出発進行
銀の海を、俺は<飛行>にて飛んでいく。
<水中活動>の魔法を使っているが、まとわりつく水の圧力は途方もなく強く、その上濡れた体から魔力を奪う。
魔法障壁を張り巡らせ、水を遮断した。
「外はあまりよい環境ではないな」
『銀水聖海は魔力を無尽蔵に吸い上げます。この水は銀水と呼ばれていますが、生命は銀水を遮断する泡の中でしか暮らすことができかねます』
ロンクルスが言う。
確かに、この銀水の中に放置されれば、助かるまい。
並の者なら、生身で飛ぶことも難しい。
「銀水聖海に漂う泡が、一つ一つの小世界というわけか」
『左様でございます。小世界のことを、そのまま銀泡と呼ぶことも』
振り返れば、巨大な銀の泡がみるみる遠ざかっていくのが見える。
先程まで俺がいた小世界だ。
「学院同盟に入るには、誰に話を通せばいい?」
『門番に伝えれば、仮入学の手続きを取っていただけるはずです。ただどんな手続きになるのか、また他に審査が必要なのか、詳細につきましてはわたくしも存じ上げません。特に泡沫世界が学院同盟に入ったなどという話は聞いたことが……』
「何事にも初めてはあるものだ」
ミリティアの世界に主神と元首はいないが、そもそも成り立ちが違うのだから仕方あるまい。
主神になり損ねた水車はあることだ。
どうにかそれで、わかってもらうとしよう。
話の通じる相手ならばいいが。
『……アノス殿……』
声が遠い。
ロンクルスの根源が発する魔力が、みるみる穏やかになっていく。
「そろそろか?」
『そのようです。あまりお役に立てず、申し訳ございません。最後になにをお答えしましょうか?』
「二律僭主をどう演じればいい?」
『……よろしいので?』
念を押すようにロンクルスが訊き返す。
もっと役に立つことを訊かないのか、という意味だろう。
「他のことは、そこらへんの奴に聞けばよい。二律僭主の心はお前しか知らぬ」
『――それでは、力を』
率直にロンクルスは言う。
『二律僭主として、力をお示し下されば、と。パブロヘタラにいるすべての者が必ずしも邪悪ではありません。しかしながら、かの学院の構造はお世辞にも正義と言えるようなものではございません。卿はパブロヘタラにて、多くの不条理や横暴を見ることでしょう』
静かな怒りが、言葉に宿る。
『無茶を承知で申し上げます。もしも卿の手が届くならば、それを挫く自由なる風を吹かせていただきたい』
「あの樹海はどうする? バルツァロンドたちの話から察するに、二律僭主の縄張りだろう?」
『幽玄樹海が大切なわけではございません。ただこの海に、奴らの思い通りにならぬ場所がある。そう知らしめることさえできれば……』
段々とロンクルスの声が遠ざかっていく。
「では、再生できれば再生し、二律僭主として縄張りを守ろう」
『卿に多大なる感謝を。多くは望みません。パブロヘタラはあまりに巨大、後のことは、わたくしが目覚めた後に……』
ロンクルスの掠れた声が、更に小さくなった。
「安心して眠るがいい」
『……最後に、一つ……<融合転生>によって、わたしと卿の根源はつながっています……互いの記憶が、混ざり合う……ことが――』
ロンクルスの声は、そこで途切れた。
完全に休眠状態に移行したようだ。
無事に俺の体に適応できればいいがな。
「さて」
我が世界へ向かい、俺は全力で飛んだ。
視界は悪いが、海路は来た際に暗記してある。
記憶を頼りに進んでいけば、やがて一つの銀泡が見えてきた。
ミリティアの魔力を感じる。
その小世界から発せられる銀の光を俺は逆行していく。
この銀灯があるからこそ、小世界への出入りができる。ミリティアの魔力が漏れてきているのも、この銀の灯りからだ。
ということは、ミリティアの世界が転生するまで、銀灯が働いてなかったと考えるのが妥当か。
