熾死王の教え子
深化神ディルフレッドの首から、血が滴る。
トモグイを憑依させ、彼に食らいついたナーヤは、その魔力を、深化神の秩序を己の器に取り込んでいく。
「貴君と貴君の召喚竜は、興趣が尽きない」
神の力を奪われながらも、しかし、ディルフレッドはその神眼にて、冷静にナーヤの深淵を見据えていた。
「神を食らい、秩序を食らう力。小さき竜は、覇竜を食したか」
地面に転がった<知識の杖>が、カタカタとドクロの顎を震わせた。
『その通り。聞くところよれば、そう、なんでも彼女の担任がだ! たまたまガデイシオラに行く機会があったそうでな。覇竜の一部をトモグイの手土産にしたらしいではないかっ!』
恐らくは、ボミラスと戦った後のことだろう。
トモグイは元々、竜を食す竜。
食らった竜の力を自らのものにできる。
魔族であるボミラスを食らうことができたのは、それまでに何匹かの竜を食べていたからだ。竜は魔族や竜人を食べる。その力を得て、トモグイは魔族を食せるようになった。
それを知ったエールドメードは、密かに入手していた覇竜を与えた。
トモグイは、覇竜が有していた神を食らう力を得たというわけだ。
「成る程。簒奪者エールドメードの玩具か」
静かに、ディルフレッドは深化考杖を引き、勢いよく突く。
体を貫かれ、ナーヤの血が地面にこぼれ落ちた。
「哀憐に値する」
まっすぐ<憑依召喚>の術式を狙い、引いた深化考杖が再び突き出される。
ナーヤの腹が串刺しにされ、血がどっと溢れ出す。
だが、彼女の牙は消えず、未だ深化神に食らいついている。
<思念通信>にて、彼女は言った。
『……その杖は、ただ鋭く細い棘……。術式や建物、根源を瓦解させる要を見ているのは、あなたの神眼。だけど、今は、私にもその神眼があります……』
ナーヤの片眼が深藍に輝いていた。
ディルフレッドの秩序を食らったことで、僅かだが<深奥の神眼>を発現しているのだ。
万物の深淵を覗き、その要をディルフレッドは狙う。
だが、今のナーヤにも、ディルフレッドの狙いは見える。多少なりとも、それを反らせるのならば、深化考杖の真価は発揮できない。
「然り。ゆえに深淵が拝観できたはず」
ぐっとディルフレッドは、ボストゥムをナーヤの体に押し込む。
「貴君の器は確かに巨大だ。だが、樹理四神たる私を食らうには空白が足りない」
彼女は腹を貫かれながらも、引き剥がされないように、必死にディルフレッドにしがみつき、首筋に食らいつく。
己の器に満ちた融合神ガラギナ、飽食竜トモグイ、そして深化神ディルフレッドの力を、ナーヤは総動員させている。ここで距離を離されれば、もう後はない。
「闘争にすら至らない。このまま私を食らい続ければ、貴君は内側から破滅する。されど、食らうのをやめれば、その時点で貴君は死滅する」
生真面目な顔で思索にふけりながらも、ディルフレッドは言う。
「問おう、迷える旅人よ。私の神眼で、貴君はなにを拝観している?」
一瞬の沈黙、ナーヤは答えた。
『……難しいことは、わかりません……大きなことは、私にはできません……』
ディルフレッドとは真逆、死にものぐるいの表情でナーヤは答える。
『一秒でも長く、私は、私が学んだ学校を守りたい! 先生と学友たちを守りたい! ここは、私が、初めて自信を持てた大切な場所だから』
「時を稼いでいるか」
ナーヤの思惑を看破したように、深化神は言った。
「貴君が待っているのは、あの簒奪者。熾死王エールドメードだな」
ナーヤは返事をしない。
ディルフレッドは構わず続けた。
「ときに願望は、正しき神眼をも狂わせる。<深奥の神眼>とて、それは同一だったか」
なにかを悟ったかのように、深化神は呟く。
エクエスに操られながらも、彼の根幹がまだどこかに残っているように見えた。
「迷える旅人よ。彼の到着も、その救助もない。簒奪者の目的は、暴虐の魔王へ大いなる試練を課すこと。今、世界の意思と戦う魔王は、貴君らを助けることができない。ゆえに、この瞬間が、あの簒奪者の望みが叶う絶好の機会なのだ」
ナーヤは答えず、ただ必死に食らいついている。
