矛盾
緩やかに歯車の回る音が聞こえる。
エクエスに神々しい魔力が集ったかと思えば、奴は何事もなかったかのように、ムクリと身を起こした。
「――汝はなにも知らない」
奴がその手に持っているのは、ボロボロの木片だ。
そこに魔法陣が描かれれば、再び古びた木の車輪が再生された。
「ほう」
「世界の秩序を乱す意味を。秩序を失った世界が辿る末路を。この歯車が、どれだけ精密で、どれほど大きく、どこまで広大な存在であるかを、矮小な汝は、ついには知ることさえできない」
ぎちり、ぎちり、とエクエスの歯車が回転し、胸部が開く。
奴は古びた木の車輪をそこへ戻し、結合させた。
「世界は適合者を求めている。汝はその枠から、外れたのだ。世界の異物よ。ゆえに歯車に潰され、砕け散るがこの世の秩序だ。ちっぽけなその存在では、計り知ることすらできないものがあると知れ」
がち、がち、と音が響き、木の車輪と奴の全身の歯車が噛み合っていく。
「お前を滅ぼす前に、一つ訊いておく」
指先で軽く円を描き、黒き粒子にて七重螺旋を描く。
「奪った火露をどこへやった?」
エクエスはただ魔眼を光らせ、全身の歯車を噛み合わせていくばかりだ。
「ミリティアの世界だけでも七億年、彼女の母エレネシアの世界、その母の世界、その更に母の世界、創造神の祖は代々、この世界を創り直してきた。その度に、火露をお前に奪われながら。神界の底に貯蔵されていた火露の量では、到底勘定が合わぬ」
「愚かなる世界の異物よ。汝は火露を取り戻せば、失った命が戻るとでも思っているのか?」
「さてな。だが、我が配下の先祖が、平和を願いながら、つないできたものだ。お前が手をつけていいものではない。すべて取り戻し、この母なる世界に返す」
ぎちぎちと歯車が嘲笑するように回転した。
「言ったはずだ。私が、世界だと」
エクエスが大きく腕を広げる。
「回れ。回れ、絶望よ――」
神体すべての歯車が勢いよく回転し、夥しい火花が散った。
奴の胸に連結された車輪がゆるりと回り始める。
「回れ」
古びた車輪が放つ神々しくも銅色の光が、エクエスの全身に伝わっていく。
ゴ、ゴゴ、ゴゴゴゴゴ、とミーシャの創り出した<魔王庭園>が揺れていた。
奴の背後に光がたちこめ、そこに現れたのは、銅の歯車だ。
褐色に輝きを放ちながら、それは次々と無数に現れ、高い空を覆いつくすほど広がった。
銅の歯車は互いに噛み合っていき、球体を構築する。
まるでそれは、歯車の太陽だった。
「見るがいい、世界の異物よ」
エクエスが言う。
「これこそが、世界が奪った火露のなれの果て。始まりの世界より今日の世界まで、歯車に飲み込まれていった人々の今の姿だ」
大きく両手を掲げ、エクエスはノイズ交じりの声を発した。
「<運命の歯車>ベルテクスフェンブレム」
その無数の歯車がぎちぎちと回転すれば、エクエスの魔力が跳ね上がり、破壊された腕と頭、焼け焦げた神体があっという間に再生された。
噴出される神々しい光が、それだけで<魔王庭園>の地表を削り、氷の木々や山脈を震わせている。
「今、大いなる運命の歯車が回り、汝は絶望の車輪に轢き裂かれる」
「試してみよ」
エクエスの視線と俺の視線が衝突し、しんとその場に静寂が訪れた。
「<極獄界滅灰燼魔砲>」
魔法陣の砲塔を構築し、終末の火を放つ。
エクエスはそれに腕を向け、歯車の魔法陣を描いた。
魔法陣内部にある無数の歯車が回転し、出現したのは銅の車輪。連結されたそれが、勢いよく回る。
「<神世歯車支配車輪>」
褐色に輝く車輪がみるみる巨大に膨れあがり、魔力の渦を巻きながらも凄まじい速さで回転する。
それは終末の火に向かって勢いよく射出された。
左右から直線を描くが如く、車輪と火が衝突する。
