エピローグ ~平和の絵~
美麗な扉を、開け放つ。
八枚翼の建物の中は広く、白を基調とした空間だった。
柱や壁、天井は曲線を描く独得な形状となっており、様々な飾りつけがなされている。
真っ白な壁の至るところに、多くの額縁がかけられていた。
ただし、額縁だけで、絵は一枚もない。
「なるほど。美術館か」
俺の言葉に、ミーシャがこくりとうなずく。
ザイモンは物珍しそうな顔で館内を見回しながら、ゆっくりと歩き出した。
「……美術館というと、確か、売買を目的としない品物などを飾る……?」
ザイモンの疑問に、隣を歩くファリスが答える。
「バランディアスにはありませんでしたね。美術作品、絵画などを収集し、展示を行う場所ですが、それだけではなく、文化財の保存も目的としているのですよ」
「<因果の長城>は、バランディアスに戦の因果をもたらしていた。だから、美術館に創り変えた。戦の代わりに、今度はバランディアスに絵と文化をもたらしてくれる」
ミーシャが淡々と説明する。
「この<因果の画楼>は、きっと新しいバランディアスに相応しい」
「……創造神が、それも別世界の神が、バランディアスの主神を創り変えるなど……そんなことができるのだな……」
信じられないといった表情で、ザイモンが言う。
「主神が滅びかけだったから」
ミリティア世界が生まれ変わったことにより、創造神の権能にも愛と優しさが伴うようになった。
ミーシャの想いに応えるよう、世界をより優しく創る力が備わったのだ。
「とはいえ、これで安泰というわけでもないがな」
ミーシャがこくりとうなずく。
「普通の泡沫世界より、多少マシといったところだ。ミリティア世界ではすべての民の想いを結集して、世界を丸ごと創り変えた。いかに主神が滅びかけだったとはいえ、ミーシャと魔王学院だけの力ではそこまでできぬ」
火露は僅かだが抜けていくやもしれぬ。
秩序も完全に安定したわけではない。
場合によっては、秩序の整合が再び乱れるといったことも考えられる。
「十分だ。十分すぎる助言と餞別をいただいた、元首アノス」
ザイモンは言う。
「新たなバランディアスに浮かぶこの翼を頼りに、必ず主神のいない見事な城を築いてみせる。その暁には、この真っ新な画楼も、多くの絵で埋まっていることだろう」
「そのときは我が世界からも寄贈させてもらいたいものだな」
「ああ。この<因果の画楼>はミリティアとの友好の証。拒む理由はありはしない」
ザイモンは、傍らにいたファリスを振り向く。
「さすがに額縁が並んでいるだけでは寂しい。どうせだ。一枚、描いていかないか?」
「そうですね。しばらく筆を握っておりませんでしたから、すぐに描ければいいのですが……」
笑みをたたえながら、ファリスは画楼を見回していく。
「なにを最初に描くのが美しいか。まだ頭の中で漠然としております」
ザイモンが困ったように、口を噤む。
なんと言っていいのか、わからなかったのだろう。
「つまり……それは……そう、誰彼構わず斬ればいいというものではない。剣を抜くべきときを、見極めているようなものだと……?」
ファリスはくすりと笑った。
「……違ったか?」
「いえ。絵を剣にたとえるのも、また美しきかな」
「……そ、そうか」
ザイモンが安堵したように、息を吐く。
そのとき、小さな影が視界に現れた。
「……任せる……です……!」
胸をはって、ザイモンの前に現れたのは、パレットと筆を握り締めたゼシアだ。その隣に、キャンバスを抱えるエンネスオーネがいた。
「……お絵かき……得意……です……げーじゅつせい……あります……」
エンネスオーネがパタンと床にキャンバスを置く。
ゼシアは絵の具をつけた筆で、すぐさま絵を描き始めた。
「なにを描くの?」
パタパタと頭の翼をはためかせ、エンネスオーネがキャンバスを覗く。
「……お城……です……銀のお城より、金のお城が……好きです……エンネも……描くです」
ゼシアはエンネスオーネに筆を渡す。
二人は楽しそうに、ゼシア城、エンネ城と名づけた城を描いていく。
ザイモンや城魔族たちは、その様子を興味深そうに眺めていた。
