大海原の風
パブロヘタラ宮殿。庭園。
調和のとれた優雅な園内は喧騒に包まれ、その一角に大行列ができていた。
並んでいるのは銀水学院の生徒たちである。異なる制服を纏っているところを見ると、それぞれ違う世界の者たちのようだ。
パンの焼ける香ばしい匂いが漂い、食欲をそそる。
「いらっしゃい、いらっしゃいっ! 本日開店、購買食堂『大海原の風』だ! ミリティア産の希望パンは最高に美味くて、元気が出るぞーっ!」
簡易的に作られた屋台から、威勢よく声が上がった。
焼きたてのパンを叩き売っているのは、誰あろう、俺の父だ。
屋台の奥にある即席のキッチンで、母さんが焼き上がったパンを運んでいるのが見えた。
「なるほど」
「昨日の夜に屋台を作ったみたいだわ」
困ったようにサーシャが言う。
「びっくり」
淡々とミーシャが呟く。
「学院の中ならば、自由に出歩いても構わぬと伝えておいたが、さすがに母さんと父さんだな」
まさかパブロヘタラの生徒たちにパンを売る購買を作るなど思いもよらなかった。
「……どうしようかしら? あんまり目立たない方がいいのよね?」
「母さんを狙っているのが災淵世界イーヴェゼイノだけなら、逆に安全かもしれぬが」
言いながら、俺は列を回り込み、屋台のキッチン部分に顔を出す。
イージェスがなんとも言えぬ顔で、辺りを警戒していた。
「はーい、エクエスちゃんっ! 今日はたーくさんお客さんが来てくれたから、たーくさん焼き尽くしちゃってねっ!!」
『うごごごごぉぉぉっ……き、希望が……希望のパンが、焼き上がってしまうぅぅっ……!!』
魔王列車に積んであったエクエス窯を下ろしたのだろう。勢いよく奴は燃え上がり、こんがりとした希望のパンを焼き上げている。
「あ」
母さんが俺に気がつき、小走りでやってくる。
「アノスちゃん、おはよう!」
「盛況だな」
そう告げれば、母さんは嬉しそうにぱっと顔を輝かせた。
「パブロヘタラってすっごく広いのに、宮殿の中でお食事できるところがないでしょ。みんな、お外に行くのが大変そうだから、軽食を買ったり、ご飯が食べたりできるところを作ったらって思ったの」
銀水学院の生徒なら、多少の距離などものの数に入らぬとは思うが、まあ近いに越したことはない。
「ほら、学生は体が資本だから。美味しい物を沢山食べなきゃね。アノスちゃんたちは忙しそうだし、とりあえず自分たちでやってみようと思って。あ、ちゃんと、オットルルーちゃんには許可をとったわよ」
ふむ。パブロヘタラは、存外に緩いようだな。
「……余計なことしちゃったかな?」
俺が黙っていたからか、母さんは少々心配そうな表情を浮かべた。
「なに、ミリティア世界の食を知ってもらうよい機会だ」
母さんがほっと胸を撫で下ろす。
「しかし、今日開店でよくもまあ、こんなに人が来たものだな」
「あ、うん。号外で宣伝してもらったからかな?」
ミーシャが小首をかしげる。
「号外?」
「これよ」
母さんが取り出した紙面には魔王新聞と書かれており、『圧勝!!! 銀城世界バランディアス粉砕!!』との見出しがあった。
その他、主な表題は以下の通りだ。
魔王の右腕、銀城世界の看板を両断す!!
バランディアスの飛空城艦を真っ二つに斬り裂いた聖剣の正体とは――!?
無残! 主神ではない神に敗れた王虎メイティレンは弱かったのかっ!?
なんと銀城世界は泡沫世界へ降格!? 圧倒的なまでの蹂躙の結末!?
本日開店!? ミリティアの購買食堂『大海原の風』の魅力を徹底分析!
銀城創手ファリス・ノインは元ミリティアの住人? 転生の謎へ迫る!
暴虐の魔王へ独占インタビュー!!
『お前の野望を粉砕してやる』と王虎へ告げていた!?
