幻魔族と渇望
一万八千年前――
雨が止むことのない場所、災淵世界イーヴェゼイノ。
渇いた心が水を欲するように、<淵>に引き寄せられた人々の渇望は雨へと変わったが、降れども降れどもその渇きが満たされることはない。
降りしきる雨粒はやがて大地を抉り、いつしか大きな穴を穿っていた。
深く、深く、世界の底へ達するような、途方もない水溜まり。そこには、ありとあらゆる欲望が溶けている。
<渇望の災淵>。
その<淵>の誕生以来、イーヴェゼイノの住人たちは、誰しもその影響を受け、己の生を左右される。
水溜まりに棲む渇望の獣ども、すなわち幻獣は、生物の心に取り憑き、己の欲へ染め上げるのだ。
支配欲、愛欲、食欲、秩序欲、承認欲。誰もが持つ自然な欲求が、この<淵>に集い、混ざっては濁り、常軌を逸した黒き渇望へと変わる。それが狂った怪物を生むのだ。幻獣が跋扈する災淵世界では、人は簡単に狂い、他者を襲う災厄と化した。
それゆえ、法による統治が満足に働かず、力と知恵のみが生き残る手段だった。殆どの種族は死に絶え、生き延びたのは幻獣に適応した、幻魔族と呼ばれる者たちのみだ。
そして、彼らにとってもイーヴェゼイノは過酷な環境だった。幻魔族たちは、その大半が幻獣に取り憑かれており、ときに他の世界さえも欲望のままに襲った。
彼らの渇望が目覚めれば、道理や法に意味はなく、力で止める以外の術はない。
災淵世界が、忌み嫌われる理由の一つだ。
しかし、そんなイーヴェゼイノの住人たちの中にも、ごく僅かではあるものの、幻獣に支配されず、理性を保てる者がいる。
大きく分ければ、二種類だろう。
一つは、心を支配されないほど強い意思を持っている者。
もう一つは、幻獣を凌駕するほどの強い渇望を持っている者だ。
大きな渇望は、小さな渇望を飲み込んでしまう。たとえ、それが幻獣のものだとしても。
ルナ・アーツェノンはどちらだったのか?
少なくとも彼女は、幻獣と触れ合っても心を乱すことは決してなかった。
「――朱猫ちゃんと蒼猫ちゃんは、いつも仲良しだけど、夫婦なの?」
<渇望の災淵>、その畔にてルナは二匹の幻獣に話しかけていた。
実体のない幻獣は、常人には見ることができない。
彼女はイーヴェゼイノの幻魔族の中でも、優れた魔眼を持っていた。
柔和な表情をしており、髪はショートカット。活発そうな十代の少女といった印象だが、ルナはすでに悠久の時を生きていた。
「姉様、授肉していない幻獣は子を作れません。夫婦ではなく、共依存といった類の渇望から生まれた幻獣ではないでしょうか?」
そう口にしたのは、弟のパリントンだ。
髪はおかっぱで、顔つきは少々厳つい。彼もまた年経た幻魔族だ。
「でも、いつか授肉するかもしれないんだから、今から夫婦になっててもいいじゃない?」
ルナが楽しそうに笑いながら、朱猫と蒼猫を自らの肩に乗せる。
二匹の幻獣はルナの顔にすり寄る。
その幻体が崩れ、泥のように浸食しようとするが、彼女はまるで意に介さなかった。
「姉様。幻獣に触れるのはそのくらいになさった方が」
「ねえ、パリントン。やっぱり夫婦っていいよね」
二匹の幻獣を肩に乗せたまま、ルナが散歩でもするように歩き出す。
「姉弟よりも、よいものでしょうか?」
「ふふっ、それは比べるものじゃないと思うなぁ。パリントンもいつか、素敵なお嫁さんを見つけるんでしょ」
「イーヴェゼイノに、結婚の制度はありません」
「制度なんていいじゃない。愛する二人が誓いを立てれば、それはもう結婚ね」
あまり実感が湧かないといった風に、パリントンは首を捻る。
「……誓いなら、幼い頃に立てましたが」