ゆえに、コーストリアやバルツァロンドはこの小世界のことを察知できず、母さんや霊神人剣にこれまで気がつかなかった。
示し合わせたように、世界転生後にやってきたのも納得できるというものだ。
「<掌握魔手>」
銀灯が最初から見える分、外へ出るより中へ入る方が容易い。
夕闇に染まった右手で、その銀の灯かりをわしづかみし、先程と同じ要領で内向きの風を吹かせる。それにつかまり、俺はミリティアの世界へ降りていった。
視界が暗くなり、次第に黒穹が見えてきた。
すぐさま<転移>の魔法を使い、デルゾゲードの最深部へ俺は転移する。
視界が真っ白に染まると――
「よしっ! もう一丁だっ!」
「ああ、段々コツがつかめてきたっ!」
もう夜だというのに、生徒たちの声が聞こえた。
周囲はずいぶんと騒がしい。
「カカカ、いつになくやる気ではないか、焚き、火夫。明日の授業に響けば、本末転倒だぞ?」
魔王列車の機関部で、エールドメードが言う。
どうやら放課後、生徒たちは居残りで投炭訓練を続けていたようだ。
「だってよ、先生。機関部は、魔王列車に魔力を供給するんだろ? ってことは、なにをするにも、ここに火がついてなきゃ始まらないってこった」
「そりゃシン先生とレイがいれば問題ないだろうけど、やべえ奴が来たら、あの二人は外に出るしかなくなるし」
「俺らが頑張らなきゃ、魔王列車は空の藻屑って話だよなぁ。今訓練できる内に死ぬ気でやっとかなきゃ、マジ滅ぶって」
「大体、あの暴虐の魔王様のことだから、悠長に訓練するように見せかけて、実は三日後に出発とか言い出しかねねえし」
二人はスコップを握り、ザッと火室に投炭する。
コツをつかみ、余計な魔力のロスがなくなったか、当初のへっぴり腰とは違い、流れるような動作だった。
「そうそう」
と、他の生徒たちも機関部に顔を出す。
「だから、みんなでナーヤちゃんに倣って居残りしてるんだもんねっ」
「三日後、魔王列車を見事に乗りこなして、たまにはアノス様をびっくりさせてあげようよっ!」
「それいいねっ! 賛成ーっ!」
「やってやろうぜっ!」
気合いの入った生徒たちの声が、魔王列車の各部から次々と響く。
様々な経験を経て、彼らにも今なにをなすべきか、それを察知する力が身についたのだろう。
「俺が言うまでもなく訓練に励むとは、大したものだ」
そう声をかければ、生徒たちがばっとこちらを振り向いた。
「あ、アノス様っ!」
「お、おいっ。アノス様がいらっしゃったぞっ」
魔王列車から、生徒たちが顔を出す。
「事情が変わった。つい先刻、外の住人に俺の母と霊神人剣が狙われてな。賊を追い、外の世界を少々覗いてきた」
嫌な予感がするとばかりに、生徒の顔つきが変わった。
「よく備えた。これならば、今すぐ魔王列車を発進できよう」
缶焚きがあんぐりと口を開く。
「……今……すぐ……?」
唖然とした表情で火夫は言った。
「……マジかよ……三日後どころの話じゃねえ……」
「で、でもアノス様、まだ訓練だけで、魔王列車を走らせたことも……」
尻込みする生徒へ俺は言う。
「習うより慣れろと言う言葉がある――」
「いや、だから、慣れようとして……」
「――が、それでは遅い。二千年前はこう言った。慣れるより、溺れろ」
生徒たちの顔が無になった。
「……意味が、わからないような……?」
「む、夢中になれってことじゃ?」
「いや、わからねえぞ。アノス様のことだから、普通に溺れ死ぬ方っていう可能性も……?」
「両方かもっ! 溺れながらでも深淵に沈めば、それだけ成長するし。死んでも生き返ればいいわけだし……」
「……そ、それって誰の言葉……ですか?」
「俺だ」
もうだめだ、といった顔を生徒たちは浮かべる。
よい。この表情のときこそ、彼らは最大の力を発揮する。
「乗員が揃い次第、発進する。配置につけ」
「「「は、はいっ!」」」
