プロローグ ~壊滅の暴君~
一万四千年前――
鬱蒼とした樹海が、銀に輝く海の中を進んでいた。
小さな島ほどもあろうかというその大地には、樹木を中心とした数多くの植物が根を張り、生い茂っている。
周囲の銀水は、樹海を避けるように球形の空間を作っていた。
魔眼を凝らせば、大地の底を貫通し、翼のように広がった魔力の根が、銀水を吸い込んでいるのがわかる。
それは、船だ。
樹海船アイオネイリア。多種多様な小世界、数多の魔法に精通した化け物たちが潜む銀水聖海においても、ひどく珍しい船だった。
銀水の中を、普通の植物は生きることができない。
しかし、その樹海は銀水を魔力に変え、銀泡の光を吸い込みながら、それらを養分としているのだ。
アイオネイリアの樹海の奥には、銀水から集められた魔力にて巨大な魔法陣が描かれており、そこに船の主がいた。
背が高く、夕闇の外套を羽織った男だ。自然に任せれば、大地につくほど長い銀の髪は、ゆらゆらと水に漂うように重力に逆らっている。
この銀水聖海において不可侵領海の一つに数えられる、二律僭主ノアであった。
彼は頭上を見上げる。
樹海は夜だ。
アイオネイリアが、景色を生み出している。
漆黒の空には、七条のオーロラが冷たく輝いていた。
その明かりは樹海の奥まで降り注ぎ、二つの影を地面に浮かばせる。
二律僭主ともう一人、そばに控える執事のものだ。
「僭主」
ロンクルスが言った。
「お心は、決まっていらっしゃるのでしょうか?」
「ああ」
オーロラを見上げながら、二律僭主は言う。
「幼き日の恩に、報いねばならぬ」
遙か遠く、七条のオーロラの彼方にある外側へ、彼は視線を伸ばしていた。
ロンクルスは主の言葉を拝聴しながらも、心なしか浮かない表情を浮かべている。二律僭主にもそれがわかったのだろう。彼は視線を下ろし、執事に向き直った。
「卿はわたしが後れを取ると思うか?」
気負いのない口調だ。
その言葉には揺るぎない自負が溢れている。
ロンクルスは、主の無彩色の瞳をじっと見つめた。
「我が主は、不敗にして気高く、この銀海に吹く、自由なる風でございます。いかなる死線をも笑みとともに越え続けた二律僭主に、敗北などございません」
一瞬口を噤み、再びロンクルスは言った。
しかしながら――と。
二律僭主は、言葉の続きをただ黙って待つ。
「……しかしながら、彼の人にかけられしは、永劫の呪いです。僭主のお力なら、その影を踏み潰すことはできましょう。けれども、あれは解ける類の呪詛ではないのです。もしも、それを解こうというのならば、文字通り、その根源を懸け、死と滅びを超える必要がございます」
ロンクルスはそう言葉を重ねた。
主が思いとどまってくれるようにと。
「方法はある」
「……不可侵領海と呼ばれた名だたる者たちがそれに挑み、そして敗れ、帰らぬ人となりました……」
「ロンクルス」
静かに二律僭主は言う。
「わたしは恩を受けた。それを返しにゆくだけだ」
「幾千の死の壁が御身の前に立ちはだかっていたとしても?」
「愚問だ」
ロンクルスは言葉を失う。
忠実な執事である彼が、主の決断に異を唱えたのはこれが初めてのこと。
それ以上、ロンクルスには主を引き止めることができなかった。
「……では、僭主――」
「二律僭主がなくなれば、この海域一帯は奴らパブロヘタラの手に落ちる」
ロンクルスの言葉を封じるように、二律僭主が言った。
「待つことはない」
二律僭主は自らの執事に命ずる。
「守れ」
あるいはそれは、執事に地獄への供をさせぬための命だったのかもしれない。
ロンクルスはその場に跪き、深く頭を下げた。
「承知いたしまし――」
突如、激しい衝突音が鳴り響き、樹海に大地震が巻き起こった。
アイオネイリアの進行方向に、突如、別の船が現れたのだ。
その速度もさることながら、膨大な重さの樹海船に立ち塞がるとは、命知らずとしか言いようがない。
通常ならば圧し潰されるのみだが、しかし進路に割りこんできた船は、あろうことか、アイオネイリア相手にもちこたえている。
直後、夜空のオーロラが七条、粉々に砕け散った。
樹海船が急速に速度を失い、辺りは暗闇に包まれる。
ロンクルスが、魔眼を光らせた。
賊は素早い。
今の間に、この樹海船の中にすでに侵入しているのだ。
「排除いたします」
ロンクルスは立ち上がり、右手の手袋を軽く噛んで外す。
「よい」
短く告げ、二律僭主は闇の向こう側へ声をかけた。
「船を壊さなければ、挨拶もできぬか――」
足音が響く。
