背理の六花
アルカナが静かに一歩を刻み、手を伸ばす。
「海は凍りて、氷は溶けゆく」
雪月花にて凍りついた海面が、薄氷のようにパリンッと砕け散る。
そこに円形の穴が空いていた。
「禁兵の子たち。先に魔族の兵を助ける」
そう口にして、アルカナは紅く染まった大樹母海へ飛び込んだ。
「我ら背理神の仰せのままに」
「神族の思い通りにはさせん!」
禁兵はその誰もが、地底にて神や信仰に裏切られた者たち。かつての人間と魔族のように、
彼女たちは神への憎悪に囚われている。
アルカナもまた、かつては憎しみに囚われた一人。
神と信仰に翻弄され、裏切りが彼女の日常だった。
だからこそ、アルカナは背理神としてガデイシオラに戻ったのだ。
彼女たちの憎悪を、その小さな背に引き受けるために。
そうして、神の軍勢が地底の各地で竜人たちを襲い始めた。
アルカナが禁兵をまとめ上げ、ガデイシオラを守ったのは想像に難くない。
次々と禁兵は、真紅に濁った大樹母海の中へ飛び込んでいく。
その背に氷の翼を広げ、海底に沈んだジークたちの救出に向かった。
「ひゃっひゃっひゃ」
海中に潜っていくアルカナの視界に、うっすらと人影がよぎる。
紅く濁った水の奥から、堕胎神アンデルクが姿を現した。
「飛んで火にいる夏の虫え。妾の大樹母海で、自由に泳ぐことなどありんせん」
彼女の体から赤い魔力が放出されると、真紅の水がまるで糸のように蠢き、禁兵たちの体を縛り始めた。
魚という魚がぐったりとして、海底に沈んでいくのが見えた。
樹冠天球では飛べぬように、その堕胎の海では泳ぐことができぬのだろう。
「沈みゃあっ、堕胎じゃ!」
ヴィアフレアがいない今、禁兵たちに巣くっていた覇竜はいない。
代わりに彼女たちに力を与えているのはアルカナだ。
神の権能である雪月花。それによって創られた竜の翼や爪、尻尾、鱗などは、禁兵たちの体内に直接酸素を創造している。
魔法と違い堕胎されることはないが、しかし、それでもなお、その紅い海を泳ぎきることはできない様子だ。
まるで堕胎の羊水に絡みつかれるように自由を奪われ、禁兵たちは沈んでいく。
「大樹母海で妾に勝てる者はおらんのえ。樹冠天球では転変神、深層森羅では深化神、枯焉砂漠では終焉神が秩序じゃ。中途半端な神の力しか持たぬそちらに抗う術はありんせん」
アルカナは口を開く。
雪月花が息とともにふっと吐き出され、創造した声が、水中に響き渡った。
「中途半端だろうか?」
ニタァ、とアンデルクは蛇のように笑う。
「痕跡神が残した痕跡の書しか持たぬ教皇ゴルロアナ。未来を見る神眼を剣帝に譲り渡し、不完全な神となった未来神ナフタ。魔王の配下なんぞの所有物と成り果てた魔剣神ヘイルジエンド。まともな神域も作り出せん、中途半端な神じゃ。黙って従い、滅びゃあええ」
「樹理廻庭園は、四つで一つの巨大な神域」
ゆっくりと海底へ沈みながら、アルカナは言う。
「この四つの神域を魔力が循環するから、堕胎の神、あなたは強大な力を有することができる。樹理四神は皆同じ」
「それがどうかしたかえ?」
「樹理廻庭園が、一つでも消滅すれば、他の神域はその力を弱めるのだろう」
ひゃっひゃっひゃ、とアンデルクはアルカナの言葉を笑い飛ばした。
「そちに至っては秩序を補うだけの代行者じゃ。あれが見えんのかえ?」
アンデルクは顔を上げる。
視界が曇る紅い海から、なおも禍々しく輝いて見えるのは、暗き日蝕だ。
霊神人剣の力で半分ほどにまで巻き戻った<終滅の日蝕>は、けれども、また少しずつ重なり合おうとしていた。
エヴァンスマナがレイの手元から離れた今、今度こそ完全なる<終滅の日蝕>を起こし、地上を一掃するのが狙いか。
「創造神が蘇った今、代行者は不要じゃ。そちが持つ最大の権能、<創造の月>も<破滅の太陽>も、妾たちに味方しておる。背理神とは大げさに宣ったものじゃがのぉ」
ジャキンッと鋏が交わる音を響かせ、アンデルクは蛇堕胎鉗子をアルカナへ向けた。
「今、そちにどれだけの秩序が残っておるかえ? 手の平から出せるちっぽけな雪では、堕胎の海の表面を凍らせるのが関の山かのぉ?」
アルカナは無言で、堕胎神をじっと見つめる。