「理解に遠いか、旅人よ。神とディルヘイドのこの戦争、未だ戦局を五分とする。その力の天秤から、簒奪者がいなくなれば、たちまち神の勝利は確実なものとなる。その状況を作り出すことができるならば、あの男は喜んで魔王に背信しよう」
『熾死王先生は、そんなことしませんっ!』
「否」
ナーヤの叫びを、ディルフレッドは一蹴する。
「貴君は、熾死王という男を誤解している。彼に優しさや情け、愛というものがあると思考することこそが、すなわち錯誤だ。彼にあるのは愉悦と狂乱。常識的に見える振る舞いは、道化を演じているだけのこと」
ナーヤはその<深奥の神眼>と自らの魔眼を怒りに染め、深化神を睨む。
『……それ以上、熾死王先生を侮辱しないでください……』
「憧憬は盲目に至る。たとえ、私の神眼を持とうと、深き思考が得られないなら、深淵はほど遠きかな」
ディルフレッドは杖をナーヤから抜き、地面に刺した。
まるで戦いを放棄したかのように。
驚いたような素振りを見せるナーヤに、ディルフレッドは語りかける。
「貴君を瓦解させるのは刃ではなく、言葉だ。それはときに、なによりも鋭い棘へ変貌する」
武器を捨てた。
それは、ナーヤにとっては有利な状況のはずだった。
待てば助けが来る。時間を稼げば、熾死王が救出にやってくる。
元より勝てなくともよかったのだ。
少しでも、深化神に食い下がることができさえすれば。
けれども今、彼女の表情に、不安がありありと覗き始めた。
「熾死王はここへ到達しない。どれだけ待とうとも。ゆえに私は杖を捨てた。貴君も、その不安を薄々と思考したはずだ」
『いいえ……私は……』
「否。貴君はこれまで、目を背けてきた。熾死王の実体から。彼は貴君を興趣に尽きぬ玩具としか見ていない。それは言葉の端々に、行動の隅々に現れていたと推測される。貴君は熾死王を、自らを導いてくれる憧憬の教師と理解することで、気がつかないフリをした」
心の内側へ、棘を突き刺すように、ディルフレッドは言う。
「それは、己を守るための防衛本能だ。力がなければ捨てられる。興味が尽きれば背を向けられる。そう思考したならば、心ある者は不安で夜も睡眠できない。ゆえに、己を騙し、誤解し、現実から目を背ける。彼は優しき理想の教師、と」
言葉を返せないナーヤへ、ディルフレッドは淡々と告げる。
「強者に理想を押しつけ、現実から目を逸らした。ここで諦観するがいい、旅すら叶わぬ弱き者よ。たとえ世界を救おうと、貴君を救済した教師は、二度と姿を見せることはない。初めから、貴君を救済しようなどという気は、あの男にはなかったのだ」
『…………先生は……必ず……』
「来るのならばとっくに来ている。貴君はそれを、理解している。見えぬはずがない。思考が及ばぬはずがない。ただその眼を背けただけだ」
ナーヤの手から、ほんの僅かに、力が抜ける。
その心の綻びを、ディルフレッドは見逃さなかった。
「彼は、その歪んだ心にて、ただ魔王の敵を求めた狂人だ。教師である姿は、貴君の歪んだ目が見た、一つの偶像にすぎない」
『正しいではないか、正しいではないか』
<知識の杖>が、カタカタと笑う。
その声に、ナーヤはびくっと震えた。
『熾死王は来ない。魔王を裏切ったあの男は、契約に背き、無残に死に果てるだろう』
『……嘘です……そんな……!』
カカカカ、杖のドクロが顎を揺らす。
『だが、いい! それでいい! それがいいのだ! 祖国を蹂躙され、無残なる滅びを突きつけられ、暴虐の魔王は、そう、かつてないほどの進化を遂げる!』
カッカッカ、カーッカッカッカッカーと<知識の杖>が笑う。
ナーヤの表情に、暗い陰が落ちた。
『深化神。そして、世界の意思エクエスよ。オマエたちは、恐るべきものを見ることになる。守るべきものを守れなかった魔王の怒りは、さてさて、どれほど恐ろしいのやら?』
愉快千万といった調子でその杖は言った。
『そう! 覚醒だ、覚醒、怒りの大覚醒だぁぁぁぁーっ!!!』
「……覚醒なんか……アノス様に必要ありませんっ……! どうしてそれで先生が犠牲にならなきゃ――」
ナーヤが叫び、深化神に食い込んだ牙の力が、一瞬弱まる。
その隙を見逃さず、ディルフレッドは彼女の顔面をつかみ、引き剥がした。
咄嗟にナーヤは、ディルフレッドの腕をつかむ。