「あ、あー。あんまり熱心に見られても。ただの落書きだぞ?」
「なんの。今のバランディアスには、落書きさえも貴重な品だ。是非、寄贈していってくれ」
ザイモンの大真面目な顔に、エレオノールが本当にいいのかといった表情を浮かべていた。
「絵が必要なら、あたしもとっておきのこれ、寄贈しよっかな?」
ふと思い立ったようにエレンが、魔法陣から一枚の絵を取り出した。
「って、あんた、それ、もしかして? バランディアスが、芸術を勘違いしたらどうするのっ?」
すかさず、ジェシカが言う。
「こ、これもある意味、芸術だからっ。色んな文化があるってことを知るのも大事かなーって」
「どんな文化よ、ちょっと見せなさいっ」
「きゃー、春の画っ、ただの春の画だからっ!」
「わ。ほんとに春の画……」
「すごい力作……」
後ろからノノとマイアがエレンの絵をじーっと覗く。
「きゃっ、きゃあぁ、えっち」
「なにがえっちよ。自分で描いたんでしょっ? あたしにも見せなさいっ」
エレンの絵を巡って、ドタバタとファンユニオンの少女たちは追いかけっこをしていく。
「しかし、絵画一枚ろくにない世界とは珍しいことだな」
「銀泡においては、その世界の意思が色濃く反映されると言われております」
振り向けば、裁定神オットルルーがそこにいた。
「銀城世界バランディアスは、その意思たる王虎メイティレンにより、城が力を持ち、戦を尊ぶ世界となりました。そのため、誕生する生命の多くが城魔族です。彼らは絵画などを解する力が他の世界に比べて弱いのです」
「主神がバランディアスの住人から芸術を奪っていたか」
「主神は小世界の意思そのもの。その神の意向に世界が流れていくことは、銀水聖海の秩序です」
ファリスが筆を折る選択をせざるを得なかったのも、その秩序に従ってのことなのだろうな。
「殆どの小世界には大きな偏りが存在します。それにより、住人の能力や性質、また文化が決定されるのです。しかし、ミリティア世界は、その偏りが極めて少ない可能性があります」
「ほう」
俺の横に並び、画楼を歩きながら、オットルルーは説明する。
「銀水序列戦で使われた落城剣、あれはミリティア世界で生まれた魔剣ですか?」
「ああ」
「あなた方の主神、エクエスの権能から類推すれば、本来あの魔剣はミリティア世界に存在しないはずです。存在したとしても、世界が進化するときに別の魔力が混合され、主神の属性に傾くことになったでしょう」
落城剣の存在に、ザイモンは驚いていた。
ちょうど気になっていたところだ。
「落城剣は、限定属性を有する魔剣です」
限定属性、か。
「初耳だな。なんだ、それは?」
「魔法や魔法具などにおいて、単一の秩序、単一の属性のみを有することを指します。その中でも、城を落とすことだけに特化した、極めて特殊な限定属性でしょう」
「その話でいうなら、エヴァンスマナも限定属性か?」
「そうです」
あれは暴虐の魔王を倒すことに特化した聖剣だ。それゆえ、真に聖なる者、神族などには効きづらいという欠点もある。
まあ、この銀海ではアーツェノンの滅びの獅子とやらを滅ぼすため、となっているようだがな。
奴らと俺は、どうにも魔力の波長が似通っている。
「小世界で生み出されるものは、僅かなりとも必ずその主神が秩序の影響を及ぼすのです。銀城世界バランディアスにおいて、築城の秩序を帯びない魔法具や住人は存在しません」
たとえ九分九厘が炎の性質を宿す魔剣であっても、バランディアスに生まれる限りは、残り一厘は築城の性質を持ってしまう。
ゆえに、バランディアスで炎の限定属性は生まれない。
「つまり、バランディアスでは、築城の限定属性しか生まれぬ。聖剣世界ハイフォリアであれば、霊神人剣エヴァンスマナと同一の限定属性しか生まれぬわけだ」
「そうです。ですから、ミリティア世界では、本来ならば、主神エクエスの所有する秩序、歯車の限定属性しか生まれないはずでした」
城を落とすことに特化した落城剣が存在するはずがない、か。
