美
「腹筋の子は、急に横から口を挟んでどうしたのだろうか?」
アルカナはきょとんとした顔をサーシャへ向けた。
「……ていうか、わざとやってないでしょうね……?」
「またボケに背理してしまったということだろうか?」
アルカナはミーシャを見た。
彼女はふるふると首を横に振る。
「練習の成果が出てた」
それを聞き、アルカナは小さく拳を握る。
「やった」
「やったじゃないわ、やったじゃ! もう。あなたたちのことをなんて説明すればいいのよ? フォローする身にもなってよね」
頭が痛いとばかりに額を押さえながら、サーシャはファリスの様子を窺う。
「美しきかな」
「……え?」
なにを言われたかわからないといった顔で、彼女はファリスに問うような視線を向ける。
彼は洗練された優雅な所作で、ばっと日の光に手を掲げた。
「ああ、まさに見えるかのようです。この朝日よりも燦々と輝く、平和の光が。あなたに宿る、それは美しき光。まさに――美」
魔眼を光らせ、半ば陶酔したようにファリスは言った。
「う、美しき……?」
サーシャが恥ずかしそうにしながら、一瞬、俺の方をちらっと見た。
「……そうかしら?」
こくこくと隣でミーシャがうなずいている。
創作意欲が溢れ出たとばかりにファリスは手早く魔法陣を描き、そこからキャンバスや魔筆など画材を取り出す。
「描いてもよろしいでしょうか? サーシャ、あなたを」
「え、うーん、でも……」
許可を求めるように、サーシャはこちらへ視線を向ける。
「頼んだところで興が乗らねば描かぬ男だ。描いてもらえ」
「アノスがそう言うなら、いいけど……」
彼女は満更でもないようにはにかんだ。
「描き上がりましたら、魔王陛下に進呈しましょう」
「え、ちょっと、それはさすがにっ……!」
「なにか問題がおありですか?」
「あ……ええと……」
すると、サーシャは恥ずかしげに俯く。
「……いいけど……き、綺麗に描いてくれる?」
「勿論でございます。この上なくアヴァンギャルドに、美しく仕上げてご覧に入れましょう」
そう口にしてファリスが魔筆を、キャンバスへ向ける。
俺たちは邪魔にならぬ位置へ移動する。
サーシャは気恥ずかしそうにしながらも、優雅な立ち姿をとってみせた。
「違いますね」
一目見ると、ファリスはそう言った。
「違うっていうと……?」
「少々繊細さが勝ちすぎています。それではまるで臆病な少女のよう。もっとこう大胆に、あなたらしく」
「そ、そう言われても、モデルなんてしたことないわっ!」
「これを使うといいでしょう。きっと、助けになります」
ファリスが、紙で作った手持ち道具をすっとサーシャに差し出す。
彼女はそれを受け取ると、マジマジと見た。
ハリセンだ。
「どう使うのよっ!」
鋭いハリセンの一撃が、ファリスの頭を打ち抜いた。
「あ……ご、ごめんなさ――」
しかし、その瞬間、彼は天啓に撃たれたような顔をしていた。
「……あぁ、見え……ました…………!」
一瞬にして、ファリスはキャンバスに魔筆を走らせ、ハリセンを振るう獰猛なサーシャを描き上げる。
まるで獣だ。
「って、綺麗に描いてくれるんじゃなかったのっ!? どう見ても、つっこみをしている野獣にしか見えないわっ!!」
標題に『野獣サーシャのつっこみ』と書き加えられた。
「なにタイトルにしてるのよっ!?」
「美しくあれ」
「どう見ても美しくないわっ! 野獣よ、野獣っ。なんでわたしが野獣なのっ!?」
「わかりませんか? なぜこれが野獣であるのか。美しさがなぜ野獣に化けてしまったのか」
そう言われ、サーシャは押し黙る。
「私の絵は、想像と現実の両輪からなる。頭で考えるわけではなく、筆の赴くままに、絵は描かれるのです。アヴァンギャルドはアヴァンギャルドでも、なぜアヴァンギャルドなつっこみ美になってしまったか――」
サーシャを振り向き、真剣そのものの口調でファリスが言う。
「そう、なにかが足りなかったのです。しかし、なにが足りないのか――」
ファリスは再び絵画に視線を向けた。
つられて、サーシャも絵画を見る。
数秒の沈黙の後、創術家ファリス・ノインは言った。
「見れば見るほど良いですね」
「野獣の原因どこいったのよっ!?」
「絵とは不可思議なもの。描こうと思えば描けず、筆を置いた途端に閃きがある。心を静かに、そう美しく。探そう探そうとしているときは、得てして見つからないものです。こういうときは逆に考えるのです」
「逆って……?」
「野獣でもいいじゃありませんか。よくお似合いです」
「馬鹿なのっ! 褒めてるのっ!?」
