絶望の壁
呪泥が塗られた神剣ロードユイエに全身を蝕まれ、ディルフレッドは膝を折った。
糸が切れた人形の如く、彼はその場に崩れ落ちる。
「最後は、慈愛の火で屠ってやろうではないか」
エールドメードの瞳が赤く輝き、崩れ落ちた深化神が燃えた。
淡い白銀の炎は、一分で根源を滅ぼす呪い。
もはや、ディルフレッドに、天父神の呪いから逃れる力は残っていない。
「ああ、そうだ、忘れていたが、冥王。詛王の<死死怨恨詛殺呪泥城>を解呪してやらねば、いい加減滅びる頃ではないか?」
「とうに始めている」
冥王は重低音の声を響かせる。
見れば、四つの<血界門>を四方に構築し、すでに<血地葬送>にて、呪泥を飲み込ませていた。
血の池に沈むのは泥のみであり、まるで濾過されるように、ジェル状の破片が地表に残った。
エールドメードが杖を向ければ、ジェル状の破片は、うねうねとひとりでに動き、一箇所に集まっていく。
彼はシルクハットからハンカチを取りだす。
それを一度振れば倍の大きさに、再び振れば更に倍になった。
十分な大きさのハンカチにて、集まったジェル状の破片が覆われる。「種も仕掛けもありはしない」との声とともに、ハンカチがばっと取り除かれれば、そこには元の体に戻った緋碑王ギリシリスがいた。
「汝の手品につき合わされる身になって欲しいものだねぇ」
「さっさとやりたまえ。さすがのマゾヒストも、本当に昇天してしまうではないか」
命令に逆らえないギリシリスは、秩序魔法<輝光閃弾>にて、周囲に魔法文字を刻んでいく。
時間がかかる上に、壊れやすい魔法術式だが、戦闘中でもなければ成立させるのは容易い。
「<魔支配隷属服従>」
<死死怨恨詛殺呪泥城>に対して、それを隷属させる<魔支配隷属服従>を使う。
支配したところで、そもそも術者自体が呪いを止められぬのが厄介なところだが、呪泥の動きを制限することはできる。
「ぬんっ!」
イージェスが魔槍を突きだす。
穂先は次元を越え、泥の奥にいるカイヒラムを貫いた。
「はっ!」
彼が思いきり槍を引けば、呪泥からカイヒラムの遺体が飛んできた。
「<蘇生>」
蘇生を行い、呪いの発動条件を止める。
熾死王、冥王、緋碑王は、同時に同じ魔法陣をカイヒラムに描く。
「「「<封呪縛解復>」」」
魔力を注ぎ込み、呪いを解いていく。
四邪王族三名の解呪魔法を用いて、ようやく<死死怨恨詛殺呪泥城>は収まり、呪泥が少しずつカイヒラムの体の中へ戻り始めた。
「天父神の秩序に従い、熾死王エールドメードが命ずる。産まれたまえ、一〇の秩序、理を守護せし番神よ」
シルクハットを放り投げれば、それが一〇個に増え、紙吹雪とリボンがキラキラと大量に降り注ぐ。
出現したのは、二本の杖を持った、長い髪の幼女だ。
再生の番神ヌテラ・ド・ヒアナである。
番神の一体は、エールドメードたち四人に杖を向け、治癒の光を浴びせた。
残りは、瀕死の状態の生徒や教員たちを運び、その秩序によって再生させていく。
ふいに、熾死王の魔眼の端に黒い粒子がよぎる。
地面に落ちていた<知識の杖>が、ドクロの顎をカタカタと鳴らした。
『きな臭いではないか、きな臭いではないか』
エールドメードとイージェスは同時にそこを振り向いた。
崩れ落ちた本棟部分。そこから、黒き粒子が無数に立ち上っている。
今まさに、発動しようとしている魔法は<四界牆壁>である。
「カカカ、どういうことだ、冥王?」
エールドメードは杖を向け、治療中の生徒や教員を指す。
次の瞬間彼女たちは煙に包まれ、熾死王の後ろに移動した。
「わかれば、とうに動いているというものよ」
深化神の神体は、灰さえ残らず、すでにそこから消えている。
「奇怪、奇天烈、不可解千万。深化神はあの通り、慈愛の火に焼かれ、滅んだが――」
はたと気がついたように、エールドメードは唇を吊り上げた。
「な・る・ほ・どぉ。終焉は深化に克す」
「然り」
深化神の声が響いたかと思えば、積み重ねられた瓦礫が吹き飛んだ。
立ち上った漆黒のオーロラとともに、そこに姿を現したのは深化神ディルフレッド。
その神体には、白き火の粉がまとわりついている。
根源の深淵に宿っているのは終焉神の魔力。
つまり、ニギットたちと同じだ。
「いやいや。神族を滅ぼしても、骸傀儡にはならないと思っていたが、オマエは別のようだな」
終焉は深化に克す。
樹理廻庭園の秩序通り、深化神であるディルフレッドには、終焉神の権能が強く作用する。
それゆえ、滅びに近づいたことで骸傀儡と化したのだ。
「二千年前、平和をもたらした壁は、絶望へと変わる」
ディルフレッドが魔法陣を描き、深淵草棘が現れる。
その神の棘を奴は己の神体へ向け、根源を貫いた。
「<四界牆壁>」
黒きオーロラが広がり始める。
――解呪を止めろ――
――止めろ止めろ止めろ――
――止めろ!――
