不可侵領海
「なんと――」
ガリッと音が響く。
「なんと浅はかで――」
バリボリバリバリッ、とカルティナスが口に放り込まれた靴を噛み砕いた。
破片の一部がバラバラと教壇に落ちる。
「なんと無礼極まりない元首だっ! これだけのことをして、貴様と貴様の世界がどうなるか、わかっているであろうな?」
「カーーーカッカッカッカッ!!」
憤怒する不動王を、エールドメードが笑い飛ばした。
「陳腐、陳套、凡俗だ。時代遅れのカビの権化か、オマエは。ん? 風化した化石以下の常套句など、生まれる前に一〇〇万回は聞いている。我らが元首は軽すぎて空に浮かんでいると言ったが、いやいや分不相応な深層に沈んだせいで、どうやら頭に酸素が回っていないぞ」
エールドメードの挑発で、ますます髪の毛を逆立て、カルティナスは鋭い牙を覗かせた。
こいつは魔族だな。
ミリティア世界の魔族とは少々毛色が違うようだが。
「……臣下の躾もできんかっ! 頭を下げる機会をくれてやった朕の慈悲を、よもや仇で返すとは! 揃いも揃って、不遜で不届きな奴らよ。最早、後戻りはできぬぞ?」
「御託はそれだけかね」
火に油を注ぐように言い、熾死王がニヤリと口の端を釣り上げる。
「恐れ、戦き、歓喜に震えるがいい、不動王カルティナス」
大きく両手を広げ、奴は高らかに宣言した。
「オマエは、この銀水聖海で初めて、暴虐の魔王の蹂躙をその身をもって味わうのだっ!!」
ますます怒りをあらわにするかと思えば、しかし、不動王は怪訝な表情を浮かべた。
「…………魔王……?」
意味ありげに含み笑いをしながら、カルティナスは俺に視線を飛ばす。
「まさか、いやはや、まさかとは思うが、貴様、己の世界で魔王を名乗っているわけではあるまいな?」
「それがどうした?」
瞬間、カルティナスが盛大に噴き出した。
「わっははははははははーっ!! 泡沫世界の不適合者が、よりにもよって魔王を自称するとはっ! 無知が極まれば、こんなにも滑稽になるものか。恐いもの知らずとはこのことよなぁっ!!」
わは、わはははは、わははははははははははっ、とカルティナスは腹を抱えて笑っている。
他の学院生たちも、声には出さないものの、失笑していたり、呆れている様子だ。
それにしても、長いな。
まだ笑っている。
「そのまま笑い死ぬつもりではないだろうな?」
「わはは、すまぬのう。貴様があまりにも滑稽なものでなぁ。いや、泡沫世界から出たばかりでは無理からぬことか。それにしても、ぷくくく……」
どうやら説明する気がないようだな。
俺はオットルルーに視線を向けた。
「魔王というのは、この銀水聖海においては多くの畏敬を集める名です」
事務的に彼女は説明を始めた。
「深層一二界を支配し、銀海史上初めて深淵魔法に到達した魔導の覇者、それが大魔王ジニア・シーヴァヘルド。魔王というのは、偉大なる大魔王ジニアの継承者候補たち六名を指します」
それで門番やオットルルーが、魔王学院の名に反応を示したわけか。
「争いを好み、パブロヘタラに加盟していない深層世界も多くあります。しかし、そんな野蛮な元首たちでさえ、魔王の領海には入ろうとしません。この海には決して触れてはならない不可侵領海と呼ばれるものがいくつかありますが、その一つが魔王です」
説明が終われば、カルティナスがニタニタしながら口を開いた。
「わかったか? 泡沫世界の不適合者如きが魔王などと名乗っておれば、大魔王が統べる深層一二界を敵に回すことになるぞ」
さも得意気な様子で、奴は脅すようにねっとりとした視線を向けてくる。
「わははは、どうだ? 段々と恐ろしくなってきたのではないか? 無理もないだろうな。悪いことは言わん。銀海に来たからには改名しておけ。朕が貴様に相応しい名をつけてやろうか? そうだな」
わざとらしく腕を組んで考える素振りを見せ、奴は言った。
「間抜け王……というのはどうだ? 間抜け王アノス、わははははははっ、こいつは傑作だのうっ!!」
「お前の臣下はさぞ優秀なのだろうな」
意味を解せなかったか、カルティナスは訝しげな顔をした。
「一界を治める元首がこれでは、臣下の苦労が偲ばれるというものだ」
「……なにぃ?」
カチンときたように、奴は再び髪を逆立て、俺を睨む。
「つまらぬ理由で名を改めるのも億劫だ。魔王を名乗っていれば、大魔王ジニアとやらの使いが接触してくるのなら、都合もいい。深淵魔法とはどれほどのものか。是非とも、お目にかかりたいものだな」
笑い飛ばすように不動王は言う。
「ほーう、粋がりおるわい。その威勢がいつまでもつことやら? 貴様のような新入りを朕は何度も見てきたがの。最後には平伏して、涙ながらに許しを請うたものだ」