世界の一切が炎上し、無数の亀裂が走った。
三面世界でなければ、数度滅んでお釣りが来ている頃だろう。
<極獄界滅灰燼魔砲>は神の車輪を灰燼と化し、<神世歯車支配車輪>は終末の火を轢き裂く。
「――汝だけと思っていたか?」
滅びの魔法同士の激しい衝突音が響く中、エクエスがノイズ交じりの声を発す。
「世界の意思に立ち向かったのが、自分だけと思っていたか? エレネシアの世界にも、その前の世界にも、その遙か前の世界にも、不適合者は存在したのだ。汝のような矮小な異物など、これまで数えきれぬほど<運命の歯車>に飲み込んできた。かつて不適合者と呼ばれた彼らは今や、例外なく秩序に――この歯車になった」
自らの歯車を回転させ、エクエスは神々しい魔力を纏う。
銅色と漆黒が火花を散らし、三面世界を神々しさと禍々しさで染め上げた。
「魔力を抑えなければ世界が滅びる。それは、私も同じだ」
エクエスは<極獄界滅灰燼魔砲>を完全に相殺してのけると、俺を見下すようにそう言った。
「くはは」
エクエスが歯車の神眼を驚愕に染める。
すでに二発目の<極獄界滅灰燼魔砲>が奴に迫っていた。
「でなければ興醒めだ」
ゴオオオオオオオオオオォォォッと黒き終末の火に、奴の神体が包まれる。
「そら、せっかく滅びぬ遊び場だ」
指先を弾き、ゆるりと魔法陣を描く。
<極獄界滅灰燼魔砲>の砲塔が七つだ。
「もっと派手に遊べ」
終末の火が連射され、次々とエクエスの神体へ向かって放たれた。
猛然と襲いかかる七つの滅びを神眼にし、次の瞬間、奴はその場から姿を消した。
「世界によって、秩序を定められた。かつて不適合者だった者の歯車により、滅びるがいい」
ノイズ交じりの声が響く。
「時間の歯車は回り始める。過去と未来が交わることのないように、過去に置き去りにされた汝は、未来の私には永久に追いつけない」
時間をすっ飛ばしたかのような速度で、<極獄界滅灰燼魔砲>を避け、俺の背後に回り込んだエクエスは、右腕を振り上げていた。
その手の歯車が高速で回転し、俺の顔面を轢き潰さんとばかりに突き出された。
左手でそれをわしづかみにし、俺は無造作に受け止めた。
歯車が手の中で回転するが、それをぐっと押さえつけ、停止させる。
「……ギッ……!?」
「お前の未来が、俺の過去に届くと思ったか?」
<運命の歯車>ベルテクスフェンブレムが回転し、再び奴の魔力が上昇する。
歯車が一つ回る毎に、奴の膂力が増し、拳を受け止めている俺の手を押し返す。
「上限の歯車は回り始める。限界は歯車により引き上げられ、汝と私は、力の次元にて隔てられる」
秩序の上限を超えたような力で、エクエスは俺を圧し潰そうとする。
かつての世界で、秩序を超えた膂力を発揮した不適合者がいたのだろう。
それすら屠り、秩序の歯車に変えてきたということを奴は誇示したいのだ。
だが、この左手は微動だにしなかった。
「どうした? 世界の上限を超えてその程度の力か?」
「汝は、上限の歯車に轢き裂かれる――」
勢いよくエクエスの車輪が回り、<運命の歯車>が奴に力を与える。
思いきり飛び退いた奴は、足の歯車と大地をぐっと噛み合わせた。
弾き出されたように、歯車で地表を削りながら奴は猛突進を仕掛けてきた。
「――それは、世界の重さに圧し潰されるが如く」
奴の体の重さがみるみる増す。
その小さな体に世界の重さを乗せて、奴は俺に突っ込んでくる。
「お前の世界は軽い」
全膂力を込めた奴の突撃を、俺は小指一本で止めていた。
「命の重さの伴わぬ、がらんどうの世界だ」
ズガンッと俺の小指がエクエスの右手を貫く。
「いつまで遊んでいる? 真面目に歯車を回せ」
そのまま、ぐしゃりと手を握り潰し、その腕を引き千切った。