「あー、そういえばそうだね。約束したっけ?」
くすくす、と思い出すようにルナは笑う。
「パリントンと結婚するって。子供だったなぁ。懐かしい」
「姉様は昔から、そんなことばかり言っていますね」
「だって、女の子だもん。そういうのってやっぱり夢でしょ」
楽しげにルナは言う。
「でも、姉弟は結婚できないんだから、いい人を探さなきゃ。パリントンはそういう人いないの?」
「僕は姉様がいれば、十分ですから」
「あら? でも、いつも言ってるじゃない? 結婚しちゃったら、姉弟はもう一緒にいられないの。だから、パリントンも頑張らなきゃ」
二匹の幻獣を撫でながら、「ねー、猫ちゃん」とルナは笑う。
その様子を見つめながら、パリントンは暗い表情で言った。
「姉様は」
低い声で、彼は訊いた。
「いるのですか? いい人が」
「そんなにすぐ見つからないよー。イーヴェゼイノには結婚願望のある男の人少ないし」
ぼやくようにルナが言う。
結婚の制度自体がないため、当然のことではあった。
「あーあ、どこかにいい人いないかなぁ? わたしね、運命の人っていると思うの。誰かがわたしを迎えに来てくれて、ここから連れ出してくれる。そうなったら素敵ね」
パリントンはやはり暗い表情のままだ。
「……ドミニクが認めるかどうか」
「こら、お祖父様でしょ。大丈夫、ちゃんとわかってもらうわ。わたしが本当に愛する人なら、わたしをちゃんと愛してくれる人なら、きっとお祖父様も祝福してくださると思うの」
パリントンは俯き、視線を険しくした。
そうして、吐き捨てるように言う。
「あの人に、人らしい心を期待しない方がいい。幻獣に魅入られ、とうの昔に狂っている」
「そんなことないわ。お祖父様は、それは幻獣の研究が大好きよ。でも、わたしの誕生日にはいつもちゃんとお祝いをしてくれるし、優しいところもちゃんとあるの」
「そうでしょうか……」
ルナはくるりと踵を返す。
「どうしても許してもらえなかったら、家を出るわ」
二匹の幻獣がルナの肩から飛び降りる。
出来たばかりの水溜まりに着地すれば、周囲に飛沫が飛び散った。
「……姉様は今の暮らしが、そんなに不満なのですか?」
「うぅん。不満なんてないわ。お祖父様の作った幻獣機関のおかげで、研究塔は安全だし、アーツェノンの家は裕福で、毎日だってご馳走を食べられるし、素敵なドレスも、綺麗な宝石も、なんだって用意してもらえる」
ちゃぷちゃぷと水で遊ぶようにしながら、ルナは水溜まりを歩いていく。
ふふっ、と彼女は笑った。
「お姉ちゃんはね、楽しみにしてるの。きっと、いつか会えるわ。世界はこんなに広くて、イーヴェゼイノの外にも海はどこまでも広がっているもの」
降り注ぐ雨に打たれながら、ルナはまるで猫たちと踊るように軽い足取りで進んでいく。
「愛する人と一緒なら、ほんのちょっとのスープと堅いパンがあればいい。こんな豪華なドレスがなくたって、自分で縫ったツギハギのお洋服を着ればいい。二人で一緒に見られるなら、綺麗な宝石じゃなくても、小さなガラス玉が一つあればいい」
彼女は頭上を見上げる。
いつも通り雨が降っているものの、今日の空は青く晴れていた。
ルナは大きく両手を広げる。
「いつか、愛する人ができたら、結婚して、二人で小さなお店を開くの。その人の子供を生んで、愛情をたっぷりかけて育てるわ。普通の子でいい。元気で、幸せになってほしい」
雨に濡れながらも、彼女は笑っていた。
「なにも、特別はいらない。ありふれた日々でいいわ。穏やかで、優しくて、楽しい、そんな家庭がわたしの夢よ。だからね」
