神々を忌む者
ミッドヘイズの西――
大樹母海。
平野は深く沈んで海へと変わり、荒れ狂う津波がミッドヘイズへ押し寄せていた。
「始まりの一滴が、やがて池となり、母なる海となるでしょう。優しい我が子、起きてちょうだい。生誕命盾アヴロヘリアン」
生誕神の声とともに、母なる海は命を育む。
海底から次々と、神の軍勢が生まれては、押し寄せる津波に乗り、ミッドヘイズ部隊が防衛線を敷く場所へ上陸してくる。
すでに神の矢と魔法砲撃が、夥しく降り注いでいた。
弓兵神アミシュウス、術兵神ドルゾォークの大部隊は、物量にものをいわせ、遠距離から魔法障壁を破ろうとしている。
建ち並ぶ魔王城は、その怒濤のような集中砲火にかろうじて耐えていたが、津波が押し寄せる度に敵の数は増していく。
魔法障壁が軋み、反魔法が悲鳴を上げ、今にも決壊しそうな有様であった。
「魔法障壁損壊率四七パーセントッ!」
「魔力の供給が追いつきませんっ! このままではっ……!?」
魔王城の中、部下の報告に、七魔皇老メドイン・ガーサは眉根を寄せる。
「メドイン殿。籠城していても、勝ち目はない」
声とともにやってきたのは、精悍な顔つきをした男だ。
褐色の肌と金の魔眼。
オールバックにした髪を、後ろで結んでいる。
かつて七魔皇老メルヘイスを倒し、知恵比べを挑んできた熾死王の参謀、ジーク・オズマである。一度はフクロウに転生させたが、エールドメードを配下に引き入れたその後に、元に戻してやった。
「こちらから打って出るべきだ」
「……勝算はあるのか?」
「我らにお任せを」
ジークの背後には、魔族の部隊がいた。
歩み出たのは黒髪のポニーテール、剛剣リンカ・セオウルネス。
アヴォス・ディルヘヴィアの一件にて、ミーシャ、サーシャと戦った混沌の世代の一人であり、冥王の配下だ。
そして、もう一人は小柄な少年、ザブロ・ゲーズ。
同じくそのときにエレオノールにやられた緋碑王ギリシリスの副官である。
そこにいる部隊の者は皆、二千年前の魔族だ。
四邪王族の配下が中心であり、現在の規律正しいミッドヘイズ部隊で言えば、癖の強い連中ばかり。平素は自由気ままに過ごし、あまり仕事熱心でもない。主に大人しくしていろと言われたので、守っているだけの者も多い。
「ひっひっ。神とは良い研究材料になりそうじゃのぉ」
下卑た口調で、ザブロは言う。
「神の秩序を封じ込めた碑石というのはどうじゃ? 緋碑王様の手にかかれば簡単にできそうじゃ」
すると、目にも止まらぬ早業でリンカが魔剣を抜く。
自在剣ガーメスト。自由自在に形状が操れるその剣先を伸ばし、彼女はザブロの喉もとに刃を突きつけた。
「今は我がディルヘイドの一大事。おぞましい魔法研究なんぞにかまけ、足並みを乱すつもりなら、この場で切って捨てる」
「ひっひっひ。冥王の犬が、わしを殺すじゃと? 主の冥王はどうしたのかのぉ? 臆病風に吹かれて、逃げ回っておるのではないか?」
ザブロの挑発を受け、眼光鋭くリンカは彼を睨めつける。
「取り消せ。我が君は逃げてなどいない」
「では、ディルヘイドの一大事とやらに、ついぞ姿を現さぬのはなぜじゃ?」
「深いお考えゆえにだ。文字通り熾死王の犬となっている、貴様の主と違ってな」
リンカの言葉に、ザブロは忌々しそうに彼女を睨んだ。
「卑怯な手でやられただけのことじゃ。緋碑王様は、不屈の御方。泥にまみれればまみれるほど輝く、泥の王じゃ。そのうち、汚泥の中からでも復活されるわい」
「お前のような醜悪な老いぼれにも、忠誠心があるとは知らなかったが、肝心の主があれではな。愚か者同士、気が合うのか?」
ひっひっひ、とザブロの笑い声が響く。
リンカの視線と彼の視線が交錯し、殺気が衝突した。
