母さんのかまどと父さんの助言
「おはよう、アノスちゃんっ!」
キッチンへ顔を出すと、母さんが振り向いた。
ミトンを両手につけ、満面の笑みを浮かべながら、小麦のパンを載せた鉄皿を持っている。こんがりと焼けた美味しそうな匂いが漂っていた。
「おはよう」
「今日はミーシャちゃんが新しく作ってくれたかまどを使ってみたの。お料理が沢山入るし、お母さん助かっちゃうわ」
「へー。いつの間に作ったの? どうりで見慣れないと――」
サーシャがキッチンのかまどになんとなく視線を向け、言葉を切って二度見した。
額に手をあて、嫌な予感がするといった表情を浮かべる。
「……ねえ、それ、もしかして?」
「エクエス窯」
ミーシャが淡々と答える。
かつて世界の歯車であったエクエスを解体、再構築し、創られたかまどである。
「だ、大丈夫なの?」
「なに、もはや以前の力は欠片もない。絶望を火にくべ、希望のパンを焼き上げるかまどだ。使えば使うほど、世界は希望に満ちる」
もっとも、それほど劇的な効果はない。
ほんの些細な力だ。しかし、続けていけばいつか大きな希望に変わるだろう。
「安心安全」
ミーシャが言うと、サーシャはほっと胸を撫で下ろす。
「なら、いいけど、まさかお母様が使うかまどにするなんて思いもよら――」
『ぐ、ぎぎ……』
キッチンに響いた声に、サーシャは怪訝な顔つきになった。
「ねえ、今、なにか聞こえなかった……?」
「少々かつての意識が残っているようでな。まあ、所詮は歯車だ。パンを焼き続けていけば、己の役割を理解しよう」
「百歩譲ってそうだったとして、こんなのお母様だって気持ち悪くて使いたくないでしょ……? 大体――」
母さんがエクエス窯のフタを閉めようとすると、消えていたはずの火が勢いよく燃え上がった。
『これっぽっちの――』
エクエス窯から声が響く。
『これっぽっちのパンを焼かせて、希望に変わると思っているのか』
「まあ! まあまあまあっ!」
母さんが声を上げて、にっこりと微笑む。
「ふふふー、エクエスちゃんは働き者だもんね。これっぽっちのパンじゃ焼き足りないわよねっ! でも、大丈夫、そう言うと思って」
母さんが隅の方に置いてあった鉄皿を持ってくる。
形が整えられたパン生地がいくつも乗せられていた。
「じゃーん、沢山、用意しておいたのっ!」
『ち、ちがぁっ……! パンを焼き足りないという意味ではがぼぼぉぉっ……!』
かまどに鉄皿を次々と突っ込まれ、エクエスは苦しげな声を発する。
「沢山焼いて、沢山平和にしてね、エクエスちゃん」
『覚えていろ、女ぁっ! このかまどの火は、いずれ絶望の炎となり、なにもかもを焼き尽くすのだ』
「まあ! まあまあまあまあっ!」
再び母さんが満面の笑みを浮かべる。
「そんなにすねちゃって、大丈夫。エクエスちゃんが沢山焼きたいって言ったのちゃんと覚えてるわ! 今朝はお客さんが沢山だから、グラタンとお野菜とお肉とお魚もあるの!」
母さんが新たな鉄皿をいそいそと運んでくる。
「ふふふー、なにもかもたーくさん焼き尽くしちゃってねぇ」
『ち、ちがぁぁっ……! 私は、そういう意味ではぁ……!』
「はいはい、遠慮しないの。お母さん、話し相手ができて嬉しいわぁ。エクエスちゃんがいたら、沢山お料理作れちゃうっ!」
母さんは手際良く、次々と鉄皿をかまどへ入れていく。
『ぐうぅぅっ……ああ……燃える……絶望がぁぁ――』
「よかったね。楽しんで焼いてね」
にっこりと母さんが笑う。
バタンッとフタが閉められ、エクエスの声が消えた。
「それで、サーシャ。なにか言いかけていたようだが?」
「……安心安全だわ……」
こくこくと隣でミーシャがうなずいていた。
「アノスちゃん。ごめんね、もうちょっとだけお時間かかるから、そっちでゆっくりしててくれるかな?」
「ああ」
俺たちはキッチンとつながっているリビングへ移動した。
「あれ? そういえば、アルカナは?」
サーシャが辺りを軽く見回す。
「工房の方だろう。あまりこちらが賑やかだと、父さんが寂しがるからな。納期の近い仕事があると言っていたのだが、放り出しかねぬ」
言いながら、俺は椅子に座る。
ミーシャがサーシャに顔をよせ、耳元で言った。
「できた?」
サーシャは少し顔を赤くしながらも、俯く。
「別に、どうしてもしたいってわけじゃなかったし……」
ミーシャがぱちぱちと二回瞬きをした。
「なにかあった?」
「ちょっと遅かったっていうか……間が悪かったわ。それだけ」
ミーシャはサーシャの頭にそっと手をおき、優しく撫でた。
