三面世界
神界の底に建ち並ぶ無数の神殿が炎上していた。
空は真っ黒に燃え、地は暗澹と焼ける。
終末の火が、ありとあらゆるものを黒き灰へと変えていく。
神界の底が滅尽すれば、たちまち滅びは樹理廻庭園へ波及し、それは世界のすべてを灰燼に帰すだろう。
だが――
神界の底は、黒き灰に包まれながらも、崩れ去ることはない。
平常ならば、とっくに灰に変わっているはずのその場所が、見事に原型を残していた。
<極獄界滅灰燼魔砲>の威力は、その大半が先の衝突で相殺されたのだ。
「この――」
上空に浮かぶサーシャが、神界の底を一望する。
「――いい加減に、消えなさいっ!」
<終滅の神眼>が、空と大地、あらゆる滅びを見据え、それを終滅させていく。
みるみるうちに、終末の火は消えた。
割れた空と、亀裂の入った大地に、レイは<想司総愛>の剣を向ける。
純白の粒子が、次々と神界の傷口に入っていき、失われた魔力を補う。
ミーシャは雪月花を舞い散らせながら、ゆっくりと三角錐の神殿へと降りていく。
彼女が描く軌跡から、キラキラと氷の光が放たれ、黒き灰が空や大地、神殿に創り直されていった。
「もう……」
精根尽き果てた様子で、サーシャが肩を落とす。
彼女はそのまま、ゆっくりと下降を始めた。
「どうして、味方の流れ弾の方が、世界を滅ぼそうとした<終滅の日蝕>を止めるより大変なのよ……」
サーシャと同じく、静かに下降しているレイが苦笑した。
「普通に死ぬかと思ったよね」
「もう二度とやらないわ……」
同意を示すように、レイがうなずく。
「結局、エクエスは、絶対に手を出してはならない相手に手を出してしまったってことなんだろうね」
殆ど元通りに戻った神界の底を、彼は見渡した。
「たとえ、あの歯車が本当に世界の意思だとしても、世界を滅ぼす魔王の前にはただの人と同じだ」
言いながら、レイは視線を巡らせている。
「どうしたの?」
サーシャが不思議そうに訊いた。
「これで終わりじゃないよ。エクエスは、数多の神の集合体。滅びれば、秩序が保てなくなり、世界が崩壊する。だから、アノスは<極獄界滅灰燼魔砲>を手加減したんだ」
「……秩序が保てなくなるっていうか……」
そもそも手加減しなかったら相殺できなかったとサーシャは言いたげだ。
「……まあ、いいけど。じゃ、あれを食らって、あいつまだ生きてるってこと?」
目を丸くするサーシャに、レイは微笑む。
「そうじゃなきゃ困るよ。君はどういうつもりでエクエスに黒陽を叩き込んだんだい?」
気まずそうに、彼女は俯く。
「……ぶ……ぶち壊してやろうと思って……」
レイが笑顔のまま、固まった。
なんとも言えぬ視線がサーシャに突き刺さる。
「そっ、そういうのは、アノスがなんとかすると思ってたわ。いつもそうだもの……!」
サーシャの弁解に、レイは苦笑した。
「まあ、あってるけどね。あとは、どう世界を滅ぼさずに、エクエスを滅ぼすか。その方法を見つけるだけだけど、たぶんアノスに考えが――」
ザザッと微かなノイズが、空に響き渡る。
「――言ったはずだ」
その声に、レイが振り向く。
「世界を守ろうとする限り、世界を滅ぼすことはできない。汝らの戦いは、最初から秩序に矛盾している」
地面から放たれた無数の<断裂欠損歯車>が、レイとサーシャに迫っていた。
すぐさま、二人は左右に分かれ、それをかわす。
大地に積もった黒き灰の中から、エクエスが現れ、空へ飛ぶ。
ぎちぎちと歯車を回転させた奴の速度は極まり、一瞬にしてレイの目の前に立ちはだかる。
真白の聖剣が振り下ろされるより速く、至近距離から放たれた<断裂欠損歯車>が、レイの全身をズタズタに斬り裂いていく。
「……嘘……でしょ……?」
<終滅の神眼>でエクエスを睨みつけながら、サーシャは呟く。
「あれを食らって、焼け焦げた程度なんて、冗談じゃないわっ……!」
黒陽が、エクエスを灼く。
だが、その体の歯車が勢いよく回転すれば、終滅の視線は瞬く間に轢き裂かれた。
「世界が原型を残すということは、私が原型を残すということ。どんなやり方であれ、この世界が滅びないのならば、私もまた滅びることはない」