瞬間、自在剣ガーメストがザブロの頬を切り裂き、魔法陣から射出された石つぶてがリンカの顔面へ迫る。
それを彼女は右手で受け止めた。
再び両者が睨みあった瞬間、ガガガァァンッと魔王城が揺れた。
神族たちの魔法砲撃が、また魔法障壁を一層打ち破ったのだ。
「やれやれ。うるさくて敵わんわい」
「まったくだ」
ザブロは魔法陣を消し、リンカは魔剣を納めた。
二人は同時に踵を返す。
「見ておれ。あの神どもを片付けた後、ゆっくり決着をつけてやるわい」
「怖じ気づくなよ」
「小娘が。誰にものを言っておるのじゃ」
二人はそれぞれの部隊を率い、魔王城の外へ向かう。
「……大丈夫なのか?」
深刻そうな表情で、七魔皇老メドインは問う。
「ほんのじゃれあいだ。気が合わぬ者もいるが、魔族同士で争っている事態ではないのは奴らも承知している。後ろから味方を撃つことはないだろう」
なんの問題もないといった風に、ジークは答えた。
メドインは黙考する。数秒後、やむを得ないといった風に口を開いた。
「……わかった。任せよう。今は大戦を知るそなたたちに頼る他ない……」
「承知」
ジークは踵を返し、自らの部隊とともに魔王城の外へ出る。
魔法障壁の外側は、押し寄せる波濤と神の軍勢で溢れていた。
生誕神の神域にある限り、敵はほぼ際限なく生まれてくるだろう。
しかも、奴らは多数が少数に優るという秩序を有している。
時間が経てば経つほど、ミッドヘイズ部隊は不利になる一方だ。
「おるわいおるわい。恐ろしい魔力を持った神が、ごまんとおる」
ザブロが両手で多重魔法陣を描く。
みるみる広がっていくそれを頭上に掲げれば、魔法陣は遙か上空に広大な円を描いた。
そこから、ぬっと巨大な碑石が姿を現す。
周囲に、小さな碑石をいくつも伴っていた。
数百、いや、数千はくだらない。
「<魔王軍>」
外に出た全魔族に魔法陣を描き、ジークは<魔王軍>の魔法線をつなぐ。
<思念通信>を封じる大樹母海で、兵に命令を下すためだ。
「出陣する。ザブロ、リンカ、そなたたちが作戦の要だ。抜かるなよ」
「わかっている」
短く言い、リンカは先陣を切る。
「誰にものを言っておるのじゃ、若造めが。ほれ、魔力を寄越さんか」
<魔王軍>の魔法線を通じてジークから送られてきた魔力を、ザブロは描いた魔法陣へ即座に注ぎ込む。
「神どもめが。目にものを見せてやるわい」
上空に浮かんでいた緋色の碑石が落下を始め、勢いよく降り注ぐ。
神の軍勢ではなく、海を狙ったその碑石は激しく水飛沫を立てながら、浅瀬や海底に突き刺さった。
「いざ尋常に!!」
魔族の兵を率いてリンカは波打つ浅瀬を駆ける。
手には自在剣ガーメスト。それを透明化させ、<秘匿魔力>にて魔力を隠す。
瞬く間に、神眼には見えぬ魔剣と化した。
ジークの指示に従い、規則正しく動く神の軍勢の一部隊に対して、魔族たちは互角の人数にて衝突した。
「もらった!」
自在剣ガーメストが、いとも容易く剣兵神の首を刎ねる。
さすがに二千年前の魔族だ。
かつてミーシャ、サーシャと戦ったときよりも数段腕を上げている。暴虐の魔王の血を引くその体の力を、十二分に引き出せるようになったといったところか。
「次っ!」
リンカの一振り毎に、神が伏す。
「次だっ!」
彼女の力もさることながら、部隊を指揮しているジークも、巧みである。
圧倒的に人数で優る神の軍勢に対して、局所的には互角の数での衝突ができるように誘導し、リンカとの一対一に持ちこませている。
リンカが神を一体倒せば、その場では彼女の部隊が数で優る。
そうして、みるみる敵の数を減らしていた。
熾死王の参謀といっただけのことはあるだろう。
しかし、それだけでは、まだ足りぬ。
