表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
542/726

ハインリエル勲章


 一万七千年前――

 鍛冶世界バーディルーア。


 雨が降っていた。


 目の前は濃霧に覆われている。

 いや、それは霧ではなく、煙だ。


 数多に存在する鍛冶工房から吐き出される煙が、バーディルーアを覆い尽くし、視界を塞ぐ。


 鍛冶世界の鉄火人ならば、そこかしこから響く魔鋼まこうを打つ音にて現在地を把握するが、災淵世界出身のルナには真似できることではなかった。


 彼女の耳に響くのは、故郷で飽きるほど耳にした不吉な雨音。

 嫌な予感を押し殺しながら、彼女は走る。ふいにぬかるみに足を取られ、地面に倒れ込んだ。


「……あ……う…………」


 その水たまりの中に、自分がいるような気がした。


 我が子が、アーツェノンの滅びの獅子として生まれると聞き、ルナは長い間引きこもっていた。


 お祖父様の思い通りにはならない。


 子供を産んではならない。


 誰も、好きになってはならない。


 何度も何度も言い聞かせ、何度も何度も思いとどまった。


 それでも、胸の中に燻る渇望は消えてはくれない。

 特別なんか一つもいらない。ただありふれた家庭が欲しかった。


「……急がなきゃ。船が出ちゃう……」


 ルナは立ち上がり、再び走り出す。


 ずっと――

 頭の中にとめどなく浮かぶ渇望を、殺して、殺して、必死に押し殺していた。


 ――お前の子は、銀水聖海を滅ぼす獅子となるのだ――


 祖父の言葉を思い出し、ルナは自らに言い聞かせた。


 この夢は叶わないのだ、と。


 アーツェノンの滅びの獅子。

 その恐ろしさは、イーヴェゼイノに住む者ならば誰もが嫌というほど知っている。


 曰く、出会ってはならぬ幻獣。

 曰く、解き放ってはならぬ厄災。


 時折、滅びの獅子は<渇望の災淵>から外へ影響を及ぼす。

 それはどんなに小さな力とて、世界に爪痕を残す大災害となった。


 数千年前、<渇望の災淵>から僅かに突き出された滅びの爪がイーヴェゼイノの半分を削ぎ落とした。

 

 多くの神族が滅び、秩序は歪み、狂いに狂って、それ以来、災淵世界の雨は止まない。

 

 一本の爪でそれだ。実体を持たずにそれだ。

 もしも授肉し、この世に解き放たれたなら、どれほど恐ろしい災いを撒き散らすか、想像すらつかなかった。


 愛する人と結ばれ、子を作る。

 貧しくとも仲睦まじく、穏やかに平和に暮らす。


 その夢は、災禍の淵姫にとって紛れもなく大罪だ。

 彼女の子は、決して平穏をもたらしはしない。


 だが、それでも――

 取り返しのつかない罪なのだとしても、祖父ドミニクの言ったことは事実だったのかもしれない。


 渇望は、消えない。

 叶わないと知ってなお、それは彼女を責め立てる。


 千年。ルナは己の渇望と戦い続けた。

 

 そうして、出会ったのだ。

 イーヴェゼイノに迷い込んだ幼子に。


 あるいは、それは悪魔の誘惑だったのかもしれない。

 子供が欲しかったルナの背中を押すように、小さな子供との触れあいは、彼女の渇望を強く呼び覚ました。


 ルナは彼に事情を打ち明ける。

 諦めるのは早い、とその子は言った。 

 

 彼は幼いながらも利発で、ルナと同じく大きな宿命を背負っていた。

 