奴は動こうとせず、攻撃を仕掛けてくる気配もない。
紅く濁った海中に魔眼を凝らして、はっと彼女は気がついた。
エグリャホンヌについていた蛇の意匠が消えていたのだ。
「やっと気がついたかえ?」
ニタァ、とアンデルクは見下すような笑みを見せる。
次の瞬間、アルカナのその静謐な表情が、苦痛に染まった。
話をしている隙に、紅く濁った水に隠れ、赤黒い双頭の蛇が彼女のへそに食らいついていたのだ。その反対側は、アンデルクの下腹に食いついている。
アルカナを堕胎するための臍帯だ。
「ほうら、戻りゃっ! 望まれん命や、回帰せん」
神の臍帯から送られてくる魔力が、アルカナを胎児へ戻していく。
彼女は雪月花をその身に纏い、創造の力にて、自らの体が変化せぬように保った。
「無駄じゃ無駄じゃ。望まれん胎児や、神の鋏がぁ間引いて堕つる――」
蛇が牙を剥くように蛇堕胎鉗子がガシャンッと開き、その鋭い刃が神の臍帯に当てられる。
「堕胎じゃ。エグリャホンヌ」
蛇が獲物を食らうが如く、ジャキンッとその鋏が勢いよく閉じた。
「…………なっ…………!?」
アンデルクの口から、呆然とした声がこぼれ落ちる。
神の臍帯は切れていない。
噛みついた蛇堕胎鉗子の刃の方が、錆びつき、ボロボロと崩れていた。
「……なん……じゃ、これ、は……?」
「きっと、あなたも騙されたのだろう。堕胎の神。いいえ、世界の意思」
アルカナは、じっと堕胎神を見据えた。
静かに瞳を閉じ、それが再び開けられれば、その魔眼には、弧状の<破滅の太陽>と三日月のアーティエルトノアが現れ、二つで一つの円を描いていた。
<背理の魔眼>、その真の力がそこに現れていた。
「選定審判は、あの虚無の子によって、歪に歪められてしまった。今、秩序の整合は、完全に乱れている。破壊神と創造神が蘇ってなお、その代行をしていただけのわたしが持つ権能はそのまま。それどころか、力を増している。彼はこの世界を嘲笑いたかったのだろう」
静かに右手と左手を持ち上げ、アルカナはくるりと天に返した。
「春の日差しに雪は舞い、六つの花が世界を溶かす」
両手から舞い上がったのは、燃える氷の花。
「春景六花」
煌々と太陽のように輝き、冷たく月のように瞬き、その凍れる花が燃えていた。
次々と花々はアルカナの背後に集まっていき、それは月に似た、そして太陽に似た、そのどちらでもない物体を創り出した。
「……なん……え……? これは……秩序かえ…………?」
呆然とアンデルクは、春景六花が作り出す物体を見つめる。
それは、凍燃する、六つの花弁。
確かに、神の秩序がそこにある。神の権能が力を発揮していた。
「……ありん……せん……こんな……!?」
神眼を開き、彼女は首を振る。
秩序の根幹をなす、樹理四神である彼女が、あるはずがない神の力を目の前に突きつけられていた。
「なにかの間違いじゃ……! こんな秩序は、ありんせんっ……!!!」
「月は昇らず、太陽は沈み、神なき国を春が照らす」
静謐な声で、アルカナは唱えた。
「<背理の六花>リヴァイヘルオルタ」
燃え盛る氷の花は、冷気と熱気を同時に放つ。
本来は相反する氷と炎が、僅かに鬩ぎ合うことなく、共存していた。
堕胎の海は、その矛盾した力に、凍りつきながらも燃やされる。
大樹母海の秩序が、みるみる狂い始めた。
海底に沈み、身動きの取れなかった禁兵たちが、<背理の六花>に照らされ、再び動き始める。
彼女らは、次々と魔族の兵を救出していった。
「……なぜ……? なぜ、妾の海で泳いでおる……? 望まれん赤子が、堕胎じゃっ! 堕胎じゃあぁぁぁっ!」
アンデルクが蛇堕胎鉗子を光らせ、叫ぶ。
膨大な魔力が迸り、大樹母海に赤い糸が無数に出現したが、それはあろうことか、神域の主である堕胎神に絡みついた。
「ぎゃっ……! な……なん……じゃと…………?」
「リヴァイヘルオルタが照らす領域は、背理の国。ここではあらゆるものが秩序に背かれる」
その神眼を剥き、アンデルクは叫ぶ。
「ありんせんっ! 妾が堕胎に背かれるじゃとっ? 神は秩序そのものなんえ。自らに背かれることが、あると思うのかえっ!?」