全力での戦闘行動を継続するには、体力と魔力の限界がある。生まれ続ける神の軍勢を倒しきるより、魔族たちが力尽きるのが先なのは明らかだった。
ジークがそれを計算に入れていないわけでもあるまい。
「ひっひ。頃合いかのぉ。枯焉砂漠の骸傀儡と言ったか? 滅んだ者をしもべにするとは面白い魔法じゃが、そっくりそのまま返してやるわい」
大樹母海に突き刺さった数千の碑石。
それがぽおっと紫色の光を発し、魔法線を延ばす。
碑石と碑石が紫の線でつながり、大樹母海の一角に巨大な魔法陣を描き出した。
「<腐死鬼兵隊>じゃ」
ザブロが魔法を発動した瞬間、むくりと起き上がる神体があった。
リンカによって斬り倒された剣兵神ガルムグンド、槍兵神シュネルデ、術兵神ドルゾォークが、ゆっくりと立ち上がる。
その鎧は腐り、目は禍々しく赤い輝きを、頭には不気味な二本の角が生えている。
なによりもただでさえ強力な神が、それ以上の強い魔力を発していた。
「……ぐぅぅぅ……」
「……がぁぁぁ……!」
「…………ぐがぁぁぁ……!」
呻き声を上げながら、腐死鬼兵となった神が、かつての仲間である神の軍勢に襲いかかる。
そうして、腐死鬼兵に打ち倒され、反魔法が弱まった神族から、次々と腐死鬼兵と化し、ザブロの命令を忠実に聞く魔法人形となっていく。
「ひっひっひ! いくらでも生むがいいわい。生めば生むだけ、強力な兵が手に入るというものじゃ!」
根源が腐り落ちるまで戦う腐死鬼兵。
倒せば倒すほど、ねずみ算式にジークたちは兵力を増していき、神の軍勢を圧倒していく。
いかに際限なく生命を生み出せようと、その速度には限界がある。
一定以上の数の腐死鬼兵を作った時点で、神の兵が生誕する速度を、それを腐死鬼兵へ変える速度が上回る。
それで、ジークたちの勝利だろう。
「続けっ! この神域を生みだしている神を討つ!」
形勢が逆転するや否や、リンカを先頭に、魔族の部隊と腐死鬼兵は水中に飛び込んだ。
<水中活動>の魔法で魚より速く泳ぎ、彼女たちは大樹の前に辿り着く。
そこにいたのは、生誕神ウェンゼル。魔族たちは彼女を包囲した。
油断なく、リンカは自在剣ガーメストを構えた。
「生誕神ウェンゼルだな?」
ウェンゼルは盾を構える。
生誕命盾アヴロヘリアン、それが目映く輝いたかと思えば、大樹の中から生まれた大量の神の兵が飛び出してきた。
ジークの命令に従い、慌てることなく魔族の部隊と腐死鬼兵は、その神々を打ち倒していく。
「覚悟!」
目に見えぬ自在剣を長大に伸ばし、リンカはウェンゼルを斬りつける。
生誕神はアヴロヘリアンでそれを難なく受け止めたが、自在剣ガーメストは数も自在。
悟られぬよう同時に逆方向から振るわれたその一撃が、無防備なウェンゼルの胴を薙いだ。
血を流しながらも、生誕神はじっとリンカを見つめる。
いや、違う。見ているのはリンカの背後だ。
しかし、そこにはなにもない。
「とどめだ」
<武装強化>に膨大な魔力を注ぎ込み、威力を増した自在剣にて、リンカは生誕神を斬りつける。
狙いは、アヴロヘリアンを持つ手。一瞬でも、その盾を手放したならば、玉砕覚悟で一気に腐死鬼兵たちを突っ込ませる。
樹理四神がそうそう滅ぼせぬと知ってのジークの策だった。
全精力を傾け、振るわれたリンカの一撃は見事、ウェンゼルの右手を斬り裂く。
彼女の指先から、紺碧の盾が離れた。
「今っ――」
叫ぼうとしたリンカが、しかし魔眼を丸くした。
一瞬にも満たない時間。ウェンゼルの体が透明になり、ふっと消えていったのだ。
その代わりとばかりに淡い光が、先程までウェンゼルが見ていた場所に集い始める。
誰もいなかったはずの、リンカの背後に。
殺気を覚えたか、彼女は振り向いた。