放たれた無数の<断裂欠損歯車>をサーシャは<飛行>にて方向転換を繰り返しながら避けていくが、その隙に彼女はエクエスの接近を許していた。
「この――」
「それが、秩序だ」
歯車の指先が、サーシャの胸を貫いた。
「……くっ……ぁ……!」
神体から血がどっと溢れ出し、彼女は苦痛に顔を歪める。
それでも、その神眼はキッとエクエスを睨みつけ、奴の体を灼いていた。
「今度はもっと強力な歯車を埋め込んでやろう」
彼女の左胸に、魔法陣の歯車が三重に描かれる。
それは、彼女の心と心臓を轢き裂くように、ぎちぎちと回転を始めた。
「……あ、あ、ああぁぁぁぁぁっ!!」
サーシャの口から悲鳴が上がる。
埋め込まれていく三つの歯車に、更に莫大な魔力が込められた。
「再び世界の歯車と化すのだ。破壊神アベルニユー」
「ふむ。俺から神眼を離すとは、増長がすぎるな」
歯車仕掛けの奴の頭を、七つ重ねの<焦死焼滅燦火焚炎>にてわしづかみにし、サーシャから引き剥がす。
「握り潰してやる」
ミシミシとその歯車の頭が軋む音が聞こえる。
同時に俺は、<滅紫の魔眼>にて、サーシャの心臓に埋め込まれた歯車を睨む。
魔眼に見えぬ秩序の歯車とは違い、強力な分姿は隠蔽できていない。
これならば、いくらでも滅ぼせよう。
「二千年かけ、平和を築いたつもりか、世界の異物よ」
エクエスの指先が俺の腹部を貫き、回転する歯車が根源をぐりぐりと抉る。
「それは歯車が回った結果にすぎない。汝一人だけならば、この世界の意思とまともに戦うこともできただろう。だが、汝は守るべき平和を手にしてしまった。幸運か? 汝の力か? 違う。万が一にも、危険な存在である不適合者が、世界を滅ぼしても構わないと思わないように、秩序の歯車がそうしたのだ」
<飛行>にて、エクエスは俺を地表へ押していく。
奴の頭からは手を離さず、指に力を込め、ぐっと締めつけた。
そうしながらも、俺はサーシャを睨み続ける。
埋め込まれた歯車を、止めてやらねばならぬ。
「世界の異物よ。汝はその手に平和を抱えている。脆く崩れやすく、儚いガラス細工のような夢を。私を滅ぼそうと拳を握れば、それはたちまち手の中で砕け散る」
エクエスは夥しいほどの魔力を放出し、更に俺を地表へと押しやる。
神々しい光が、空に尾を引いていた。
大地に見えたのは、歯車の魔法陣が九つと、古びた木の車輪。
深淵を覗けば、それは魔法線でエクエスの歯車と連結していた。
車輪は激しく回転し、落下する俺の体へ向けられている。
放出される魔力が、その小さな木の車輪を、何十倍にも大きくしていた。
「世界が与えた仮初めの平和を抱え、滅びるのだ」
<古木斬轢車輪>が俺の背へ向け、勢いよく射出された。
エクエスと至近距離で対峙したままのこの体勢では、迎撃は困難だ。
それに加え、俺とエクエス、車輪を結ぶ直線上にはサーシャがいる。
彼女はまだ動けぬ。
避ければ、車輪がサーシャの体を轢き裂くだろう。
エクエスは刹那の判断を迫る。
俺は迷いなく決断した。
サーシャに埋め込まれた歯車を、<滅紫の魔眼>にて睨み滅ぼす。
瞬間、<古木斬轢車輪>が俺の背中を轢き裂き、ぎちぎちと回転しては、肉を破り、骨を断ち、根源を削り始めた。
更にエクエスが俺の体をぐっとつかみ、<古木斬轢車輪>に押しつける。
魔力の粒子が飛び散り、魔王の血がどっと溢れ出す。
俺の体内にて、滅びの根源が暴走を始め、押さえている力が世界に漏れ出した。
ぐっと歯を食いしばり、それを全力で体の内側に留める。
「どうした、世界の異物よ。力を解放すれば、<古木斬轢車輪>は簡単に吹き飛ばせるはずだ」
「……世界ごと、な」
ぎちぎちと俺を嘲笑うように、エクエスの歯車が回転する。
「決して守れぬと知りながらも、守り続けるがいい。世界と仲間とこの平和を。世界の異物よ、汝は選択を誤った。この場所へは、一人で来るべきだったのだ。そう、平和を手にすることなく」
高速で回転する車輪は、俺の根源深くに食い込み、それを削っては、漆黒の火花を撒き散らす。
今にも滅びの力が溢れ出し、世界に深い傷痕を残そうとしていた。
