同盟
パブロヘタラ宮殿。魔王学院宿舎。
<記憶石>の映像を頭の片隅に流しながら、俺は母さんを見つめる。
閉じたまぶたから涙が滲み、こぼれ落ちた。
「……どうして……」
譫言のように、母さんは呟く。
思い出しているのか?
少なくとも、胎内にある<渇望の災淵>はまだ制御できていない。
俺は<記憶石>の映像を停止する。
パリントンが怪訝な表情でこちらを向いた。
「なぜ止めたか……? まだ姉様は記憶を取り戻していない」
「熱が上がった」
母さんの容態に神眼を向けたまま、ミーシャが言った。
彼女は指先を伸ばし、こぼれた涙を優しく拭う。
「たぶん、<記憶石>が原因」
「頭に記憶が流れることで、当時の渇望を反芻しているといったところか。それにより、<渇望の災淵>とのつながりが増したか、体に悪影響を与えている」
先程よりも胎内の<渇望の災淵>が活発だ。
母さんの体に得体の知れぬ魔力が生じているのがわかる。
パリントンは心配そうな顔で母さんを見た。
「イーヴェゼイノへ赴き、懐胎の鳳凰を滅ぼした方が確実だ。ついでにドミニクに釘を刺しておけばよい。二度と母さんに手を出すな、とな」
「それができるのなら、やっている」
苦々しい顔でパリントンが言う。
「授肉していない幻獣は滅ぼせない。幻のように実体が定まらない獣、ゆえに幻獣と呼ばれているのである。始まりは姉様の渇望だが、<渇望の災淵>では同じ渇望が引き寄せられる。この銀水聖海に溢れる子を持ちたいという数多の渇望こそが、すなわち懐胎の鳳凰なのだ」
子を持ちたいと願う者は多い。
それらすべての渇望を断つのは確かに難しいだろうな。
「つまり、滅ぼすには授肉させればいいわけだ」
「その秘術は幻獣機関にしか……」
「お前もイーヴェゼイノの住人なら、多少は知っていよう」
「下級の幻獣ならば、私でも授肉させるのは容易い。だが、懐胎の鳳凰は上級以上である。幻獣機関でもドミニクにしかできぬであろう」
重々しい口調でパリントンが説明する。
「なら、そいつにやらせればよい」
「そう簡単な問題ではないのだ。授肉すれば、幻獣は生命に変わる。明確な意思を持って活動を始めるのだ。授肉前の散漫で不安定だった渇望は束ねられるように強化され、<渇望の災淵>と姉様の胎内はより深く結びついてしまうであろう。かつて、幻魔族だった頃の姉様にさえ、ドミニクはそれを行わなかったのであるぞ」
あれだけ研究の欲に取り憑かれていた男が、懐胎の鳳凰を授肉し、災禍の淵姫の力を高めなかった理由は想像に難くない。
「母胎がもたぬか」
「今の姉様では、尚のことである。瞬く間に滅び去ってしまうであろう」
「その前に滅ぼせばどうだ?」
パリントンは鋭い眼光を放つ。
「姉様を危険に曝すようなことはできん。万一のことがあればどうするか?」
「悠長に過去の記憶を見せたところで、思い出すとは限らぬ。思い出したとて、<渇望の災淵>を制御できるようになる保証もない」
「必ず思い出すはずである。記憶も、その力の扱い方も」
はっきりとパリントンは断言する。
「私と姉様の絆は、深く結びついている。生まれ変わろうと、こうして再び出会えたように、またかつてのように戻ってくれるはずである」
「過去の記憶を見せれば、症状が悪化する。戻る前に万一のことがあればどうする?」
そう口にすれば、彼は押し黙った。
「コーストリアは母さんを狙っていた。奴らが<渇望の災淵>から、これを引き起こした可能性もあろう。ドミニクはアーツェノンの滅びの獅子を授肉させるのに成功したようだが、恐らくそれは完全ではなかったのだ」
それゆえ、災禍の淵姫を求めた。
研究が順調だったならば、今更母さんに固執などしまい。
「母さんの容態を見ながら、熱が下がったときに<記憶石>を使う。記憶が戻り、制御できるようになればそれでよい。だが、備えはしておくべきだ」
パリントンは真剣な顔で俺を見返す。
いくら懐胎の鳳凰を滅ぼす方が確実と言っても、信じられぬだろう。
俺がアーツェノンの滅びの獅子なら、幻獣を知り尽くしたドミニクには敵わぬと思っても不思議はない。
「母さんに過去を見せながら、同時に懐胎の鳳凰を滅ぼす手段も探る。それで文句はあるまい?」
「……理屈はわかるが、クリアしなければならぬ問題がある」
重々しい口調で、彼は言った。
「外の世界の住人はイーヴェゼイノへ入ってはならないのだ」
「なぜだ?」