束縛から逃れるように、アンデルクの神体が赤い糸に変わり、それがみるみる解けていく。
神体が消えたかと思うと、次の瞬間、堕胎神はアルカナの真後ろに現れた。
「望まれん赤子や、蛇の牙がぁ食らいて堕つる――」
ジャキンッと金属音が響く。
「エグリャホンヌ」
アルカナの首を狙い、蛇堕胎鉗子の刃が鋭く交差する。
「……なっ……ぁぁっ……!?」
アンデルクが、その神眼を丸くする。
首を狙った鋏の方が、逆にその刃をへし折られたのだ。
「背理剣リヴァインギルマ」
春景六花が集まり、彼女の手に出現したのは、かつてアヒデが全能者の剣と呼んだリヴァインギルマ。
記憶を封じられ、代行者としての権能を封じられていた。
かつては、理滅剣などを素材にする必要があったが、今は違う。
記憶を取り戻し、代行者としてのすべての権能を取り戻し、その神剣を取り戻した。
そして、歪められた選定審判が進んだことで、最後のピースが揃った。
これが、アルカナの背理神としての真価――
「この身は永久不滅の神体と化した」
「バケモンがっ! 食りゃやぁぁっ……!!」
アンデルクが右腕を赤い糸の蛇に変え、アルカナに食いつかせる。
しかし、永久不滅の神体の前に、牙を剥いた堕胎の蛇が一方的に消し飛んだ。
「秩序はわたしには敵わない」
静かに、アルカナはリヴァインギルマを鞘から抜いた。
白銀の剣身があらわになり、美しく輝く。
抜き放てば持ち主が滅びるはずの背理剣だが、彼女にはその効力は及んでいない。
<背理の六花>リヴァイヘルオルタが、抜けば滅びるという背理剣の秩序にさえ、背理しているのだ。
「秩序は歪みて、背理する。我は天に弓引くまつろわぬ神」
自らとアンデルクを結ぶ神の臍帯を、アルカナはリヴァインギルマで切断した。
「……………………ぎゃっ…………がぁ………………ぁ…………ば…………」
堕胎神アンデルクがゆらりと揺れる。
力を失い、彼女は堕胎の海に沈みゆく。
「……あり……ん…………せん……妾が……堕胎……され…………る……な……」
声はかき消え、真っ赤な海底にアンデルクは消えていく。
堕胎の秩序が背理し、アンデルクとアルカナの立場が反転した。
ゆえに堕胎神が、堕胎されたのだ。
背理神の名に相応しく、神に特化した恐るべき権能。
あるいはそれは、選定審判にて生まれたエクエスを滅ぼすために、グラハムが用意しておいたものなのかもしれぬ。
エクエスが顕現し、破壊神と創造神が復活したことにより、背理神としての彼女の力は完全に目覚めた。
偶然とは考え難い。
秩序に背理するリヴァイヘルオルタならば、秩序の集合体であるエクエスを無力化することは可能なはず。
エクエスの力はすべて背理神のものになるだろう。
だが――
「月は昇りて、太陽は沈み。神なき国に冬が来る」
アルカナは背理剣リヴァインギルマを鞘に納める。
すると、<背理の六花>リヴァイヘルオルタが花を散らすように、すっと消滅していった。
彼女は力を抜き、その海に身を漂わせた。
莫大すぎる力ゆえ、代行者である彼女の身でも、あっという間に魔力が底をついた。
その体と根源は疲弊し、無傷で勝ったにもかかわらず、ボロボロに成り果てている。
ガデイシオラでの出来事を考えれば、グラハムの目算では、俺を代行者に仕立てあげ、アルカナの力を手に入れさせるつもりだったか?
それとも、最終的には自らが手に入れる算段か?
わからぬが、いずれにせよ、その背理の権能こそが、神の力を統合したエクエスを倒す唯一の手段と考えたのだろう。
<背理の六花>リヴァイヘルオルタを維持している間ならば、エクエスを滅ぼしても、世界は滅びない。
「……守りたいと思っているのだろう……」
アルカナが、そっと呟く。
彼女は空の日蝕を見据え、力の入らぬ体で言った。
「地上を。今度はわたしが、お兄ちゃんの大切なものを」
背理の国に、神はいらず――
そういえば、今月10月10日発売の電撃文庫MAGAZINEに、
本作の外伝である『魔王学院の猫魔女姉妹』が載っております。
ミーシャとサーシャが、猫耳が生えた魔女になり、
街の平和を守るという内容ですので、気になった方は
ご覧になってくださいましたら幸いです。