 唯一違ったのは、幼子は自らの宿命を決して悲観せず、戦い続けていたということ。

 必ず勝つと、彼は言った。


 不思議と彼女も運命と戦える気がしてきたのだ。


 彼の力を借りて、ルナはイーヴェゼイノを抜け出した。

 その子は自らの戦いへ赴いた。彼女も戦うために、一人、この鍛冶世界バーディルーアへやってきた。


 今、ここに滞在している貴族なら、ルナの力になってくれるかもしれなかった。


「はぁ……はぁ……いた……!」


 険しい山を登ったところに、船着き場があり、そこに銀水船ネフェウスが停泊していた。


 一般人は立ち入りが禁止された区画だ。正規のルートでは、バーディルーアの兵士たちが入れてくれないため、彼女は裏からそこまで登ったのだ。


「あ……」


 船を見て、ルナが呟く。


 いかりが上げられていく。

 まもなく、銀水船ネフェウスが出航しようとしているのだ。


「待って……お待ちくださいっ……男爵様っ……!」


 駆けよりながら、ルナは銀水船に向かって大声で叫んだ。


 船が出てしまえば、もう会うチャンスはない。

 銀水聖海を渡る術を、ルナは持っていなかった。


「男爵様、どうか、これをっ……!」


 ルナが懐から、勲章を取り出し、ゆっくり浮かび上がる船に向かってかかげた。

 五本剣の意匠が施されている。


「下がれ、女。どこから入った?」


「それ以上進めば、ただではすまんぞ」


 ルナに気がついた兵士たちが続々と集まってくる。

 

 あっという間にルナは取り押さえられ、地面に顔を押さえつけられた。


「お願いっ。放してください。男爵様にお話がっ……! この勲章を……」


「静かにしろ! お前のような不審な輩を男爵殿に会わせると思うか?」


 兵士は聖剣を抜き、ルナの首に突きつける。


「誰のさしがねか? なんの目的で男爵殿に接触しようとしている?」


 ルナは答えることができなかった。

 本当のことを告げたところで、兵士たちが信じることはないだろう。


「男爵様にならお話しします」


「ほう。そうか? では、お前が口を割りたくなるまで、指を一本ずつ落としてやろう。押さえろ」


 周囲の兵士たちがルナの体を強く押さえ、その手を開かせる。

 親指に聖剣の切っ先が触れ、僅かに血が滲んだ。


「まずは親指からだ」


 震えながら、ルナがぎゅっと目を閉じる。

 体の奥底に眠る<渇望の災淵>が開かないように、必死に魔力を制御した。


 兵士が剣を振り下ろした。


「…………!!」


「……な…………?」


 唖然とした声がこぼれ落ちる。


 痛みはない。

 ルナが目を開けば、視界に入ったのは折れた剣身だ。


「手荒な真似は感心しない。彼女にも事情があったのかもしれないよ」


 銀水船の前を横切るように、金髪の男がゆっくりと降下してくる。

 貴族らしい荘厳な衣服を身につけ、手には透き通る聖剣を携えている。


 その剣を使い、兵士の剣を折ったのだ。


「下がりなさい。彼女は私に用があるみたいだからね」


「は、はいっ」


 レブラハルドは静かに着地すると、ルナのもとへ歩いていく。

 兵士たちは彼女を解放すると、道を空けるように後ろへ下がった。


「手荒な真似をしてすまないが、恨まないでやって欲しい。彼らも仕事でね」


「……いえ、わたしが勝手に入ったから、いけないんです……」


 貴族の男が手を差し伸べ、ルナの体を起こした。


「ハイフォリアの五聖爵、男爵レブラハルド・フレネロス様ですか……?」


 銀水聖海において、元首は世襲制ではない。


 聖剣世界ハイフォリアでもそれは例外ではなかった。聖王の子供は王子と呼ばれることなく、他の狩猟貴族らと同等の扱いとなる。


 レブラハルドは現聖王の実子ではあるものの、聖王は家系に関わらずハインリエルを名乗るため、姓が異なっていた。


「そうだね。私に用があるのかな?」


 ルナはこくりとうなずき、意を決したように言った。

 