「よしよし」
「特に気にしてないわ」
軽い調子でサーシャは言う。
強がっているようでもあった。
「ふむ。なんの話だ?」
「……べ、別に……その……なんでも」
言い淀み、彼女は視線を斜め下にそらす。
ミーシャが言った。
「サーシャがアノスを起こしたいって」
「あーっ、ああぁぁーっ、あぁぁーーっっ」
慌てふためき、サーシャはミーシャの口を手で塞ぐ。
「なっ、なんでもないわ……!」
「そうか」
真顔でサーシャに視線をやる。
「だから、違うのっ! ミーシャはたまにアノスを起こしてたじゃない。わたしは朝弱いから起こしたことないってなんとなく言ったら、ミーシャが今日起こすといいって勧めてくるから、そこまで言われたら断るのもなんだし、だから……」
早口でまくしたてるサーシャの顔を見ていると、彼女は言葉に詰まり、再び困ったように視線をそらした。
「だから、ただそれだけで……」
サーシャに口を塞がれたまま、ミーシャが瞬きをした。
「それで寝ずに朝を待っていたわけか」
「だっ、だから、半分はミーシャのせいだわっ」
ミーシャが不思議そうに小首をかしげる。
サーシャはそれを強引に元に戻し、手でこくりとうなずかせた。
ミーシャは不思議そうにまた瞬きをする。
「つ、次はあたしの番だからって、寝かせてもらえなかったし……だから、それだけだから……」
「ふむ。それで起こす前に俺が勝手に起きたため、落ち込んでいたわけか」
「……おっ、落ち込んでなんかないわ……そもそも、ミーシャに言われたからだし……わたしは、別にどっちでも……」
「なら、構わぬがな」
サーシャはミーシャの肩に額を寄せる。
「わかる!」
と、大きな声が響いた。
「わかる、父さんわかるなぁ。サーシャちゃんの気持ちも」
渋さに重点を置いた低音が放たれる。
「アノス、お前の気持ちもな」
振り向けば、いつになく優しげな表情をした父さんが歩いてきていた。
「いいねぇ、青春だな。でも、父さんから見たら、ちょっと二人は眩しすぎるかな。ははっ」
父さんの位置はちょうど逆光だ。
朝日を直視すれば、さぞ眩しいに違いない。
「あのな。これは父さんのいらないお節介かもしれないけどな。俺の経験から話しておくと、二人とも、もうちょっと素直になった方がいいかもしれないな。じゃないとほら、後悔することになるかもしれない」
「ふむ。素直でないように見えたか?」
父さんは理解ある眼差しで、うんうんとうなずきながら言う。
「アノスは魔王だからな。知らず知らずのうちに、自分でも制限しているところがあるんじゃないか? まあ、立場ってものはそういうもんだしな」
「ほう?」
「でも、本当のお前は、そうじゃないって父さんわかってるぞ」
ふむ。本当の俺の気持ち、か。
確かに、心は環境や境遇に左右されるものだろう。
未だ平和を満足に知らぬ俺の本当の気持ちが、父さんにはわかったということか。
「そりゃ、世界を救った暴虐の魔王に比べりゃ、父さんなんて大したことないけどな。それでも、父さんはお前の父さんだからな。長い間、ずっとお前を見てきた。お前の気持ちぐらいは理解してるつもりだ」
妙に達観した表情で父さんは言う。
それがあのときの――二千年前の父に、ダブッて見えた。
「まず一つ。サーシャちゃんが可哀相だから、そのうち叶えてやろうってアノスならそう思うんじゃないか?」
すると、サーシャが問いかけるように視線を向けてくる。
笑みを返して、俺は言った。
「さて、どうだろうな?」
「そんでもって、そうしたら、今度はミーシャちゃんが寝ずに待ってて可哀相だってアノスは思う」
父さんが気取った表情で、俺を撃ち抜くように指さす。
ミーシャが不思議そうに小首をかしげた。
「なぜミーシャの話になった?」
「わかってる。父さん、わかってるぞ」
父さんは俺の耳元に顔をよせ、内緒話のように言った。
「英雄、色を好む」
父さんがウインクをする。
「父さん、もういいと思うぞ。そりゃ世間体とか、色々ある。父さんだって色々考えたよ。でも、結局、お前の幸せが一番大事なんだ。父さんは味方だ。いつでもお前のな。だから、もう細かいことは言いっこなしだ。今度はどっちか待たせるなんて言わず、夜の暴虐の魔王になって、二人とも救って、な」
どんっと背中を叩かれ、包容力に溢れた顔が近づく。
「お前の、本当の気持ちを大事にな」
父よ。仕事せよ。
暴走する父さんの理解――
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