渇望の災淵
パブロヘタラ宮殿内、魔王学院宿舎。
気を失った母さんはベッドですやすやと眠っている。
傍らでミーシャは母さんのお腹にそっと手を当て、その神眼で深淵を覗いていた。
「少し熱が高い。魔力の乱れもある」
淡々と彼女は言う。
「症状は風邪と同程度。命に別状はない。だけど――」
「治せぬか?」
こくりと彼女はうなずく。
いざとなれば、根源ごと創り直せるミーシャに治せぬとなれば厄介だ。
症状は軽いが、ただ事ではあるまい。
「病巣はどこだ?」
「胎内」
じっと神眼を凝らしながら、ミーシャが言う。
「ほんの少しだけ、そこから熱が生まれている。本来は存在しない熱」
<時間操作>でも治せぬ。ミーシャに創り直すこともできぬ。
つまり、母さんの体も根源も正常だ。
胎内に熱が生まれるという話だが、異変の原因は恐らく外だ。外からなにかが、母さんの胎内に流れてきている。
恐らくはコーストリアの言っていた――
「<渇望の災淵>とつながってしまったのだ……」
危惧していたといった表情で、パリントンが呟く。
「詳しく訊かせてもらえるか?」
彼はうなずき、説明を始めた。
「銀水聖海にはいくつか、<淵>というものが存在する。それは人々の想いを吸い寄せる、ある種の魔力のたまり場である。災淵世界イーヴェゼイノが有する<渇望の災淵>もその<淵>の一つ。そこにはありとあらゆる渇望が吸い込まれ、魔力となって渦巻いている」
渇望が渦巻く災淵か。
なんとも不吉そうだな。
「ミリティア世界に精霊はいるか?」
「ああ」
「災淵世界イーヴェゼイノには、それに似た幻獣という種族が存在する。一般に噂と伝承で生じる精霊とは異なり、イーヴェゼイノの幻獣は渇望から生まれる」
「<渇望の災淵>から生まれるということか?」
パリントンが首肯する。
「幻獣の源は、渇望。渇くほどの強い欲だ。優越、服従、秩序、防衛、支配、それらを欲する心、銀水聖海に蔓延る渇望こそが、奴らを形作っているのである」
彼は続けて説明する。
「<渇望の災淵>の底には、濃縮された欲望が淀み、溜まる。その最も濃い渇望からこそ、最強の幻獣、アーツェノンの滅びの獅子が生まれる。獅子は百獣の王を意味する。すなわち、奴らは幻獣の王なのである」
コーストリアやあの隻腕の男は、渇望から生まれた幻獣ということか。
「どんな渇望から生まれた?」
「銀海に災いをもたらす、ありとあらゆる渇望を宿すと言われているが、最も強くその核をなすのが破壊衝動である。それゆえ、奴らは滅びの獅子と忌み嫌われ、その身に強大な滅びの力を宿す」
ふむ。大凡、話が見えてきたな。
「災淵の底と母さんの胎内がつながっているというのは、等しくなっているという意味か。つまり、<渇望の災淵>自体が母さんの胎内というわけだ」
「左様である。どうやら生まれ変わろうとも、<渇望の災淵>からは逃れられなかったようである」
ルナ・アーツェノンはイーヴェゼイノの住人。
経緯はわからぬが、転生した彼女はミリティアの住人となった。
更に転生し、今度は力なき人間、イザベラとして生まれた。
<転生>を使っていないはずだ。根源の形も変わっている。
それでなぜ未だにイーヴェゼイノの<渇望の災淵>が母さんにつきまとうのか?