「ふむ。それは面白い。どうやったのだ?」
俺を睨めつけ、怒気を込めてカルティナスは言った。
「抜かしおるわ。学院間の紛争は銀水序列戦にて決着つけるのがパブロヘタラの習わしだ。今更逃げるとは言うまいな?」
「よい。存分に挑め」
ふん、とカルティナスは鼻を鳴らした。
「オットルルー、裁定だ」
「パブロヘタラ学院条約第三条、学院間に発生した紛争は、これを銀水序列戦の結果において解決する。勝者の主張が認められ、敗者の弁は意味をなさない」
裁定神オットルルーが事務的に言い、魔力を発する。
「<裁定契約>」
描かれた魔法陣には、ねじ穴が空いている。
オットルルーはそこへ手にしたねじ巻きを突き刺し、ねじを巻いた。
ねじ巻きが回転する毎に術式が構築されていき、三度目で<裁定契約>の魔法が完成した。
「両者の調印をもって、銀水序列戦の契約が成立します」
オットルルーは俺の方を向いた。
「元首アノス。あなたはパブロヘタラのことも、銀水序列戦のことも満足に知りません。調印には一日の猶予があり――」
言葉が止まる。
裁定神の首をカルティナスがつかみ上げ、締めつけていた。
「でしゃばりすぎではないかの、オットルルー? それ以上は裁定神の範疇ではあるまい」
「……パブロヘタラの秩序を説明したにすぎ――」
喉を潰す勢いで、カルティナスが更に首を握り締めた。
「……う……ぁ……」
「余計なことを言うでない。喉を潰してしまうぞ?」
瞬間、オットルルーが霧と化して消えた。
「あー?」
空をつかんだカルティナスが、魔眼を光らせた。
壇上の離れた場所に、オットルルーと彼女に<雨霊霧消>をかけたミサ。そして俺の姿が現れる。
「裁定人に手を出すとは。見下げた男だな、お前は」
「なにも知らんマヌケめ。まあ、よいわ。せいぜいパブロヘタラのことを知るがいい。その頃には怖じ気づき、朕と序列戦を戦う気などなくなって――」
カルティナスが目を見開く。
俺が<裁定契約>に調印したのだ。
「貴様を軽く捻ってやるのに、知識などいるまい」
カルティナスは下卑た笑みを覗かせた。
うまくいったと言わんばかりだ。
「後悔するがよいぞ」
そう言い捨て、奴も<裁定契約>に調印した。
「両者の調印を確認しました」
オットルルーが言う。
「パブロヘタラの裁定神オットルルーの名をもって、ここに魔王学院と虎城学院による銀水序列戦を決定します。日時は明日、パブロヘタラの始業より。場所は自由海域、第二バランディアス世界となります」
第二バランディアスということは、カルティナスの所有する小世界か。
「恨んでくれるなよ。無知な者から消え去るのが、この銀水聖海の掟。朕も二界を治める元首ならば、非情に徹せねばならん」
したり顔で奴は言う。
「講義を始めよ」
踵を返し、ミサとともに教壇から下りる。
席へ戻る途中、各学院の生徒たちから声をこぼれた。
「……新入生にばかり銀水序列戦を仕掛けるとは、相変わらず恥を知らぬ男だ……」
「深層世界でありながら、序列を低く調整し、格下とばかり戦えるようにしているだけのことはある」
「そうは言っても、バランディアス城艦部隊の実力は侮れん。奴自身の力はともかく、あの二枚看板はな。残念ながら、泡沫世界の不適合者などとは格が違う」
「張り子の虎と呼ばれていても、カルティナスは狡猾だ。敵の情報も、パブロヘタラの情報もろくに知らぬ状況で、実よりも見栄をとったあの愚かな元首に、万に一つも勝ちの目はないだろう」
「奴があそこで頭を下げるほど慎重ならば、手を結んでやってもよかったのだがな。誇り高いのは評価するが、未知を恐れぬ無鉄砲ではどのみち生き残れん」
ひそひそと喋っているのは、元首たちか。
不動王は、俺に限らず新入りばかりを狙っているようだな。
「着いた早々、大喧嘩だわ……」
席に戻ってきた俺に、サーシャが呆れたような表情を見せる。
隣でミーシャがぱちぱちと瞬きをした。
「深層世界って、わたしたちの世界よりよっぽど深淵にあるんでしょ。準備期間は一日だけ。どうするのよ?」
「なんだ、サーシャ。あそこで頭を下げる俺が見たかったか?」
「馬鹿言わないで」
ぴしゃりと彼女は言い切った。
勝つ方法以外は、聞いていないとばかりに。
シンもエールドメードもレイもエレオノールもアルカナもミーシャも。
我が配下は誰一人とて、深層の世界を統べる不動王に臆してなどいない。
力の劣る他の生徒たちでさえ、武者震いに震えている。
「わたしたちの世界と魔王さまを侮辱した罪、きっちり償わせてやるわ」
未知の海にも彼らは臆さず――