「わたしはイーヴェゼイノの幻獣機関、所長ドミニクの孫娘、ルナと申します」


 一瞬、レブラハルドは険しい表情をした。


「男爵様にお願いが……」


 レブラハルドがすっと手で制し、兵士たちを振り向く。


「外してくれるかな?」


「は、承知しました」


 兵士たちは皆、船着き場から離れていく。

 レブラハルドが<思念通信リークス>を送ると、銀水船ネフェウスも上昇していった。


 人払いが済むと、彼は改めてルナに言う。


「すまないね。イーヴェゼイノとの仲は君も知っての通りだ。他の者に聞かれたら、身の安全は保証できない」


 ルナはこくりとうなずいた。


「幻獣機関の所長に孫娘がいたとは知らなかったが、どういった用かな?」


「……ある人に、男爵様のことを聞いて、力になってくれるはずだって……」


 そう言いながら、ルナは先程の勲章をレブラハルドに見せた。


 彼はそれに魔眼を向け、本物であることを確認する。

 そして、悲しみと暖かさが混じったような声で、優しく訊いた。


「ジェインの最期を看取ったかい?」


 ルナはきょとんとした表情を浮かべた。

 すると、レブラハルドは不思議そうに首を捻る。

 

「……これが、なにか知っているかい?」


 ルナは左右に首を振った。


「詳しくは……その……元々、これはわたしのものじゃなくて……」


「……そうか……」


 死者を悼むように、レブラハルドはその勲章に祈りを捧げた。


「あの……?」


「これは、ハインリエル勲章といってね。聖王陛下から賜るものだ。狩猟貴族はこれに遺言を遺すのを習わしにしている。私の旧友、ジェインの心と言葉が刻まれているよ。これを譲り渡した者の力になって欲しい、と」


 レブラハルドは勲章を手にする。

 目映い光の粒子が、そこから溢れ、彼の周囲に漂う。


 勲章がまるで彼に語りかけているようだった。


「君は、強き幼子から、この勲章を譲り受けたようだね。これを持っていけば、私が力になってくれる、と」


「……どうして……?」


「<聖遺言バセラム>、ハイフォリアの魔法だよ。狩猟貴族は滅び去る前に、その力にて心を遺品に遺すことができる。ここにジェインの心が遺っていてね。彼はその子供から命にも代え難いほどの恩を受けた、と言っている。その子は誰かな?」


 困ったようにルナは頭を振った。


「……名前は、知らないんです。その子には、知らない方がいいと……出会わなかったことにした方がいいと言われました……」


「どうりで、<聖遺言バセラム>にも遺っていないわけだね……ジェインにも同じことを言ったのかもしれない……」


 勲章の光がすっと消えていった。


「構わないよ。ジェインの恩人が、この勲章を譲った相手。それが何者であれ、たとえ宿敵であるイーヴェゼイノの住人であっても同じことだ。五聖爵が一人、レブラハルド・フレネロスの名にかけて、私は狩猟貴族としての義を示そう」


 勲章をそっと握り、レブラハルドは言った。


「私に願いがあると言っていたね?」


 ルナはうなずく。


「太古の昔、ハイフォリアの勇者は、アーツェノンの滅びの獅子を斬り裂いたことがあると聞きました。どんな宿命をも断ちきることができる聖剣を使って」


 ハイフォリアの象徴、霊神人剣エヴァンスマナの伝承である。


「……わたしは、アーツェノンの滅びの獅子を生む災禍の淵姫です……わたしの胎内が、<渇望の災淵>とつながっています……」


 レブラハルドは驚きを隠せなかった。


 アーツェノンの滅びの獅子がどうやって生まれるのか、狩猟貴族たちにはこれまでずっと隠されてきたのだ。


 知られれば、ハイフォリアは全狩人を動員し、ルナを狩ろうとするだろう。

 それでも、これしか方法がなかった。


 ぐっと拳を握りしめ、一縷の望みにかけるように、彼女は言う。


「お願いします……男爵様。どうか……どうか霊神人剣で、この宿命を断ちきってください……!」



男爵時代のレブラハルドと災過の淵姫ルナの邂逅。

彼らは宿命を断ち切ることができたのか――?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
利発で強く、正体を隠した幼子…? 頭にちらつくのはどこぞのポルティコーロさんだけど、1万7千年前の銀水世界じゃあ流石に無理臭そうな気も…。 過去の聖王とルナは如何なる決断をするのか──。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