「コーストリアの話では、母さんは幻獣に魅入られたそうだが?」
「懐胎の鳳凰と呼ばれる幻獣だ。子を生みたいという渇望は力を持ち、我ら姉弟に災いをもたらしたのである。姉様は災禍の胎を宿命づけられ、私は災禍の臓を宿命づけられた」
「お前の体内も<渇望の災淵>につながっていると?」
パリントンはうなずく。
「魔法人形の体になれば逃れられると思ったが、傀儡皇ベズの<赤糸の偶人>であろうと、それは変わらなかったのだ」
パリントンは根源を<赤糸>にくくられ、傀儡世界ルツェンドフォルトの元首となった。体を真っ新に取り替えても変わらぬということは、根源に紐づけられた力か。
<赤糸の偶人>になったとて、パリントンの根源の形はそれほど大きくは変わっていまい。
母さんの根源は、ほぼ別人に変わっているはずだがな。
「その懐胎の鳳凰はなにがしたい? 幻獣が渇望から生まれるなら、そもそも母胎を必要とはしまい」
「幻獣とは、その名の如く実体がないのである。アーツェノンの滅びの獅子も同じく、<渇望の災淵>にいるときは形の定まらぬ幻のようなもの。その状態では意識も乏しく、己の渇望に従うのみの獣だ。母胎を通さなければ、授肉することができないのである」
なるほど。
「災禍の淵姫は、アーツェノンの滅びの獅子を授肉させるための存在か」
すると、パリントンは真顔になる。
「一つ、訊かなければならぬことがある」
彼はこの上なく真剣な顔で、重々しく俺に尋ねた。
「アノス。お前は姉様の実の子か?」
パリントンの言うことが真実ならば、俺は<渇望の災淵>から産み落とされた、アーツェノンの滅びの獅子だ。
まともに産まれぬはずのヴォルディゴードの子を、産むことができたのはそのためか?
「二千年前と今の時代、母さんは俺を二度産んだ。確かに俺の魔力はコーストリアたちに酷似しており、よくわからぬ共鳴もする」
「……そうであるか……では、言っておかねばなるまい……」
そう前置きし、彼は唇を真一文字に引き結ぶ。
「アノス。お前には過酷な宿命が待ち受けているであろう。アーツェノンの滅びの獅子は、災厄そのものである。一度その渇望が目を覚ませば、破壊衝動に駆られ、この銀海すらも滅ぼすと言われている……」
ふむ。破壊衝動か。
今のところは、これといって感じぬがな。
「しかし、安心するのである。私の<赤糸>は運命をくくる。姉様の子を、平穏なる運命にくくりつけるために、私は傀儡皇ベズと取引をしたのだ」
いつか出会う姉のために、傀儡世界の元首になったわけか。
パリントンはこの日に備えていたのだろうな。
「心使いに感謝しよう。だが、これでも精神は安定している方でな。特に必要ないとは思うぞ」
「……そうであれば、よきことである……」
歯切れが悪いな。
アーツェノンの滅びの獅子であれば、避けられぬ運命だということか。
銀水聖海を滅ぼす災厄という大層な代物だ。
心配するのも無理はないが、俺にとっては二の次だな。
「そういえば、コーストリアはどうやって授肉した?」
ベラミーはコーストリアを生まれて1000年足らずの小娘と言っていた。
彼女の出生の際、母さんはミリティア世界で転生途中だ。
残るはパリントンの子という可能性だが?
「私の祖父――イーヴェゼイノの幻獣機関に、所長のドミニクという男がいる。幻獣の研究者なのだが、頭がイカれている。恐らくは奴が別の方法で産みだしたのであろう」
ふむ。少々気になるところだが、母さんの容態には関係なさそうだな。
後回しでいいだろう。
「<渇望の災淵>は己の意思か、あるいは子を孕むときにつながるとコーストリアが言っていたが?」
母さんは<渇望の災淵>のことは知らぬ。
深淵を覗いても、魔力は一人分しかない。子を孕んでもいないだろう。
「……考えられる原因は二つ。一つは、私のせいかもしれぬ……。姉様と会ったときに、私と彼女は共鳴した。私とつながる<渇望の災淵>が、姉様の<渇望の災淵>を呼び起こしてしまったのだ……」
「もう一つは?」
「呼び起こしただけではまたすぐつながりは切れるであろう。そうならないのは災淵の底で大きな変化があったと思われる。たとえば、あちら側で、授肉していない滅びの獅子が暴れ狂っている、などである」
偶然とは思えぬな。
<渇望の災淵>はイーヴェゼイノにある。
滅びの獅子を暴れさせることも奴らには可能だろう。
直接の襲撃に失敗したため、業を煮やして、強硬手段に出たか?