「落城の秩序を持つ主神は、パブロヘタラでも確認できておりません。限定属性であれば、浅きものでも、深きものに影響を与えることが可能です。しかし、バランディアスの弱点となる限定属性は、銀水聖海に存在しないはずでした」
だから、ザイモンは驚愕したのだろうな。
奴らにとって、落城剣メズベレッタは、この海に存在しないはずのものだったのだ。
「それがお前にも不可解でならぬというわけか?」
「非常に稀なことですが、いくつか可能性は考えられます。理由をご存知でしたら、教えていただけますか?」
「あれはできそこないと言っただろう。王虎メイティレン同様、エクエスは便利な道具に変えてやってな。簡単に言えば、ミリティア世界は主神の支配下にはないのだ」
一瞬、オットルルーは口を閉ざした。
思い当たる可能性のいずれにも該当しない、といったところか。
「……そのような銀泡は、存在しないはずでした……」
「これで理解したか?」
再びオットルルーは押し黙る。
しばらく考えた後に、彼女は口を開いた。
「オットルルーは確認しました。ミリティア世界は、この銀水聖海において、類を見ない進化の道を辿っています」
オットルルーは、俺から視線を外し、<因果の画楼>を見回した。
「バランディアスにあるものの、この画楼にはミリティア世界からの魔力が働いています。恐らくは、偏りのない無色の秩序が。王虎メイティレンは、ミリティア世界の所有物に創り変えられたということでしょう」
ミーシャが創り変えたため、必然的にそうなったのだ。
「滅ぼすのはもったないなかったのでな」
彼女は無言で、俺を見返した。
「なにか問題か?」
「……主神の意思の恩恵がない世界も、他の世界の主神を獲得した世界も、パブロヘタラの歴史にはありません。問題があるかどうかわからないのが問題です」
「くはは。道理だがな。そんなことを言い出したら、悩みの種はつきぬ」
「パブロヘタラの理念に従うのでしたら、元首の判断を尊重するのがオットルルーの役目です」
裁定神というだけあり、オットルルーは中立のようだな。
他の世界の元首たちも、そう言ってくれればよいが、さて、どうだろうな?
「パブロヘタラは情報を求めます。この画楼を調べても構いませんか?」
「好きにせよ」
「ご協力、感謝します」
お辞儀をして、オットルルーは立ち去っていった。
「ミーシャ。アレはどこだ?」
「こっち」
ミーシャの後に続き、俺は画楼を歩いていく。
隣でサーシャが不思議そうな顔をしていた。
「ねえ、アレってなに?」
「コーストリアたち、アーツェノンの滅びの獅子に母さんは狙われている。イージェスを護衛につけたが、奴らは深層世界の住人だからな。エクエスの守りもあるとはいえ、なにがあるかわからぬ」
「それはわかるけど、この画楼となにか関係があるの?」
ミーシャが扉を開く。
その部屋に、一枚の絵が飾られていた。
「あれ? ここだけ額縁にちゃんと絵が入ってるわ」
サーシャは絵に目を向けた。
描かれているのは、銀の体毛を持った虎の赤子だ。
「それで、どういう――」
『がおっ!』
びくっとサーシャが仰け反った。
絵の中の子虎が、可愛らしく吠え、動いたのだ。
「もしかして……エクエスと同じように…………?」
「戦いの因果を感じとれば、絵から飛び出し、身を挺して母さんの盾となってくれるだろう。時間稼ぎにはなる」
俺はその絵画を手にした。
「それに母さんは猫が好きだ」
「……虎でしょ」
『がおっ!!』
威嚇するように、絵の中の子虎メイティレンが吠える。
その様を、俺は<滅紫の魔眼>で冷たく見下ろした。
『…………にゃ、にゃあ…………』
か細い声で、子虎は鳴いた。
「猫だ」
「……どっちでもいいけど……」
呆れたようにサーシャがぼやく。
にゃあ、とミーシャが絵の中の子虎に声をかけた。
「そろそろ行くか、ファリス」
足音を聞き、俺は振り返る。
ファリスは静かにこちらへ歩いてきた。
「どちらへ?」
「ディルヘイドだ。二千年後の我が国がどう変わったのか、お前に見てもらいたい」
そう言うと、ファリスははっとした。
なにか思いついたような表情、まるで頭の中で想像が広がっていくようなそんな顔だ。
「どうした?」
