われている。
いや、それは霧ではなく、煙だ。
数多に存在する鍛冶工房から吐き出される煙が、バーディルーアを覆い尽くし、視界を塞ぐ。
鍛冶世界の鉄火人ならば、そこかしこから響く魔鋼を打つ音にて現在地を把握するが、災淵世界出身のルナには真似できることではなかった。
彼女の耳に響くのは、故郷で飽きるほど耳にした不吉な雨音。
嫌な予感を押し殺しながら、彼女は走る。ふいにぬかるみに足を取られ、地面に倒れ込んだ。
「……あ……う…………」
その水たまりの中に、自分がいるような気がした。
我が子が、アーツェノンの滅びの獅子として生まれると聞き、ルナは長い間引きこもっていた。
お祖父様の思い通りにはならない。
子供を産んではならない。
誰も、好きになってはならない。
何度も何度も言い聞かせ、何度も何度も思いとどまった。
それでも、胸の中に燻る渇望は消えてはくれない。
特別なんか一つもいらない。ただありふれた家庭が欲しかった。
「……急がなきゃ。船が出ちゃう……」
ルナは立ち上がり、再び走り出す。
ずっと――
頭の中にとめどなく浮かぶ渇望を、殺して、殺して、必死に押し殺していた。
――お前の子は、銀水聖海を滅ぼす獅子となるのだ――
祖父の言葉を思い出し、ルナは自らに言い聞かせた。
この夢は叶わないのだ、と。
アーツェノンの滅びの獅子。
その恐ろしさは、イーヴェゼイノに住む者ならば誰もが嫌というほど知っている。
曰く、出会ってはならぬ幻獣。
曰く、解き放ってはならぬ厄災。
時折、滅びの獅子は<渇望の災淵>から外へ影響を及ぼす。
それはどんなに小さな力とて、世界に爪痕を残す大災害となった。
数千年前、<渇望の災淵>から僅かに突き出された滅びの爪がイーヴェゼイノの半分を削ぎ落とした。
多くの神族が滅び、秩序は歪み、狂いに狂って、それ以来、災淵世界の雨は止まない。
一本の爪でそれだ。実体を持たずにそれだ。
もしも授肉し、この世に解き放たれたなら、どれほど恐ろしい災いを撒き散らすか、想像すらつかなかった。
愛する人と結ばれ、子を作る。
貧しくとも仲睦まじく、穏やかに平和に暮らす。
その夢は、災禍の淵姫にとって紛れもなく大罪だ。
彼女の子は、決して平穏をもたらしはしない。
だが、それでも――
取り返しのつかない罪なのだとしても、祖父ドミニクの言ったことは事実だったのかもしれない。
渇望は、消えない。
叶わないと知ってなお、それは彼女を責め立てる。
千年。ルナは己の渇望と戦い続けた。
そうして、出会ったのだ。
イーヴェゼイノに迷い込んだ幼子に。
あるいは、それは悪魔の誘惑だったのかもしれない。
子供が欲しかったルナの背中を押すように、小さな子供との触れあいは、彼女の渇望を強く呼び覚ました。
ルナは彼に事情を打ち明ける。
諦めるのは早い、とその子は言った。
彼は幼いながらも利発で、ルナと同じく大きな宿命を背負っていた。
唯一違ったのは、幼子は自らの宿命を決して悲観せず、戦い続けていたということ。
必ず勝つと、彼は言った。
不思議と彼女も運命と戦える気がしてきたのだ。
彼の力を借りて、ルナはイーヴェゼイノを抜け出した。
その子は自らの戦いへ赴いた。彼女も戦うために、一人、この鍛冶世界バーディルーアへやってきた。
今、ここに滞在している貴族なら、ルナの力になってくれるかもしれなかった。
「はぁ……はぁ……いた……!」
険しい山を登ったところに、船着き場があり、そこに銀水船ネフェウスが停泊していた。
一般人は立ち入りが禁止された区画だ。正規のルートでは、バーディルーアの兵士たちが入れてくれないため、彼女は裏からそこまで登ったのだ。
「あ……」
船を見て、ルナが呟く。
碇が上げられていく。
まもなく、銀水船ネフェウスが出航しようとしているのだ。
「待って……お待ちくださいっ……男爵様っ……!」
駆けよりながら、ルナは銀水船に向かって大声で叫んだ。
船が出てしまえば、もう会うチャンスはない。
銀水聖海を渡る術を、ルナは持っていなかった。
「男爵様、どうか、これをっ……!」
ルナが懐から、勲章を取り出し、ゆっくり浮かび上がる船に向かってかかげた。
五本剣の意匠が施されている。
「下がれ、女。どこから入った?」
「それ以上進めば、ただではすまんぞ」
ルナに気がついた兵士たちが続々と集まってくる。
あっという間にルナは取り押さえられ、地面に顔を押さえつけられた。
「お願いっ。放してください。男爵様にお話がっ……! この勲章を……」
「静かにしろ! お前のような不審な輩を男爵殿に会わせると思うか?」
兵士は聖剣を抜き、ルナの首に突きつける。
「誰のさしがねか? なんの目的で男爵殿に接触しようとしている?」
ルナは答えることができなかった。
本当のことを告げたところで、兵士たちが信じることはないだろう。
「男爵様にならお話しします」
「ほう。そうか? では、お前が口を割りたくなるまで、指を一本ずつ落としてやろう。押さえろ」
周囲の兵士たちがルナの体を強く押さえ、その手を開かせる。
親指に聖剣の切っ先が触れ、僅かに血が滲んだ。
「まずは親指からだ」
震えながら、ルナがぎゅっと目を閉じる。
体の奥底に眠る<渇望の災淵>が開かないように、必死に魔力を制御した。
兵士が剣を振り下ろした。