しかし、それでなんになる?
「同じ<渇望の災淵>につながっているお前に影響がないのはなぜだ?」
「量が違うのだ。私が引き受けている<渇望の災淵>は、せいぜいが姉様の四分の一。この<赤糸の偶人>ならば、制御は容易い」
「このままだとどうなる?」
「……わからない。恐らく、姉様は転生したことにより、<渇望の災淵>の制御がまったく行えなくなってしまったのだ。それゆえ、多少幻獣が暴れただけで魔力を乱し、熱を出してしまう。もしこのまま悪化するようなら、危険である」
魔力も使えぬただの人間だ。
<渇望の災淵>とやらの力は、少々手に余るだろう。
まして、イーヴェゼイノが仕掛けてきたことなら、このまま事なきを得るとは思わぬ方がよい。
「一つ、姉様の容態を回復させる手段がある」
パリントンは自らの頭に魔法陣を描き、そこに手を突っ込む。
取り出したのは、魔法石だ。
「<記憶石>という魔法具だ。ここに姉様と私の過去がある。この過去を見れば、姉様は昔を思い出すかもしれない」
「思い出せば、<渇望の災淵>を制御できるようになるか」
「昔の姉様は、十分に制御はできていたのだ。今、魔力が乏しくなっていようとも、やり方さえ取り戻せば……」
パリントンが<記憶石>に魔力を送る。
すると一本の魔法線が伸びていき、母さんの頭につながった。
「そう急くな」
<破滅の魔眼>で睨み、魔法線を切断する。
「なにを……?」
「それを貸すがいい。俺を経由して、母さんに記憶を送る。構わぬだろう?」
一瞬、無言で考えた後、パリントンは俺に<記憶石>を渡した。
「勿論である」
手にした<記憶石>に魔眼を向ける。
頭の中に入れておくことで、特定の記憶を保存できる魔法具のようだな。
それを他者の脳とつなげ、映像として見せることができる。
ミリティア世界にある魔法具と大きな違いはない。
もっとも、秘められている魔力は数段上で、記憶できる量は一万年以上もある。
<記憶石>を握り、魔力を送る。
母さんと魔法線をつなげば、頭に映像が浮かび始めた。
瞬間、バタンッと大きな音が響く。
「――ちょっと待ったぁっ!!!」
ドアを開け放ち、やってきたのは父さんだ。
「アノスッ。俺も経由してくれ!」
パリントンは訝しげな視線を向けた。
当然だろう。父さんを経由しても、特に意味はない。
「申し訳ないが、誰にでも、見せられるものではないのである。姉様と私の大切な過去だ」
「いや、そりゃ、そうかもしれねえが、だけど、俺は……」
父さんはいつになく真剣な表情で、パリントンを見据える。
「俺はイザベラの夫なんだっ……!!」
一瞬、パリントンは表情を険しくする。
まるで刺すような鋭い視線だ。
「イザベラの容態に関わることなら、一緒に、見ておきたい。そりゃ、俺は魔法も使えねえし、なんの役にも立たねえかもしれねえけど……でも、それぐらいは、したいんだ。な、頼むっ、頼む、この通りだ!」
ダンッと音を立てて、父さんが床に頭突きをする。
平伏したかったのだろうが、勢いが余ったといったところか。
唖然とするパリントンに、額から血を流しながら、父さんは叫んだ。
「頼む! 義弟よっ!!」
ふむ。初対面の義理の弟にこの勢い、さすがは父さんといったところか。
「……そういうことであれば、構わない……」
「おお、ありがとう、義弟よ!」
父さんが起き上がり、パリントンに抱きつき、バンバンと彼の背中を叩く。
勢いに負けて、パリントンはなすがままになっていた。
「父さん、少し静かにせよ」
「お、おう……悪い……」
大人しくなった父さんに魔法線をつなぐ。
再び<記憶石>に魔力を送れば、魔法線を通して記憶が流れ始める。
過去の映像が頭に浮かんだ――
母さんの過去が、今明らかに――