「なによ、これっ!? いったい誰がこんな――」
サーシャが声を上げた瞬間、カーッカッカッカッと頭上から笑い声が聞こえた。
「号外だ、号外だ、号外だぁぁーっ!! パブロヘタラの誰もが勝利を確信していた銀城世界が、ま・さ・か・の敗北っ! それも泡沫世界へ格下げの、大・大・大、大敗北だぁぁぁーっ!!!」
カボチャの犬車が空を駈け、御者台に乗ったエールドメードが愉快千万とばかりに魔王新聞を地上へバラまいている。
「ご、号外でーすっ! 魔王学院の勝利ですよー」
キャビンの窓から顔を出し、居残りのナーヤもまた一緒に号外を投げている。
「なにやってるのよ、もう……」
サーシャが頭を抱える。
その間にも母さんはいそいそ仕事を続け、焼けたパンを紙袋へ入れていた。
続いて、置かれた絵画の中へ手を差し入れ、よいしょと子虎を引っぱり出す。
「メイティレンちゃん、これ、あっちで待っているお客さんに持ってってくれるかな?」
『……が……にゃあ……』
メイティレンは渋々とばかりに袋を咥えると、待っている客のもとへ走っていく。
園内に一瞬、緊張が走る。
行列に並んでいた生徒の視線が、一斉に子虎へ向けられた。
「――おい……」
「ああ、王虎メイティレン。まさか、この号外通り、本当にミリティアの所有物にされているとはな……」
彼らは魔眼を光らせ、メイティレンの深淵を覗く。
その本質が、かつてのバランディアスの主神、王虎であることは疑いようがない。
「……しかし、この目で見ても信じられん……我が世界の主力部隊を一瞬で蹴散らしたあの主神が、今は焼きたてのパンを運んでいるなどと……」
「カルティナスがあえて序列を下げるための茶番を演じることはこれまでもあったが……さすがにプライドの高い王虎が魔力のない人間にあごで使われはしないだろう」
「……では、本当に負けたというのか。あの二枚看板を擁するバランディアスが、パブロヘタラに来たばかりの泡沫世界に……」
「…………認めざるを得まい……。ミリティアの元首アノス・ヴォルディゴード。未知を恐れぬ無鉄砲と侮っていたが、どうやら知らぬのは我々の方だったというわけだ……」
「だが、なぜ泡沫世界であるミリティアにそれほどの力が備わっている? 奴らは不適合者ではなかったのかっ!?」
一人の元首が疑問を飛ばせば、皆、考え込むように沈黙した。
彼らは真剣な顔つきで手にしたパンを口へ運んだ。
「それを言い出すなら、別世界の主神を奪い、所有することなどできなかったはず」
「なんでも霊神人剣を所有しているとか?」
「馬鹿め。この号外を鵜呑みにするつもりかっ!? 奴らが出しているものだぞっ!!」
生徒の一人が、声を荒らげる。
「貴兄は興奮しすぎだ」
「うぐっ……」
そう言って、近くにいた生徒がパンを口へ突っ込んだ。
「うむ……」
もぐもぐと咀嚼して、男はパンを飲み込んだ。
「パンは、そこそこ美味い」
「まあ、不味くはない」
「麦が違うのか?」
「わからん。粉の挽き方かもしれん」
パンの紙袋を手にしながら、なぜ男たちが行列に並んでいるのか、想像に難くない。
二周目なのだ。
「しかし、不思議なものだ。なんというか、このパンを食べているとほんの少し心が晴れるというか」
「ポジティブになる、と号外に書いてあるが?」
「それだな。不思議なパンだ」
「油断するな。我らの胃袋からつかむ策かもしれん」
「それで採算度外視のこの値段か。和睦路線なのだとすれば、悪くない一手とも言える」
男はまた紙袋に手を差し入れる。
もう空だ。「ちっ」と彼は舌打ちをした。
「それで、だ。バランディアスが泡沫世界になったのもオットルルーに聞く限り事実。そこは、どう判断するのだ?」
「少なくとも、我々の世界とは違う進化の道を辿っている、というのは確かでしょう。果たして、それを認めていいものでしょうか?」
「まともな世界なら手を結びたいところだが、下手をすればイーヴェゼイノ以上の爆弾を抱えることになるかもしれん。下手に迎合はできんな」
「なあに、まだ気にするほどの存在でもない。パブロヘタラの序列を駆け上がるのは並大抵のことではない。上がることよりも、留まる方がよほど骨が折れるのを奴らはまだ知らん」
「ミリティア世界は、これからパブロヘタラの洗礼を受けることになるでしょう。バランディアスのような張り子の虎とは違う、正真正銘の深層世界の洗礼を」