「…………!!」
「……な…………?」
唖然とした声がこぼれ落ちる。
痛みはない。
ルナが目を開けば、視界に入ったのは折れた剣身だ。
「手荒な真似は感心しない。彼女にも事情があったのかもしれないよ」
銀水船の前を横切るように、金髪の男がゆっくりと降下してくる。
貴族らしい荘厳な衣服を身につけ、手には透き通る聖剣を携えている。
その剣を使い、兵士の剣を折ったのだ。
「下がりなさい。彼女は私に用があるみたいだからね」
「は、はいっ」
レブラハルドは静かに着地すると、ルナのもとへ歩いていく。
兵士たちは彼女を解放すると、道を空けるように後ろへ下がった。
「手荒な真似をしてすまないが、恨まないでやって欲しい。彼らも仕事でね」
「……いえ、わたしが勝手に入ったから、いけないんです……」
貴族の男が手を差し伸べ、ルナの体を起こした。
「ハイフォリアの五聖爵、男爵レブラハルド・フレネロス様ですか……?」
銀水聖海において、元首は世襲制ではない。
聖剣世界ハイフォリアでもそれは例外ではなかった。聖王の子供は王子と呼ばれることなく、他の狩猟貴族らと同等の扱いとなる。
レブラハルドは現聖王の実子ではあるものの、聖王は家系に関わらずハインリエルを名乗るため、姓が異なっていた。
「そうだね。私に用があるのかな?」
ルナはこくりとうなずき、意を決したように言った。
「わたしはイーヴェゼイノの幻獣機関、所長ドミニクの孫娘、ルナと申します」
一瞬、レブラハルドは険しい表情をした。
「男爵様にお願いが……」
レブラハルドがすっと手で制し、兵士たちを振り向く。
「外してくれるかな?」
「は、承知しました」
兵士たちは皆、船着き場から離れていく。
レブラハルドが<思念通信>を送ると、銀水船ネフェウスも上昇していった。
人払いが済むと、彼は改めてルナに言う。
「すまないね。イーヴェゼイノとの仲は君も知っての通りだ。他の者に聞かれたら、身の安全は保証できない」
ルナはこくりとうなずいた。
「幻獣機関の所長に孫娘がいたとは知らなかったが、どういった用かな?」
「……ある人に、男爵様のことを聞いて、力になってくれるはずだって……」
そう言いながら、ルナは先程の勲章をレブラハルドに見せた。
彼はそれに魔眼を向け、本物であることを確認する。
そして、悲しみと暖かさが混じったような声で、優しく訊いた。
「ジェインの最期を看取ったかい?」
ルナはきょとんとした表情を浮かべた。
すると、レブラハルドは不思議そうに首を捻る。
「……これが、なにか知っているかい?」
ルナは左右に首を振った。
「詳しくは……その……元々、これはわたしのものじゃなくて……」
「……そうか……」
死者を悼むように、レブラハルドはその勲章に祈りを捧げた。
「あの……?」
「これは、ハインリエル勲章といってね。聖王陛下から賜るものだ。狩猟貴族はこれに遺言を遺すのを習わしにしている。私の旧友、ジェインの心と言葉が刻まれているよ。これを譲り渡した者の力になって欲しい、と」
レブラハルドは勲章を手にする。
目映い光の粒子が、そこから溢れ、彼の周囲に漂う。
勲章がまるで彼に語りかけているようだった。
「君は、強き幼子から、この勲章を譲り受けたようだね。これを持っていけば、私が力になってくれる、と」
「……どうして……?」
「<聖遺言>、ハイフォリアの魔法だよ。狩猟貴族は滅び去る前に、その力にて心を遺品に遺すことができる。ここにジェインの心が遺っていてね。彼はその子供から命にも代え難いほどの恩を受けた、と言っている。その子は誰かな?」
困ったようにルナは頭を振った。
「……名前は、知らないんです。その子には、知らない方がいいと……出会わなかったことにした方がいいと言われました……」
「どうりで、<聖遺言>にも遺っていないわけだね……ジェインにも同じことを言ったのかもしれない……」
勲章の光がすっと消えていった。
「構わないよ。ジェインの恩人が、この勲章を譲った相手。それが何者であれ、たとえ宿敵であるイーヴェゼイノの住人であっても同じことだ。五聖爵が一人、レブラハルド・フレネロスの名にかけて、私は狩猟貴族としての義を示そう」
勲章をそっと握り、レブラハルドは言った。
「私に願いがあると言っていたね?」
ルナはうなずく。
「太古の昔、ハイフォリアの勇者は、アーツェノンの滅びの獅子を斬り裂いたことがあると聞きました。どんな宿命をも断ちきることができる聖剣を使って」
ハイフォリアの象徴、霊神人剣エヴァンスマナの伝承である。
「……わたしは、アーツェノンの滅びの獅子を生む災禍の淵姫です……わたしの胎内が、<渇望の災淵>とつながっています……」
レブラハルドは驚きを隠せなかった。
アーツェノンの滅びの獅子がどうやって生まれるのか、狩猟貴族たちにはこれまでずっと隠されてきたのだ。
知られれば、ハイフォリアは全狩人を動員し、ルナを狩ろうとするだろう。
それでも、これしか方法がなかった。
ぐっと拳を握りしめ、一縷の望みにかけるように、彼女は言う。
「お願いします……男爵様。どうか……どうか霊神人剣で、この宿命を断ちきってください……!」
男爵時代のレブラハルドと災過の淵姫ルナの邂逅。
彼らは宿命を断ち切ることができたのか――?