ドレスを翻し、くるくると楽しげに回った後、再びルナは弟へ顔を向けた。
「パリントンも……あ……れ……?」
彼女はお腹を押さえ、苦痛に顔を歪めた。
「姉様?」
「おかしい……な……。食べすぎ……かなぁ……」
「……姉様っ……!!」
水溜まりの中に、ルナは崩れ落ちる。
パリントンが駆けよる姿を最後に、彼女の視界は暗転した。
感じていたのは、得体の知れない異物感。
どくん、どくん、と心臓が鳴る。
それに混ざり、もう一つ別の心音が聞こえるような気がした。
段々とそれは大きくなる。
段々と異物感が強くなる。
――ねえ、産んで――
声が聞こえた。
不気味な声が。
――早く――
獰猛な声が。
――私を――
――己を――
――俺を――
体の内から、身に覚えのない渇望が、衝動として湧き上がる。
苦しくて、思うように呼吸ができない。
――産め――
体内に、獰猛な獣が潜んでいる。
それが今にも自分に牙を突き立てようとしているような、そんな底知れぬ恐怖を覚え――
「おめでとう、ルナ。お前の子は、銀水聖海を滅ぼす獅子となるのだ」
――絶望とともに、目を覚ました。
ルナがいるのは、幻獣機関の研究塔。
その自室のベッドの上に身を横たえている。
目の前にいるのは、白い法衣を纏った男だ。
顔の造形は若いものの、異様なほどに土気色で、生気が殆ど感じられない。
形容するならば、動いている死体である。
ルナの祖父にして、幻獣機関の所長ドミニク・アーツェノンその人だった。
「……お祖父様……? なにが…………?」
「おやぁ?」
まるで実験動物に対するような目で、ドミニクはルナを観察する。
「意識があると思っていたが、なかったかよ」
その言葉も、まるで独り言のようだった。
「わたし、外で倒れたの……?」
「喜べや、ルナ。お前に初経が来た」
「初経……?」
ルナは顔を綻ばせる。
子供を生む準備ができた。
それは、彼女の夢に一歩近づくことでもあった。
「ほんとに、お祖父様っ?」
「ああ、長かったなぁ。わしも嬉しい。ようやっと成功だ。お前はアーツェノンの滅びの獅子を生む。こんなにめでたいことはない」
上機嫌なドミニクとは裏腹に、ルナは真顔になった。
「…………え…………………………?」
アーツェノンの滅びの獅子は、<渇望の災淵>の底に棲むと言われる幻獣だ。
曰く、破壊衝動を持つ幻獣の王。曰く、銀水聖海を滅ぼす災厄。
アーツェノン家が発見したことにより、その名がつけられている。
「それ、どういう?」
「なにを惚けておる? わしらの悲願がようやく叶うのだ! アーツェノンの始祖がなしたと言われる滅びの獅子の授肉。太古に失われたその魔法技術の神髄に、とうとう指先がかかった!」
意気揚々とドミニクが語る。
「アーツェノンの滅びの獅子は<渇望の災淵>の底に棲む。さすがに、わしも手が出せんかった。だが、果たして<渇望の災淵>の底まで行ける者がいるのか? 滅びの獅子でさえ、そこから出てこれんというのに」
まるで自らの研究成果を語りたくて仕方がないといった風だった。
「そこで考えたがや! <渇望の災淵>自体を母親の胎内にしてしまえばいい。そうすれば、アーツェノンの滅びの獅子を生むことができる。これが恐らく、残された文献にあった災禍の淵姫の真相だ」
死体のような顔で、死んだような目をしたまま、ドミニクは笑みを覗かせる。
「だが、やはり問題があった。いかにして、<渇望の災淵>を子宮に変えるのか。その答えが、お前が持つ渇望よ」
なにがなんだかわからないといった顔で、ただ呆然とルナは祖父を見返した。