そのダメージを自らの体と根源で肩代わりし、ますます俺は傷を負う。
押さえきれなかった禍々しい血が一滴地面に、ぽとりとこぼれ落ちた。
瞬間、大地が腐り落ち、黒き灰に変わった。
「回れ、回れ」
エクエスの声とともに、更に激しく<古木斬轢車輪>は回転する。
「世界よ。回れ――」
「おあいにくさま」
胸に埋め込まれた歯車を、どうにか右手で引き抜いたサーシャが、上空にて<終滅の神眼>を光らせていた。
彼女にはミーシャからの<思念通信>が届いている。
「世界も、平和も、わたしたちが守るわ。あなたはアノスに滅ぼされる」
サーシャの<終滅の神眼>が、視線上のすべてを薙ぎ払う。
「わたしの魔王さまの本気を、見せてあげるんだからっ!!」
黒陽が煌めき、灼き滅ぼされたのは三角錐の神殿だ。
あらわになったその場所にはミーシャと、それから<終滅の日蝕>が浮かんでいた。
日輪を取り囲むが如く、雪月花で魔法陣が描かれている。
「サーシャの言う通り」
ミーシャが<終滅の日蝕>に手を伸ばす。
「創るから、アノス」
深き闇の日輪が反転して、それが赤銀の光に変わる。
ぱち、ぱち、と瞬きを二度。
ミーシャの月の瞳が、同じく赤銀に変わった。
「あなたが全力で遊び回れる、壊れない世界を」
サージエルドナーヴェの皆既日蝕が、アーティエルトノアの皆既月蝕へと変わった。
赤銀に輝く創世の光が、俺とエクエスを目映く照らす。
「<優しい世界はここから始まる>」
瞬間、俺とエクエスを取り巻く世界が変わった。
天はどこまでも高く、空には<創造の月>アーティエルトノアと<破滅の太陽>サージエルドナーヴェが寄り添うように浮かんでいる。
地はどこまでも広がり、白銀の氷が、森や草原、山や街を構築していた。
俺とエクエス以外には、誰もいない。
ここは、創造神ミリティアが創り出した彼女の神域――
「三面世界<魔王庭園>」
完全に<魔王庭園>が具現化するや否や、俺の根源に食い込んでいた<古木斬轢車輪>がボロボロと崩れ落ち、黒き灰へと変わった。
滅びの根源から溢れ出した漆黒の粒子が、俺の体を中心に七重の螺旋を描く。
「……ぐ、ぎっ……!?」
エクエスが俺の腹部に突き刺さしていた腕をへし折り、その頭蓋に指を食い込ませた。
頭の歯車を破壊されながら、奴は大きく後退する。
それより速く、俺の掌がその顔面に打ち抜いていた。
ズゴゴォォォォンッと奴は氷の木々を薙ぎ倒し、地表にめり込んだ。
軽く手を振れば、魔法陣の砲塔が現れ、七重の螺旋がそこに集う。
<極獄界滅灰燼魔砲>。
終末の火が、エクエスの体に着弾し、世界の一切が黒く炎上する。
刹那、神域が黒き灰燼と化したかのような感覚を覚えたが、天も地も灰に変わってはいない。
眼前には氷の大地が広がっている。
創造神ミリティアの権能と破壊神アベルニユーの権能を合わせて創られた三面世界。
その<魔王庭園>では、<破滅の太陽>が滅びを滅ぼす光を放つ。
致命的な威力の攻撃が神域に与えられれば、その瞬間、サージエルドナーヴェの力にて相殺しているのだ。
たとえ神域が深い損傷を負おうとも、たちまち<創造の月>が世界を創り直す。
なによりこの世界は、三重に重なっている。
サージエルドナーヴェの相殺とアーティエルトノアの再生を超えた力にて一つ目の世界が滅びようと、重なっていた二つ目の世界が姿を現すのみだ。
そして、その瞬間に滅びた一つ目の世界は創り直される。
俺の滅びが止められぬのなら、止めずに新しく創世すればよい、といったところか。
何百何千もの世界を滅ぼす力を解き放とうと、延々と世界は創造され続ける。
ミーシャが俺のために創った、まさしく魔王の庭だ。
「ふむ。なかなかどうして、よい世界だ」
ゆるりと俺は大地に足をつき、指を鳴らした。
根源からこぼれ落ちた魔力が、俺の体に禍々しい螺旋を描く。
「……ぎ……ぎ…………」
倒れたエクエスが、その歯車の神眼をこちらへ向ける。
「いつまで寝ている? さっさと絶望の歯車とやらを回せ。その錆びついた頭蓋に、今から優しく刻みつけてやる」
ゆるりと前へ歩を進ませながら、俺は告げる。
「真の絶望を」
魔王と姉妹の三面世界――