「否。犠牲ではない。貴君は理解したがゆえに叫んだ。つまり、諦観した」
言葉の刺に刺されるように、ナーヤの指の力がふっと抜けていく。
「貴君は恩師の浅い部分しか見ていなかった。ゆえにこの結末は、私の神眼を得たからこそ。深淵を覗くには、貴君の心は弱すぎた」
戦意を保っていたその表情が、みるみる悲しみと諦めに変わっていく。
次第に腕が下がっていき、やがてだらりと脱力した。
「ただ恩師に褒められたいがゆえ。その要に棘を刺せば、貴君の戦いは瓦解する」
ディルフレッドはナーヤの頭から手を放した。
しかし、彼女は立ち向かおうとはせず、その場にがっくりと膝をついた。
「旅せよ、弱者。螺旋の底は遙か遠い」
ナーヤの横を、ディルフレッドはすり抜ける。
残った魔王学院の生徒が、そこに立ち塞がった。
「救助は来訪しない」
「うるせえよ……」
ナーヤの心が折れた今、勝ち目は皆無。
にもかかわらず、黒服の生徒は吠えた。
「おめえの言うことはよくわっかんねえけどよ。あ? 要はエールドメード先生が変態だっつう話だろ? んなも――」
言葉を発しようとした生徒が、ばたりと崩れ落ちる。
ディルフレッドが指先で魔法陣を描き、深淵草棘を射出したのだ。
けれども、もう一人の黒服が大声で叫んだ。
「んなもん、俺たちはとっくに知ってんだよっ! 大体よ――」
叫ぶごとに、棘は放たれ、一人ずつ生徒は数を減らしていく。
「小難しい理屈を並べてるけどよっ。あの正気の沙汰じゃねえ先生が、そんなもんで理解できるとは、これっぽっちも思えねえっ!!」
彼らは必死になって叫んだ。
学友の心に深く刺さった棘を、抜こうとでもするように。
「なあ、ナーヤッ! 諦めんなよっ! どうせこんなディルヘイドの危機でも、興味深いものを見つけたとかいって寄り道してるだけだっ。そういう先生だぜ、あの人はっ!」
「諦観することだ、迷える旅人たちよ」
ディルフレッドが棘を放つ。
生徒の体はがくんと折れる。
だが、心までは折れなかった。
「……諦観? は? そんなもんすると思ってんのか……?」
「あいにく俺たちゃ、頭がわりいっ! どのぐらいかっていうと、転生した始祖を、偽物扱いするぐらいだ……!」
「だからよ、せいぜいつき合ってもらうぜ……。馬鹿な俺たちが諦めんのは、事実を目の当たりにしたときだけだっ! ディルヘイドが滅びたときだけなんだよぉぉっ!!」
勇ましく叫んだ者から、深淵草棘を刺され、彼らは崩れ落ちる。
それでも、その信念は崩れなかった。
「いくら強くて、賢くたってなぁっ! お前の力には尊さがねえ!!」
「俺たちは暴虐の魔王、アノス・ヴォルディゴードの血を受け継ぐ皇族だぜ。下賤な神なんかが、いくら強くたって、屈すると思ってんのかぁぁっ!!」
魔力が瓦解し、倒れる体を地面に打ちつけながらも、彼らは最後の瞬間まで、声の限りを振り絞った。
暴虐の魔王の血を引く皇族として、その誇りを持って、学友であるナーヤに、エールを送り続ける。
その声はついに届かず、最後の一人がその場に崩れ落ちた。
「貴君らの師は来なかった。彼は教師を演じていただけだ」
「……教師だって、完璧じゃないわ……」
声が響いた。
根源に棘を撃ち込まれ、最早、立ち上がることもできないメノウが、けれども言葉を投げかける。
「足りないものは沢山あるし、生徒の期待に応えられないこともある。でもね、ナーヤさん。私たちだって、成長する。生徒に教えられて、一緒に成長していくのが教師だわ。だから、彼が教鞭を執っている間、あなたが与えたものだって、少なからずあったは――」
ディルフレッドが放った深淵草棘に撃たれ、メノウは意識を失った。
「希望はときに残酷だ」
深化神は振り向いた。
彼の視界でナーヤが動いていた。
「迷える旅人よ。なにゆえに、再び立つ?」
「……そうだ……アノス様が言ってた……死にものぐるいでついていけって……恩を受けたら、成長でそれに報いてやれって……」
まるでなにかに取り憑かれたように、彼女は言葉をこぼしていた。
「……私が、成長すればいいんだ……」
彼女がつかんでいるのは、地面に突き刺さった深化考杖ボストゥム。
その権能の塊である杖に、牙を突き立て、ナーヤは食らった。