生徒たちは、バタバタと慌てながらも自らの持ち場へつき、愉快でたまらぬといった様子のエールドメードの指示のもと、発進準備を入念に行っていく。
俺はその間、<思念通信>を方々へ飛ばしておいた。
すぐに目の前に魔法陣が描かれ、ミーシャとサーシャが転移してきた。
「いきなり外の世界へ行くって、どういうことよ?」
開口一番、サーシャがそう問い詰めてくる。
「なにかあった?」
ミーシャが心配そうに俺を見つめる。
「説明は全員揃ってからだ。魔王列車に乗れ」
そう口にすると、エレオノールとゼシア、アルカナ、エンネスオーネが転移してきた。
イージェスと父さん、母さんも一緒だ。
「アノス」
父さんと母さんが、駆けよってくる。
「大丈夫、アノスちゃん? なんにもなかった?」
「ああ、ピクニックを楽しんできたところだ」
心配そうな表情の母さんへ、俺は笑みを返す。
「しかし、少々面倒な事態になってな。事情はわからぬが、母さんは狙われている。これから敵を潰しに世界の外へ行くが、俺の魔眼の届く範囲にいた方がよい。一緒に来てくれるか?」
俺がパブロヘタラに入ったと知られれば、コーストリアたちはこの世界にいる母さんを狙おうとするやもしれぬ。連れていった方が安全だ。
「うん。わかったわ。アノスちゃんがそうした方がいいって言うなら、きっと間違いないもんね」
母さんと目を合わせ、父さんも力強くうなずいた。
状況がよくわかっていないだろうに、二人は俺を信じてくれている。
「あ、じゃ、お母様とお父様はこちらへどうぞっ」
「ご案内しますっ!」
エレンとジェシカがそう言って、父さんと母さんを魔王列車まで案内していく。
待っていたかのように、ミサが俺に駆けよってきた。
「アノス様っ、レイさんとお父さんはっ?」
「外の世界で賊を見張っている。これから合流予定だ」
「そ、そうですか……」
彼女はほっと胸を撫で下ろす。
「乗れ」
「はいっ」
彼女はすぐさま魔王列車に乗った。
「メルヘイス」
魔王列車に向かいながら、<思念通信>を飛ばす。
『はい』
「三日ほど国を空ける。我が世界自体を狙う輩は今のところ存在しないが、外の世界から外敵がやってこぬとも限らぬ。奴らは強い。神界の樹理四神と大精霊レノ、アガハのディードリッヒ、ジオルダルのゴルロアナを頼れ。時間を稼いだなら、必ず戻る」
『仰せのままに』
「現時点でわかっていることは少ない。先程、送ったものにくまなく目を通しておけ」
<思念通信>にて、判明している情報をメルヘイスに送っておいた。
ディルヘイド内部にて、またレノやディードリッヒ、ゴルロアナと共有するだろう。
『お帰りをお待ち申し上げております』
「ああ」
魔王列車に乗り込み、機関部後方に設けられた玉座に座る。
熾死王がうやうやしく礼をして、愉快そうな笑みを俺へ向けた。
「出せ」
待っていたとばかりに、奴は声を張り上げた。
「カーカッカッカッカッ! 聞いたか、オマエらっ! 外の世界の住人どもへ、魔王列車ベルテクスフェンブレムお披露目の日がやってきたではないかっ!」
大仰な手振りで、エールドメードは杖を振るう。
「汽笛を鳴らせっ! 魔王の汽笛を! それは未だ恐れを知らぬ凡俗どもに、真の恐怖を刻みつけるだろう。やがて皆々は、この不吉を告げる音を聞く度に、恐れ戦き、体の芯から震え上がるのだ!!」
大きく跳躍して、ダンッと熾死王は足を鳴らす。
「暴虐の魔王が、やってきたとっ!!」
汽笛が鳴り、車輪が回転を始める。
ゆるりと出発した魔王列車は水路の坂を上り、地上へ上がっていく。
「進路は黒穹。いざ未知なる世界ヘ!」
唇を吊り上げ、熾死王は杖で前方に覗く空を指した。
「出発、出発っ、出発進行だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーっっ!!!」
いざ未知なるものが待ち受けるパブロヘタラへ――