「……ギッ……ギィィィッ……!」
「ずいぶんと錆びた音が響く」
<根源死殺>の指先で顔面を貫き、両手で胸の歯車をぶち破っては、中にあった大きめの歯車をぐっとつかむ。
それが上限の歯車に連動している。
「上手く回せぬのなら、俺が回してやる」
ぐんっと勢いよくその歯車を回転させれば、エクエスの全身の歯車が一気に回転する。
俺につかみかかってきた奴の左手の力が、限界を更に突き破った。
手と手を組み合わせながら、奴を押し返していく。
「くはは。なかなか力強くなったな。そら、まだ回るだろう。もっと回せ」
更に膂力を与えるべく、俺はエクエスの歯車をぐんと回す。
無理矢理、限界以上の速度を与えられた歯車という歯車が、ミシミシと軋んでは、歯が砕け、亀裂が入った。
「不滅の歯車は回り始める。不滅の秩序に満たされた神体に滅びはなく、私は死と隔てられる」
<運命の歯車>がエクエスに力を与え、今にも崩壊しそうだった歯車が原型を留めた。
「さて、世界の秩序には、矛盾があるやもしれぬぞ?」
奴の喉をつかみ上げ、俺は問う。
「世界に矛盾など存在しない。すべては秩序の歯車通りに回っている」
「そうは思えぬ」
エクエスの周囲を取り囲むように、一〇〇門の魔法陣を描く。
「<獄炎殲滅砲>」
エクエスの喉を指先で突き破ると同時に、漆黒の太陽を集中砲火した。
穴の空いた神体から、炎が入り込み、奴の根源を焼いていく。
「<魔黒雷帝>」
漆黒の稲妻が走り、エクエスを撃ち抜く。
その根源に電流が走った。
「<焦死焼滅燦火焚炎>」
輝く黒炎の手にて、エクエスの根源を貫いた。
「<四界牆壁>」
黒きオーロラが球体となり、歯車の集合神を包み込む。
「<極獄界滅灰燼魔砲>」
その根源の中心に終末の火を叩き込まれ、エクエスが滅びに飲み込まれる。
内側からその身を引き裂かんとするように<極獄界滅灰燼魔砲>は暴れ狂い、耐えきれなかった奴が弾け飛んだ。
ゴロゴロと氷の大地を転がっていく奴の神体は、滅びの火に焼かれ、黒き灰へと変わっていく。
<運命の歯車>ベルテクスフェンブレムが、ぎちりと回転すれば、エクエスの滅びは止まった。
奴は瞬く間に、その歯車を再生させる。
ムクリと起き上がった奴は、余裕ぶった仕草で両腕を広げた。
「全力を出しても、私を仕留めきることはできなかったな、世界の異物よ。これで汝に、私を滅ぼす手段がないことは明らかになった」
「ほう。歯車だけあって、地べたを転がり回るのも秩序の範疇だったか。なかなかどうして、さすがに読めぬ」
ぎちり、ぎちり、と歯車が回った。
苛立っているのか、その顔がカタカタと震えている。
「図に乗るな、矮小な異物め。汝の力は、所詮この三面世界の恩恵を受けた紛い物にすぎない。本当の世界では、汝は全力を出すことすらかなわぬ」
「くはは。なにかと思えば泣き言か。ここでは敵わぬから出してくれと言いたいのなら、素直にそう言うことだ。そこに頭をつけば、聞いてやらぬこともない」
「優位に立っているつもりか? 汝の力は周りの環境に左右され、揺れ動く。秩序に支配されているということだ。そして、その秩序を支配しているのが、私だ」
エクエスの全身に魔力が集う。
「この三面世界<魔王庭園>から、汝に力を与えている秩序を奪う」
歯車仕掛けの集合神は、銅色の輝きに満ちていく。
「見るがいい、世界の異物よ。<運命の歯車>はとうに回り始めている。誰も彼も、この定めからは逃れられない。ベルテクスフェンブレムは、汝に一つの運命を強制する」
<運命の歯車>が、褐色の光を撒き散らす。
「敗北だ」
三面世界のあらゆる場所に銅の歯車が埋め込まれる。
空や地表、氷の街や、森、山々の至るところで、その<運命の歯車>が回り始めた。