カイヒラムの呪詛が響き、三人は<封呪縛解復>の術式を破棄した。
瞬間、<四界牆壁>を押さえるように、残ったカイヒラムの呪泥が広がり、上から覆い被さった。
「させん!」
イージェスが槍を構えれば、呪泥を飲み込むために構築してあった四つの<血界門>が閉ざされる。その魔槍は、黒きオーロラへと照準を定めた。
「紅血魔槍、秘奥が漆――」
イージェスの体から流れ落ちる血が、その場に池を作り出す。
「――<血地葬送>!!」
一気に膨れあがろうとしたそのオーロラが、血の池に飲み込まれていく。
「<魔支配隷属服従>!」
緋碑王が、<輝光閃弾>にて<四界牆壁>を隷属させるための魔法文字を描いていく。
だが、深化神が神の棘を放てば、<輝光閃弾>が瞬く間に瓦解し、魔法文字はすべて消えた。
構わず、ギリシリスは<輝光閃弾>にて魔法文字を描き続ける。
少なくともそうすることで、深化神の手を塞ぐことができた。
しかし、イージェスの<血地葬送>、カイヒラムの呪泥で押さえつけてなお、黒きオーロラはその外側へと溢れ出す。
「慈愛の火に裁かれたまえ」
熾死王は魔眼を赤く染め、漏れ出る黒きオーロラを呪い、燃やし尽くしていく。
「世界を四つに分けた滅びの牆壁。勇者カノン、大精霊レノ、創造神ミリティア。そしてエヴァンスマナとデルゾゲードの魔力を行使し、なお暴虐の魔王はこれを発動するために、命を捨て転生する必要があった」
四邪王族と鬩ぎ合いながらも、ディルフレッドは言う。
「すなわち、灯滅せんとして光を増し、その光をもちて灯滅を克す。深化の秩序を有するがゆえに、届かなかったその領域に、骸傀儡となった今は到達できるのだ」
ディルフレッドの神体が、目映い光に包まれていた。
自ら貫いた根源がみるみる滅びに近づき、膨大な魔力を発しているのだ。
深化と終焉の重なり合った場所こそ、火露が奪われる深淵の底。
終焉に手の届かぬ深化神であったがゆえに、見ることのできなかったその場所が、今確かに<深奥の神眼>に映っているのだろう。
秩序の根幹、樹理四神が滅びる際の魔力は尋常なものではなく、世界を四つに分ける<四界牆壁>の術式すら、起動させるだけの力を有していた。
奴の根源が、終わりゆく星のように激しく瞬く。
ディルフレッドは、転生するつもりすらないのだろう。
そのまま滅びと引き換えに、世界を絶望で覆う<四界牆壁>を行使しようとしている。
熾死王、詛王、緋碑王、冥王の四人と言えども、それをいつまでも封じ込めておくことはできまい。
結界の構築はそもそも四邪王族の得意分野ではなく、なによりカイヒラムが限界に近い。
他の三人もすでにかなりの魔力を消耗している。
<四界牆壁>の広がりを押さえ込んでいる<死死怨恨詛殺呪泥城>がなくなれば、瞬く間に形勢はあちらに傾き、その漆黒のオーロラはミッドヘイズを飲み込むほど大きく膨れあがるだろう。
連鎖的に、地上という地上に刻んである術式が起動し、世界中に<四界牆壁>が出現する。
術式を書き換えられたそれは、奴が言う通り、人々を襲う絶望の壁と化す。
だが――
「…………」
ディルフレッドは不可解そうに眉をひそめる。
四邪王族の誰一人として新たな手を打とうとはしないのだ。
冥王も、詛王も、熾死王も、緋碑王でさえ浮き足立つことなく、ただ目の前の<四界牆壁>を封じ込めることに没頭していた。
「問おう。魔の王族たちよ。残り少なき魔力と命。時間を稼ごうと、救援は来ず、逃走を計ろうと、壁は世界を覆う。しかし、貴君らの心は諦観に至らず。ならば、いかにして絶望に挑むか?」
「我らに問うた時点で、そなたの負けということよ」
冥王が言う。
続いて、得意気に口を開いたのは緋碑王だ。
「骸傀儡だったねぇ? 術者が滅びれば、いかなる権能も働くわけがないのだよ。吾輩が動くまでもないねぇ」
ディルフレッドは神眼を険しくする。
四邪王族の狙いは理解した。
しかし、不可解なのだろう。
「……滅んだ神が行きつく先が枯焉砂漠。終焉神はその主ゆえ、たとえ滅ぼうとも己の神域に戻るのみ。滅びを迎える毎に、終焉の神は力を増し、神体を封じようとも骸傀儡は停止しない」
カッカッカとエールドメードが愉快そうに笑う。
「封じる? カカカ、カーカッカッカッカッ!! 最愛なる娘を傷つけられ、魔王の国に土足で足を踏み入れた輩を、あの男が封じるだけで済ますと思ったかね? いかに不滅だろうと、どれだけ力を増そうと関係がない。魔王の右腕が取るべき選択肢は一つ――」
彼は両手を勢いよく伸ばし、黄金の炎を空中に飛ばす。
それは無数の神剣に変わった。
ダダダダンッとロードユイエを空から落とし、剣と剣をつなぐように巨大な魔法陣を描く。
時間稼ぎの結界を張りながら、エールドメードは大きく声を上げた。
「斬殺、斬壊、斬滅だぁぁぁぁぁっっっ!!!」
魔王の右腕と終焉神、その戦いの行方は――