深化神の秩序が、荒れ狂い、ナーヤの器を内側からズタズタに引き裂いていく。
「……私が、強くなって証明すれば……先生は戻ってくる……! 私が魔王の敵になるぐらい強くなれば……強くなればいいっ……! 熾死王先生はおかしなことをしなくて、ただ真面目に教師するのが近道だって気がつくんだ……!」
「……簒奪者に感化され、すでに狂乱していたか……」
ディルフレッドがその神眼を驚愕に染める。
ナーヤは喉の奥を開き、一気にその杖を、自らの体内に放り込んだのだ。
「……私が……報いてあげるんだ……! 先生は平和な時代に生まれなかった。だから、知らないんだ……先生の天職は教師だって……私が教えてあげれば……っ!」
「否。貴君の器は崩壊する。深化考杖が有する秩序には、耐えきれまい」
内側から割かれるように、ナーヤの全身に無数の切り傷が走った。
膨張する魔力が、彼女の体を粉々に引き裂こうとしている。
「……大丈夫……できる……大丈夫……私は、熾死王先生の教え子なんだ……先生なら、きっと言うはず……!」
無理矢理、ボストゥムの魔力を押さえつけるようにして彼女は叫んだ。
「胃は伸びるんだから、器も大きくなるってっっ!!!」
大量の血と魔力が、辺りに飛び散る。
ナーヤの内側から、無数の棘が体を突き破り、外へ溢れ出した。
それらは一箇所に集まり、螺旋を描く杖、深化考杖ボストゥムに戻った。
「…………ぁ……私、は……先生………………」
再びボストゥムに伸ばした手は届かず、空を切った。
彼女はそのまま前のめりに倒れる。
瓦解するまでもなく<憑依召喚>は解除され、最早、立ち上がる力も残されてはいまい。
「これが回答だ」
深化神はボストゥムを手にして、その先端を校舎へ向ける。
魔法陣が描かれ、深淵草棘が校舎へ射出された。
外壁を貫き、柱を貫き、その要である固定魔法陣を貫く。
三つ目の棘により、その城は瓦解する――そのはずだった。
深化神がその神眼を校舎の内部へ向ける。
ゆっくりと中から歩いてきた男がいた。
カカカ、カッカッカッカ、とさも愉快そうに声が響く。
その手にあった深淵草棘をその男が軽く指先で弾けば、棘は瞬く間にハトに変わった。
空へ飛び上がったが、ある程度の高さまで行くと、樹冠天球の影響を受け、真っ逆さまに落下した。
男の足元に落ちたハトは、ボンッと煙に変わった。
すると、煙からナーヤが姿を現し、先程までいたナーヤの位置にハトが倒れていた。
「いやいや、まったくまったく、傑作ではないか!」
拍手をしながら言い、男はニヤリと笑みを覗かせる。
「胃は伸びるから、器も大きくなる?」
くつくつと腹の底から笑声をこぼしながら、再び男は言う。
「胃は伸びるから、器も大きくなる?」
カカカカ、と笑い飛ばすようにして、男は魔法陣から抜いた杖をつく。
「胃は伸びるから、器も大きくなるだとぉぉっ!?」
三度同じ言葉を繰り返し、シルクハットを被った男はそも可笑しそうに首を左右に振った。
「いいや、言わぬな。オレはそんなことは言わぬぞ、居残り。そんな馬鹿げた、奇天烈にもほどがあることを、いやいや思いつかないなぁ」
ダンッと杖を地面につき、熾死王エールドメードは愉快そうな笑みを覗かせた。
「思いつかなかったではないかっ!! 面白い。オマエの胃がどこまで伸びるのか、いや、試してみなければなぁ。それは実にいい考えだ」
「背信はやめたか、簒奪者。気まぐれなことだ」
深化神の言葉に対して、エールドメードはおどけるように肩をすくめた。
「カカカッ。エクエス程度の敵で、オレが裏切るに値すると思ったかね? 少々、持病の呼吸困難に苛まれ、駆けつけるのが遅れただけではないか」
「……先生……」
弱々しく、ナーヤが熾死王の足に手を触れる。
「……助けにきて……くれたんですね…………」
「さてさて、こんなとき、なんと言ったものか? 魔王ならば、気の利いた台詞の一つや二つ、咄嗟に出てくるものだが、何分、教師失格の狂人の身ではな。まあ、ともかくだ」
杖の先端をディルフレッドへ向け、熾死王はいつもの如く人を食った笑みを浮かべる。
「今日は神の倒し方を教えてやろう、居残り」
待ち望んだ授業の再開――