秩序が反転するかの如く、そこに現れたのは、赤い織物を身につけた女。
結った赤黒い髪が海流に流され、おどろおどろしく揺れていた。
堕胎神アンデルクに裏返ったのだ。
その場に現れた赤い糸が、魔法陣を描いている。
中心からは、双頭の蛇の意匠が施された巨大な糸切り鋏が姿を覗かせた。
「ザブロッ」
「わかっておるわいっ!」
腐死鬼兵と化した神の兵が、アンデルクめがけ、一斉に襲いかかった。
「望まれん赤子やぁぁ」
アンデルクが、冷たく雅な声を発す。
「蛇の牙がぁ食らいて堕つる――」
ジャキンッと金属音が響く。
「エグリャホンヌ」
「なぁぁっ!?」
ザブロが魔眼を剥いた。
腐死鬼兵たちの神体がボロボロと崩れ落ちていき、一瞬にして滅びたのだ。
「な……ん……んじゃとぉっ…………!? わ、わしの腐死鬼兵が……」
「母の羊水がぁ紅う染まりゃ、千切れた胎児が溺死せん」
崩れていく腐死鬼兵の体から血が大量に溢れ出し、大樹母海を紅く濁らせる。
「させるか!」
リンカが大上段に自在剣を振りかぶり、勢いよく斬りつけた。
だが、紅い水に溶けるように堕胎神アンデルクは消え、その魔剣は水をかく。
「ジークッ!!」
リンカが叫び、ジークが背後を振り向く。
そこに蛇堕胎鉗子が迫っていた。
「堕胎じゃ、エグリャホンヌッ!」
ジークは身を退き、素早く神の鋏をかわす。
だが、アンデルクが狙ったのは彼ではなく、魔族の兵らにつながった<魔王軍>の魔法線だった。
ジャキンッと音が響き、その糸が蛇堕胎鉗子に断ち切られる。
すると、条件が成立したとばかりに、海がますます真紅に濁った。
『な……ん……じゃ……<水中活動>が……』
『……これ、は………………』
『魔法の無効化…………いや、それだけでは…………泳ぐ……ことが…………』
魔族たちが、紅い海に沈んでゆく。
堕胎神が現れたことで、大樹母海の秩序が変わった。
母の羊水で、へその緒を切られた胎児の如く、彼らは溺れてゆく。
「ひゃっひゃっひゃ、この妾の海じゃ、あらゆる魔法は堕胎され、泳ぐこともできんのえ。そちらは脆弱な赤子同然、妾に勝つなどありんせん」
アンデルクが海中から、地上を睨む。
その視線は、ミッドヘイズを守るように建ち並ぶ魔王城へ突き刺さった。
「滅びぃや」
海面が荒れ狂い、真紅の津波が魔王城へ押し寄せる。
これまで城を守っていた反魔法と魔法障壁は容易く堕胎され、津波はあっという間に城に押し迫った。
魔法で維持されている魔王城は、その真紅の津波になす術もなく流されるだろう。
逆巻く怒濤が容赦なく迫り――その直前でピタリと止まった。
「……なんえ?」
堕胎神が眉をぴくりと動かす。
凍っているのだ。
魔法を堕胎させるはずの津波が、何者かの力によって凍りつかされていた。
そう、神の権能にて。
「雪は降りつもりて、光は満ちる」
その場は瞬く間に、雪景色に変わった。
大樹母海に降りつもる雪。
白銀の結晶が荒れ狂う海面を凍らせ、津波を封じ込めている。
ひらり、ひらりと一片の雪月花が舞い降りて、それは白銀の髪と金の神眼を持つ、透明な少女に変わった。
「堕胎の神よ。わたしはアルカナ。魔王の妹、そしてガデイシオラのまつろわぬ神。かつて、神に裏切られた者たちの憎しみを背負う背理神として、ミッドヘイズの魔族たちとともに戦う」
彼女が両手を天に向け、厳かに膝を折る。
雪とともに、そこに舞い降りてきたのは、氷の竜と同化したようなガデイシオラの禁兵たちだ。
「ガデイシオラは神々を忌む。彼女たちは怒りに満ちている。平素は互いに不可侵なれど、わたしたちからこれ以上を奪おうというのなら、決して許すことはないのだろう」
憎しみを背に負い、少女は神を代行する――