「汝が身動きひとつすれば、三面世界<魔王庭園>は創世の秩序ごと脆く砕け散る。それこそが、ベルテクスフェンブレムがたった今定めた、決して逃れられず、決して覆すことのできない運命だ」
異質な秩序が、俺を包み込んでいる。
不気味な音を立てながら、<運命の歯車>が回っていた。
大きくエクエスは両手を掲げた。
「<世界のために運命は回る>」
ぎち、ぎち、ぎち、と銅の歯車が音を立てる。
ミーシャが創り出した三面世界の秩序を、それは無理矢理に歪めようとしていた。
「<運命の歯車>に圧し潰されよ、世界の異物よ」
歯車の魔法陣が描かれ、連結した銅の車輪が回転する。
激しく地表を砕きながら、それはみるみる巨大に膨れあがっていく。
「<神世歯車支配車輪>」
不気味な音を立てながら、氷の大地を砕き、銅の車輪がゆっくりと迫りくる。
回転する毎に巻き上がる褐色の火花が、三面世界を鮮やかに染め上げていく。
神の車輪が、この身を轢き裂かんとばかりに食い込もうとし、俺をそれを両手でわしづかみにしていた。
「――さあ、<運命の歯車>に従い、滅びのときだ。創造神の創りし、仮初めの世界よ」
エクエスが勝利を確信したかのように言った。
俺はそのまま<神世歯車支配車輪>を叩き落とし、思いきり踏み潰した。
大地を揺るがすほどの激しい音が響く。
<魔王庭園>は――滅びていない。
「……な…………」
一歩、俺はエクエスへ向かって足を踏み出す。
「………………な…………ぜ…………………………?」
呆然とエクエスは呟く。
「……なぜ……歩いている……? <世界のために運命は回る>の只中を……」
「この<魔王庭園>でならば、この魔眼を多少開けるのでな」
言いながら、まっすぐ奴へ歩いていく。
俺の左眼は、滅紫に染まっており、その深淵に闇十字が浮かんでいた。
<混滅の魔眼>である。
それが、<世界のために運命は回る>の秩序を滅ぼしていた。
「我が眼前では、すべてが滅ぶ。秩序も、理も、貴様もだ、エクエス」
「……そんな秩序は存在しない……」
歯車の魔眼を驚愕に染め、奴は混乱したように言葉をこぼす。
「……いかなる魔眼を使おうと、運命は定められた。汝がなにをする前に、<世界のために運命は回る>が発動し、<魔王庭園>は滅び去る……」
「その<世界のために運命は回る>の理を滅ぼしたと言っている」
「……滅ぼせるはずがない。遅い早いではなく、運命は先に決まっているのだ。たとえ創世より前の過去に遡って力を発揮しようと、<運命の歯車>はそれより先に<魔王庭園>を滅ぼす……」
「くはは。秩序を盲信するあまり、目の前で起きていることが信じられぬか? その穴の空いた歯車の神眼で、もっとよく深淵を覗け」
俺はピタリと足を止める。
「運命を定めたお前と、理を滅ぼした俺。二つの力は矛盾した。ゆえに俺が勝ったのだ」
軽く足を上げ、大地を踏みしめる。
その瞬間、地表に埋め込まれていた銅の歯車が皆一斉に砕け散った。
「矛盾とは混沌、すなわち俺の懐だ」
<混滅の魔眼>と滅ぼすべき理が矛盾したならば、俺が一方的に勝つ。
単純な話だ。
事象を一つに定めなければならない理に対して、それが起きなければよい<混滅の魔眼>の方が遙かに有利である。
その上矛盾は、<混滅の魔眼>の力に変わる。
再び俺が一歩を刻むと、時間の歯車を回転させ、エクエスが目の前に現れた。
「<神世歯車支配――」
エクエスは至近距離で滅びの魔法を叩き込もうとしたが、しかし、俺の<根源死殺>の指先が、先に奴の土手っ腹をぶち抜いた。
「……グ、ギ、ギィッ……!!」
「矛盾も飲めぬ杓子定規な歯車が、俺の運命を勝手に定められると思ったか」
秩序を飲み込む、魔王の混沌――