そうサーシャが叫ぶと、ファリスは魔筆を彼女に突きつけた。
「わかりました」
「な、なにがよ……?」
「ある少女は、野獣になりたくない、野獣になりたくない、と思い続けました」
サーシャが呆れた表情を浮かべる。
「なんである少女とか回りくどい言い方なの……?」
「野獣のことばかりを考え続けた少女は、いつしか心が野獣そのものとなってしまい、こうして絵となって現れたのでしょう」
「最初は考えてなかったわよねっ! 野獣が先だったわ!」
「絵というものは、求めれば遠ざかる、まさに夢。思いがけないときにこそ、新たな気づきが――」
ファリスは、天啓が下ったかのようにはっとした表情を浮かべた。
「もしかして?」
「……見え……ました……」
野獣サーシャの絵画を見つめ、彼は言う。
「つっこみの美を際立たせるのは、ボケの美。この絵にはボケが足りません」
「ねえ、あなた、最初から、わたしのつっこみ姿を描こうとしてない?」
サーシャが真顔で言うと、アルカナが一歩前へ出る。
「出番だろうか?」
「引っ込んでて」
刹那より速く、サーシャが突っ込んだ。
「鋭いですね」
そのファリスの言葉に、サーシャは嫌な予感がするといった表情を浮かべた。
「あなたが考えた通り、より相応しい人物がここにいます」
ファリスは周囲にいる俺の配下たちをざっと見回す。
そして、一人の少女と目を合わせた。
「ミーシャ。描いてもよろしいでしょうか、あなたを」
ぱちぱち、と彼女は二度瞬きをして、自らを指さす。
「わたし、ボケだった?」
ファリスは朝日に顔を向け、太陽に手をかざす。
「ああ、いと美しきかな、魂の奥底に秘められしは、ボケなる美。創術家としてのわたしの魔眼に狂いがなければ、あなたはそこに至るでしょう」
「なんか、段々あなたがすごい創術家だってことが信じられなくなってきたんだけど……」
サーシャの疑惑の視線が、ファリスに突き刺さる。
そんなことはどこ吹く風で、彼は魔筆を手にミーシャを見つめた。
彼女は困ったように首をかしげ、助けを求めるように俺を見た。
「どうした?」
「……どんな顔をすればいいかわからない」
「なに、普段通りにしていればいい。ファリスの絵は、本質を描き出す」
「…………ねえ、ちょっと待って、わたしの本質って……」
俺は手をあげてサーシャを制し、しばし待て、と視線を送る。
ミーシャが集中しようとしているところだ。
「いつも通り……」
ミーシャが考え込むように俯く。
サーシャ同様、モデルは初めての経験か。いざ取り繕うなと言われても、なかなか思うようにはいかぬと見える。
「難しい……」
「では、遠くを見よ」
俺が指さした方向へ、ミーシャはその神眼を飛ばす。
「なにが見える?」
「第七エレネシア」
彼女の視界は遙か彼方へ飛んでいき、この世界を見渡している。
「どんな世界だ?」
「……綺麗……」
ぽつりとミーシャは言う。
「お前の母が創った世界やもしれぬ」
ミーシャの表情が、柔らかく、穏やかになった。
まるでこの世界の生きとし生けるものを慈しむかのように。
「よい。それがお前のいつもの顔だ。慈愛に満ち、皆に安らぎを与えてくれる」
「……みんな?」
「ああ」
彼女は俺を振り向いた。
「アノスも?」
「俺が入っていないと思ったか」
嬉しそうにミーシャが微笑む。
「嬉しい」
刹那、ファリスの魔筆が稲妻のように走った。
一匹の野獣がいたキャンバスにもう一つの絵が現れていく。
「できました」
ミーシャとサーシャは、キャンバスをじっと覗く。
新しくそこに描かれたのは、優しく慈愛に満ちた天使だった。
「いかがでしょう? 思いきってテーマを美しき慈愛に変え、全面的に描き直しをしました。野獣のつっこみも、よりアグレッシヴに――」
「なんで美しき慈愛をテーマで全面的に描き直したのに、わたしは野獣のままなのっ!?」
サーシャの根源に潜む、つっこみ野獣が獰猛な唸り声を上げる。
「つまりはインプロヴィゼーションであり、私の頭の火花が弾けた瞬間の表現。言って伝わるかはわかりませんが」
ファリスは、ミーシャの顔を次々と魔筆で指していく。
「その神眼――美。その笑顔――美。その瞬き――あぁ、美」
創術家ファリス・ノインは迷いなく言った。
「美美っときてしまいましたので」
「二千年前の魔族のくせに、頭平和すぎないかしらっ!」
サーシャがたまらずつっこめば、それまで真顔で傍観していたシンが静かに口を開いた。
「ですから、彼なら大丈夫だと言ったでしょう」
「そういう意味だとは思わなかったわ……」
無事、魔王学院に溶けこめたファリス・ノイン――