「……災淵世界イーヴェゼイノには、眠り続ける不可侵領海がいる……」
口にするのもおぞましいといった風に、パリントンが言う。
「災人イザーク。災淵世界の主神であり、元首でもある、半神半魔の怪物が。決して、起こしてはならぬと言われている。イーヴェゼイノの住人とて、触れようとはしない」
主神と元首を兼ねる、か。
半神半魔ゆえの特性なのだろうな。
「起こせばどうなる?」
「気まぐれに世界を一つ容易く滅ぼす災人、それがイザークだ。己の渇望のままに振る舞い、欲望を満たすために生きる。其はすでに人に非ず、災いそのものだと銀水聖海では語り継がれている」
不可侵領海ということは、二律僭主並の力か。
あるいは、それ以上といったことも考えられる。
しかし、アーツェノンの滅びの獅子に加え、災人か。
一つの世界に、二つも災いを抱えるとは、災淵世界と名づけるわけだな。
「太古の昔、災人は災淵世界に興味をなくし、眠りについた。眠りこそがそのとき災人にとって、最も強き渇望であったからだ。災人の渇望を刺激する者があれば、彼は再び目を覚ますと言われている」
災淵世界に興味をなくそうとも、外の世界のものならば、災人イザークは渇望を抱くやもしれぬ。
ゆえに、イーヴェゼイノに立ち入ってはならないということか。
「イザークが目覚めれば、姉様を助けるどころではない」
「なに、そのときは、また寝かしつけてやればいい」
パリントンは口を真一文字に引き結ぶ。
「怖じ気づいたのなら、お前は待っていろ。姉が苦しんでいるというに、起きるかどうかもわからぬ男がそんなに恐いのならな」
「恐れなどあるかっ!! 姉様のためならば、私はこの魂すらも捧げる所存であるっ!!」
血相を変えて、パリントンは声を荒らげた。
「決まりだな」
パリントンは罰が悪そうに視線を逸らし、椅子を引き寄せた。
着席し、彼は言った。
「……まずイーヴェゼイノへ入る手段を考えねばならん。奴らは災人を起こしたくはない。無理矢理入ろうとすれば衝突は必至である。下手をすれば、我々と災淵世界の戦争だ」
「事を荒立てずに入れるなら、それに越したことはないが」
目的は懐胎の鳳凰を滅ぼし、母さんと<渇望の災淵>のつながりを断つことだ。
とはいえ、あちらの世界へ出向く以上、外から入ろうとすれば、まず気がつかれる。
母さんの容態が悪化することを考えれば、あまり時間をかけるわけにもいくまい。
場合によっては強行突破が最善といったことも考えられよう。
「――話は聞かせてもらった」
肩で風を切りながら、部屋の入り口に姿を現したのは、聖剣世界ハイフォリアの狩猟貴族、伯爵のバルツァロンドだ。
その後ろにエールドメードがいた。
「話があるそうでな。面白そうなので、通してやった」
熾死王が言う。
堂々と訪ねてきたのだろう。
「イーヴェゼイノへ入るのなら、このバルツァロンドに秘策がある!」
まっすぐな瞳を彼はこちらへ向けてくる。
「聖王の命令か?」
「私を聖王の命がなくば動けぬ男と見てもらっては困るな。無論、これは独断である」
奴は背筋を伸ばして立ち、ばっと腕を伸ばした。
「ハイフォリア五聖爵、伯爵の名と命にかけて誓おう。このバルツァロンド、生まれてこの方、嘘をついたことはありはしないっ!」
「先程の法廷会議では嘘があったようだが?」
「うぐ……!!」
一秒で論破され、バルツァロンドはたじろいだ。
「え、ええいっ。あれは違うっ!」
「どこが違う?」
「人を救うための嘘は、嘘ではないのだっ!!」
ふむ。
ここまで堂々とされると、疑う気も失せるというものだ。
まあ、二律僭主と俺が接触していないと嘘をついてくれたおかげで、面倒事を避けられたのは確かだ。
「なにが目的だ?」
「夢想世界フォールフォーラルの滅亡について」
バルツァロンドが真剣な面持ちで言う。
「私はあれを災淵世界イーヴェゼイノの企てと睨んでいる」
ない話ではないがな。
俺が知る限りは、奴らが一番怪しい。
「根拠は?」
「フォールフォーラルに入れるのは、パブロヘタラの学院同盟のみ。怪しいのは新参者。すなわち、イーヴェゼイノかミリティアだ。私の勘では、貴公はやっていない」
残りはイーヴェゼイノというわけだ。
だが、霊神人剣の柄が、俺をアーツェノンの滅びの獅子と認定したことは確か。奴にとってはイーヴェゼイノと同じ存在である俺を、そうそう無実と信じられるものか?