「――いいえ。確かに、拝見しました。たった今」
「ほう?」
視線で問うた俺の前を通り過ぎ、彼はまっすぐ壁の前に立った。
それは高く、広く、キャンバスのように白い。
「たとえ遠く離れていようと、陛下、あなたとあなたの配下の後ろに、確かに、私は生まれ変わったディルヘイドを垣間見たのです」
魔法陣を描き、そこからファリスは愛用の魔筆を引き抜いた。
心が研ぎ澄まされていくのがわかった。
戦いの最中、決して見せることのない創術家の魂が、そこに剥き出しになっている。
静かで、それでいて温かい。
なにを描くべきか、漠然としていると言っていたが、もうファリスの頭の中は描くべき絵のイメージで溢れている。
やはり、彼にはこれが一番向いている。
「ああ、美しきかな、この世界は」
魔力の粒子が集い、ファリスはさっと筆を走らせる。
まるで魔法のように、画楼の壁に色が幾重にも重ねられていく。
ただ三つの色が巧みに混ぜ合わされ、様々な異なる色へと変わる。
色はやがて輪郭を持ち、その姿が浮き彫りになった。
僅か数秒の出来事だ。
その瞬間に全霊を注ぎ込んだかのように、ファリスは玉のような汗を流し、肩で息をする。
「――いかがでしょう?」
くるりと振り向き、礼をしながら、彼はその場に跪いた。
「二千年前、魔王陛下と約束をした、平和の絵にございます」
広い壁のキャンバスに描かれているのは、一本の道。
ディルヘイドのどこかを描いたようで、どこでもない、暖かな空想の道だ。
大勢の魔族たちがそこを歩んでいる。
ミーシャがいた。サーシャがいた。
シンやレイ、ミサ、アルカナ、エレオノール、ゼシア、エールドメード――
我が配下たちが皆、揃って同じ道を進んでいる。
その中心には、魔王がいた。
笑っている。配下たちとともに、肩を並べ、平和の道を行きながら、絵の中の俺は笑っていた。
浮かべたこともない、聖人のように穏やかな顔で。
「俺とは思えぬな」
サーシャがうーんと頭を悩ませ、ミーシャがふるふると首を振った。
ファリスはじっと俺の次の言葉を待っていた。
「ある者に聞いたが、銀水聖海には不条理や横暴が蔓延っているそうだな。バランディアスのような世界も珍しくはないか?」
「美しいものばかりではありません。パブロヘタラの理念は、銀海の凪。海面が荒れ狂うからこそ、それを掲げ、願っているのです」
ファリスは率直に答えた。
その顔を見れば、ろくでもない世界を見てきたというのは想像がつく。
「この絵は気に入った。是非、次の絵も見てみたい」
跪く彼に、俺は告げる。
「なにがご所望でしょうか?」
「海だ。俺のそばに控え、この背を魔眼に焼きつけ、<因果の画楼>の壁面にそれを描き出すがよい」
この部屋にある空白の壁すべてを、俺は両手を上げ、指し示す。
「今度はお前に銀海の凪を見せてやる」
顔を上げ、ファリスはその魔眼を輝かせる。二千年前と同じだ。平和の絵を願った彼は、それが叶った今、更なる平和を描きたくて仕方がないのだろう。
銀水聖海が、美しく輝く瞬間を。
「たとえ幾度生まれ変わろうとも、私の魂は常におそばに」
再び頭を垂れ、忠誠を誓うように彼は言った。
「生涯、御身のために絵を描いて参ります、陛下」
この真っ白な壁を、彼はなにより美しく塗り替えるだろう。
俺が想像すらしない色を、思いも寄らぬ姿を見せてくれるはずだ。
本物をより本物らしく、想像がまるで羽ばたくように。
創術家ファリス・ノインが、キャンバスに翼を広げ、どのように飛んでいくのか。
それが、楽しみでならなかった。
銀の海をキャンバスに、彼らは新しい絵を描き始める――
ここまで、お読みくださり、誠にありがとうございます。
十一章はこれにて終了です。
面白かった、続きが読みたい、末永く続いて欲しい、と思っていただけましたら、
『魔王学院の不適合者』の書籍版が4巻<上>まで出ておりますので、
ご購入を検討いただけますと、大変励みになります!
前回お伝えしました通り、更新再開は4月23日予定です。
それでは、面白いものが書けるように精一杯努力して参りますので、
またどうぞよろしくお願い申し上げます。