「我々のように、か」
ニヤリ、と彼らは笑う。
「身の丈を知ってからが、ようやく始まりだ。その後のミリティアの振る舞い次第では、生き残る術を教えてやってもいいだろう」
ミリティアがただの泡沫世界でないことは理解したようだが、どうやら、歓迎とまではいかぬようだな。
まあ、どこの世界でも異物を排除したがる者は多い。
「――ていうか、これ、あんまり広めない方がいいんじゃない?」
「ふむ。確かにな」
俺は号外の記事に視線を落とす。
「インタビューされた覚えはない。記事の書き方によっては、俺の人物像が誤って伝わりかねぬ」
「暴虐の魔王って呼ばせてたくせに、そんなの気にするっ!?」
サーシャが激しくつっこんでくる。
「新聞記事に捏造があっては問題だろうに」
「……そうだけど、絶対気にしてないでしょ。それより、手の内ってこんなに堂々と曝していいのかしら……? アルカナとか、相手が神族じゃなかったら、無能になるわよ」
「わたしは無能だったのか」
ぬっとアルカナが姿を現し、驚いたようにサーシャが仰け反る。
「あ、えーと、そ、そういう意味じゃなくて、次の銀水序列戦とかあったら」
「問題ない。あえて権能を曝すことで、真に隠すべきことを隠せるのだろう」
ミーシャが小首をかしげた。
「真に隠すべきこと?」
「一回しか使えない奥の手を、こないだ覚えたばかり」
アルカナは真顔で言った。
「すなわち、一発ギャグ」
「無能にもほどがあるわっ!!」
サーシャの鋭いつっこみが飛ぶ。
満足したようにアルカナはうなずいた。
「今のは冗談。本当は歌を使った切り札を覚えた」
「っていうと、<想司総愛>みたいな……?」
アルカナはこくりとうなずく。
「リズム芸、らー・せんしあ♪」
「馬鹿なのっ!! なんで二回もやるのっ!?」
くすり、と笑い声が聞こえた。
サーシャが振り向くと、そこに創術家ファリス・ノインとシンがいた。
「賑やかなものですね、新しい魔王軍は」
「あ、あー……。恥ずかしいところを見せちゃったわね……」
「いいえ。これこそが、陛下の作り上げた平和なのでしょう。かつての魔王軍しか知らないこの身が、溶けこめるかは不安ですが……」
「大丈夫でしょう、あなたならば」
そっけない口調ながらも、シンはそう言った。
ファリスを歓迎するように、サーシャも笑顔を浮かべる。
「それに、そこまで変わってないと思うわ。みんな明るいけど、能天気ってわけじゃないし」
らー・せんしあ♪ らー・せんしあ♪ らららら♪ と、能天気極まりないポーズでアルカナがリズム芸の練習を始めた。
「アノスのお母様が狙われてるから、馬鹿なことをしているようで、実はみんなすごく警戒してて」
「カナッち、違う。ステップはこう。両手両足を、クロスッ!」
いつの間にか、ファンユニオンの少女たちが、アルカナとともに、『らー・せんしあ♪』のステップを刻んでいる。
「根っこにあるものは、昔の魔王軍と一緒だわ。みんな、いつでもアノスのために命を懸けられる」
「カナッち、指が二・三ミリ高いっ! これ、アノス様ポーズだからっ! アノス様と同化する気持ちでっ、踏んで! 命懸けでっ!!」
振り付けなのだろう。エレンは地面に這いつくばり、アルカナに頭を踏ませている。
周囲のファンユニオンたちも同じポーズだった。
「だから、あなたはいつも通り絵を描いているだけで、すぐに溶けこめると――」
「そういえば、ディルヘイドから離れちゃったから、アノス様の武勇伝を綴った合同誌の進捗が危ういんだよね……」
「絵描きの子に描いてもらうのはどうだろうか?」
「カナッち天才っ! ファリス先生ならきっと、手も速いだろうしっ」
「じゃ、じゃ、なに描いてもらうっ?」
「やっぱり、今日のリズム芸だよっ。『ららら・らーせんしあ♪』アノス様バージョン」
「えー、でも、普通っていうか、ファリス先生なら、超絶画力でアノス様の細部の細部まで描き込めるだろうし」
「大丈夫」
大真面目な顔でエレンは重々しく言った。
「これ、漢字バージョンだから」
ファンユニオンの少女たちが、はっとする。
数瞬遅れて、アルカナは言った。
「裸裸裸・裸ー戦士ア?」
「ちょっとどっか行っててくれるっっっ!?」
激しくサーシャがつっこんだ。
朝から賑やかな魔王学院の面々――