考えるだけ詮無きことやもしれぬな。
虚言で取り入ろうとするほど頭が回る質ではあるまい。
「要はお前もイーヴェゼイノへ行き、奴らが首謀者だと突き止めたいということか?」
「その通りだ。貴公はイーヴェゼイノへ行く手段を持っているが、それを知らない。私は教えることができる。悪い交換条件ではないはずだ」
得意気にバルツァロンドは言う。
「どんな方法だ?」
「銀水序列戦だ。これは、所有する銀泡が多い学院の世界が舞台となる」
バランディアスは複数の銀泡を所有していたため、前回の銀水序列戦では第二バランディアスが舞台になったわけだ。
「イーヴェゼイノが所有している銀泡は?」
「一つだ。第一イーヴェゼイノしかない。ゆえに、深層世界のどの学院もイーヴェゼイノと序列戦をしても、あちらの世界には入れない」
一つの銀泡しか持たぬ深層世界は、滅多にないのだろう。
浅層世界や中層世界では、聖上六学院であるイーヴェゼイノに銀水序列戦を仕掛けるような者もいまい。
「ミリティア世界が所有する銀泡も一つ。この場合は序列が上の世界が舞台となる」
ミリティアとイーヴェゼイノが序列戦を行えば、堂々と災淵世界に入れる、か。
「そもそもイーヴェゼイノが銀水序列戦を受けなければよいだけの話だ。応じざるを得ない状況に持っていく必要があるはずだが?」
奴らもパブロヘタラのルールは知っていよう。
災淵世界に他の世界の住人を立ち入らせたくないのならば、当然、ミリティアとの銀水序列戦は避けるはずだ。
「そこまでの考えはありはしない」
きっぱりとバルツァロンドは言った。
相も変わらず、所々抜けている男だ。
「しかし、イーヴェゼイノはどうやら貴公と和解がしたいようだ。話をする機会はある」
ほう。
「コーストリアの態度を見る限り、そうは思えなかったが?」
「貴公との揉め事はコーストリアの独断であると聞いている。イーヴェゼイノの元首代理ナーガ・アーツェノンより、パブロヘタラに仲裁の申請があった。我がハイフォリアが間に入る。五聖爵の一人として、私が仲裁人を任された」
思わぬ申し出だな。
「イーヴェゼイノの意向を無視し、コーストリアだけが勝手に俺に突っかかってきた。その詫びを入れたいということか?」
「元首代理はそう言っている」
さて、どこまで信じればいいものやら?
「つまり、その仲裁の場で銀水序列戦にこぎつけろというわけか?」
「そうだ」
イーヴェゼイノの出方にもよるが、どうにかなりそうだな。
「話はわかったが、バルツァロンド、先にその方法を聞いてしまっては、お前と手を組む理由はなくなったな」
「…………」
しまった、とバルツァロンドの顔に書いてある。
「……先に……信頼を示すことこそ……狩猟貴族の……本懐……」
たらりと汗を流しながら、すがるような目で奴は俺を見た。
「まあよい。お前はなかなか愉快な男だ。イーヴェゼイノ行きの魔王列車に乗せてやろう」
和解を申し出たイーヴェゼイノの元首代理。その思惑は――?