闇の中から、静かに姿を現したのは、魔族の青年だった。
「――アムル」
ニヤリ、とその青年、アムルは笑った。
赤く光った魔眼と体から立ち上る黒き粒子が、それだけで彼の尋常ではない魔力を表している。
警戒していたロンクルスは、侵入者がアムルだと知ると、すぐさま右手に手袋をはめ直す。
「第一魔王、壊滅の暴君におかれましては、ご機嫌麗しく。叶うならば、今後、悪戯で僭主の船を壊さないことを願いたく存じます」
「許せ。なにせ、待てと言って待った試しがない。こいつはな」
アムルは親指で二律僭主を軽く指す。
フッと彼は笑った。
「久しいな。卿と会うのは、いつ以来だ?」
「ほんの二、三〇〇年ほどだろう」
二律僭主の問いに、アムルは気安く答えた。
「死んだという噂もあったようだが?」
どこでなにをしていたのか、と二律僭主は暗に問う。
「そのわりに、大して驚いた顔でもないな」
「卿が死ぬはずがない」
くつくつとアムルは愉快そうに笑う。
それから、答えを口にした。
「絶渦を見にいってきた」
二律僭主は真顔で応じる。
銀水聖海の遙か底、深淵に至った世界にあるのが、万物を飲み込む渦、絶渦である。
あるいは悪意の大渦とも呼ばれ、一度渦動すれば、小世界すらも容易く飲み込む、銀水聖海の大災厄だ。
「卿のことだ。凌駕してきたのだろう」
「いいや、まだだ。さすがに一筋縄ではな。それに少々思ったものと違った」
二律僭主は興味を引かれたような瞳を、第一魔王へ向けた。
「いつもながら、卿は面白いことをする」
「それはこちらの台詞だ」
二律僭主の無彩色の瞳を、アムルの視線が射抜く。
「聞いたぞ、ノア。わざわざ滅びにいくそうだな?」
「わたしはただ恩を返しにいくのみ」
「無事、戻れる保証もあるまい。お前が無駄死にするのを黙って見ていると思うのか?」
「わたしが卿以外に敗れると思うか?」
二律僭主と壊滅の暴君、二人の視線が真っ向から交錯する。
数秒の沈黙の後、アムルは地面に指先を向ける。
魔力の光にて、大地に一本の線を引かれた。
「この線を越えてみろ」
膨大な魔力が、アムルの身体中から噴出し、樹海がガタガタと音を立てて震えた。
「アムル様、お戯れはそのくらいで。そのようなことをする理由が――」
「下がれ、ロンクルス。心配性な暴君は、わたしの今の力を知りたいのだろう。杞憂だとわかれば、笑顔で送り出してくれよう」
二律僭主が魔法陣を描く。
すると、ロンクルスは自身の影に吸い込まれるように沈んでいき、その場から姿を消した。
流れ弾を食らわないように匿ったのだ。
「ノア。腕はなまっていないだろうな?」
黒き粒子が渦を巻き、ただ魔力の放出のみで樹海の木々が薙ぎ払われる。
同時に結界代わりだった樹木の根が一部吹き飛び、外の銀水が雨のように降り注ぐ。
「卿こそ、絶渦を討ちもらすとは、弱くなったのではないか?」
二律僭主の挑発に応じるように、壊滅の暴君は不敵な笑みを返した。
「試してみるか?」
「<黒七芒星>」
二律僭主は目の前に黒の七芒星を描く。
夥しい魔力の噴出が、樹海船を激しく揺らし、空気と魔力場をかき混ぜた。
「<覇弾炎魔熾重砲>」
黒七芒星を纏った蒼き恒星が唸りを上げ、壊滅の暴君めがけて撃ち放たれた。
「<黒六芒星>を超えたか。相変わらず、凄まじい」
言いながらも、アムルは目の前に魔法陣を描いている。
「こちらもお前の知らぬ魔法を見せてやろう」
魔法陣が幾重にも重なり、砲塔を形成していく。
その中心に黒き粒子が荒れ狂い、七重の螺旋を描いた。
「行くぞ」
ぼぉっと終末の火が出現する。
アムルが砲塔をぐるりと回せば、終末の火が通った空間が滅び去り、黒き灰に変わる。
彼はそれを使い、魔法陣を描いた。
二律僭主の放った蒼き恒星は、容赦なくそこに直撃する。
否、受けとめたのだ。
並の小世界ならば滅びてしまいそうなほどの衝撃が、樹海船を激しく震撼させ、黒き粒子と蒼き粒子が、鬩ぎ合っては火花を散らす。
第一魔王。壊滅の暴君アムルは不敵な笑みをたたえ、言った――
「――<極獄界滅灰燼魔砲>」
一万四千年前、銀海で使われた魔法の名――
ということで、本日から十二章を更新していきます。
楽しんでいただけますよう、精一杯頑張りますね。
また来月、5月10日には、魔王学院の不適合者4巻<下>、コミカライズ2巻が同時発売です。
予約などもすでに始まっているかと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げます。