「子を生みたいというお前の強い渇望を、幻獣としたのだ。懐胎の鳳凰。こいつは、お前の胎内を<渇望の災淵>に等しくする力を持つ。早い話、お前が生んだ子はアーツェノンの滅びの獅子として授肉する」
「……ま、待って……」
青ざめた顔で、ルナが言う。
「待って、お祖父様。あのね……」
「あん?」
「それは、その、お祖父様の研究は大事かもしれないけど、でも、わたし、生みたくないわ」
「今更、なにを言うがや。お前は、そのために作らせた。お前のわがままを聞き、渇望を満たしてやっとるのも、お前が滅びの獅子を生む大切な母胎だからよ」
目を丸くして、ルナは死人のような祖父の顔を見た。
「ん? 言ってなかったかや?」
「……嘘……」
呆然とルナは呟く。
「……嘘……よね……?」
ドミニクは返事をしない。
「……どうしたの、お祖父様? こんなのおかしいわ……なにがあったの……?」
ルナがドミニクの肩をつかむ。
「ねえ。お祖父様、正気に戻って! いつもの優しいお祖父様はどこへ行ったのっ? いくら研究のためだからって、こんなひどいことをしたりなんか――」
「静かにせい。鬱陶しい」
ドミニクが軽く振り払えば、ルナは弾き飛ばされ、ベッドに強く叩きつけられた。
彼女は祖父の豹変が信じられないといった表情を浮かべる。
「諦めぇや。懐胎の鳳凰はもう生まれた。今更わしにもどうしようもない」
「……嘘…………」
「幻獣のことで、嘘は言わん。知っとるだろう」
目の前が闇に閉ざされたような、そんな瞳でルナはただ虚空を見つめた。
「お前は子を生むだけでいい。伴侶は好きにせえ。今まで通り暮らせる。なんの不満があるがや?」
「だって……」
震えながらも、ルナが呟く。
先程の絶望が、彼女の頭をよぎった。
――おめでとう、ルナ。お前の子は、銀水聖海を滅ぼす獅子となる――
「……お祖父様は、銀水聖海をどうしたいの…………?」
死んだ目をしながら、ドミニクは答えた。
「知らんがや。わしは、アーツェノンの滅びの獅子を近くで見たいだけよ。手はどうなっておる? 足はどうなっておる? 文献にあったアーツェノンの爪とは? どうやって銀水聖海を滅ぼす? ワクワクしてこんか? のう? ワクワクするじゃろいっ」
「イーヴェゼイノだけじゃなくて、他の世界にだって災厄をふりまくわっ……!!」
「おお、それだなぁ。それが早う見たい。どんな災厄だ? どうやって滅ぼす?」
死人のような顔で、目だけはギラギラと輝かせて、まるで夢を追いかける少年のようにドミニクは語った。
ルナは言葉を失い、俯いた。
なにを言っても、祖父を説得できぬと悟ったのだろう。
それゆえ、彼女は言ったのだ。
強い意志を込めて。
「……生まないわ……」
「あぁ……?」
キッとドミニクを睨みつけ、ルナは大声で言葉を突きつけた。
「お祖父様はわかってないっ。もっとよく考えてっ! ちゃんと考えてよっ」
「わしに意見するなや。幻獣のことはよぉーく考えておる。我が子のようにの」
「世界を滅ぼしたい子がどこにいるのっ? 生まれながらに災厄だって言われて、祝福もされないで生まれてくるなんて、そんなことってある!? 生まれてくる子は幸せにならなきゃ、そんなの嘘だよっ……!」
「好きにすりゃいいがや」
ルナに取り合うつもりはまるでなく、ドミニクは<転移>の魔法陣を描いた。
「お前は生む。イーヴェゼイノの幻魔族は、己の渇望に逆らえやせん」
「生まないわっ、絶対っ! 誰も好きになんてならないっ!」
死体のような目でドミニクはルナを見る。
強い意志を持って、彼女は祖父を睨み返した。
それ以上はなにも言うことはなく、ドミニクは転移していった。
背負わされた宿命――