血の契約
ぎちり……ぎちり……と、不気味な歯車の音が鳴っていた。
空に浮かぶ巨大な歯車の化け物を見つめながら、勇議会の議員たちは青ざめた表情でそいつの言葉に耳に傾けている。
『世界の秩序に背き、汝らは私のもとへ勇者カノンを差し向けた』
エクエスの声が大気を震わし、アゼシオンの大地に響き渡る。
それに揺さぶられるが如く、議員たちは、ガタガタと体を震え上がらせた。
『見るがいい、その崩れゆく大地を。これが汝らが犯した蛮行の末路だ』
激しい地震が巻き起こり、議員たちは咄嗟に建物にしがみつく。
終滅の光により、世界の大地は四つに割れた。
それらは時折起こる激しい地震とともに、少しずつ離れているのだ。
『勇者カノンは、世界の瞬きにより、光に灼かれ、地上へ落ちた。汝らの英雄はもういない。大地に刻んだ十字の傷は広がり続ける。やがて世界は完全に四つに分かれ、崩壊するだろう』
大気を劈くような不気味な声が、アゼシオン全土に響き渡っていた。
『これは、世界の敵である暴虐の魔王に組した汝らへの罰だ』
声が暴風となり、建物という建物が激しく揺れた。
勇議会の殆どの者が、恐怖で体を縮み上がらせる。
<破滅の太陽>の魔力を感じられずとも、世界を四つに割った終滅の光は、つい先刻、まざまざと見せつけられたばかりだ。
今なおアゼシオンでは断続的に地震が続き、大地の崩壊は収まる気配もない。
深淵を覗くことのできぬ彼らとて、否が応でも、敵の強大さを思い知るほかなかった。
『生きたいか? 世界の民よ』
ノイズ交じりの声が響く。
『助けたいか? 自らの友を、恋人を、家族を』
まるで救いの手を差し伸べるかのように。
『かつて、汝らの祖先は、正義の名のもとに悪しき魔王へ挑んだ。神話の時代、世界と人間は、ともに正しき秩序を目指していた』
まるでそれが最後の機会とばかりに、エクエスは言う。
『悔い改めるならば、その罪を許そう。今一度、私に――世界の意思に従え、矮小なる人間よ。<聖域>の祈りを。その愛と優しさをもって、世界に逆らう悪しき国を滅ぼし、愚かなる不適合者、暴虐の魔王を討つ。悪に染まらず、正しき道を選べば、汝ら人間は生きながらえるだろう』
世界が滅びゆく中、それは甘い囁きだったのやもしれぬ。
正しき道を選べば、救われる。
正義を行えば、どんな危機にあろうとも道は開ける。
いつの世も、誰もがそれを願い、誰もがそれを信じたがっている。
ガイラディーテの人々は、その多くが呆然と空を眺めていた。
突然の事態に思考が追いつかぬのだろう。
『決断するがいい。アゼシオンを統べる、か弱き議員たちよ。これは、世界と汝ら人間の、その子々孫々に至るまで、未来永劫違えられぬ契約――<全世契約>である』
空に巨大な<全世契約>の魔法陣が描かれた。
今後、生まれる子孫にまで同じ契約の魔法、強制する術式だろう。
それに調印すれば、人間という種族は永遠に魔族を倒すための<聖域>を、世界に捧げ続ける。
『猶予は時計の針が一週するまでだ。祈りを捧げれば、<全世契約>は結ばれ、お前たち人間は救われる。勇者となり、正義を示せ』
<全世契約>の魔法陣に時計が現れ、その針が動き始める。
数分も経たずに、一週するだろう。
国の命運を決める決断をするには、短すぎる猶予だ。
「祈れば……」
議員の一人が、呟いた。
「助かる、のか……」
「愛と優しさが、我らを救う……」
ダンッと激しい音が響き渡った。
議員たちが一斉に振り向く。
エミリアが円卓に両手を叩きつけていた。
「戦争中に、なにを寝ぼけたことを言ってるんですか」
怒気を込め、鋭い口調で彼女は言った。
「状況を考えてください。あれはただの敵です。敵の脅しに屈してどうするんです? 今、ディルヘイドで勇者学院が神の軍勢と交戦中なんですよ。わたしたちのすべきことは、一刻も早く、民にこの状況を伝え、彼らに<聖域>を届けることです!」
「しかし、敵と言うが……」
ちらり、とそのロイドは窓を覗いた。
あまりにもスケールの違いすぎるものが、そこにあった。
今まで感じとれもしなかった魔力が、目の前に具象化されたことにより、圧倒され、畏怖しているのだろう。
手を出してはならぬものに、手を出してしまったことが、ようやく理解できたのだ。
「あれが、本当に世界の意思だと思っているんですか? ディルヘイドが悪しき国だって、あんなものに決められて、冗談じゃありませんよっ」
「……もっともだ。しかし、少なくとも、世界を滅ぼすだけの力を持っているのは、確かなようだがね……」
議員の一人、ルグラン王シヴァルが言った。
「だから、屈するんですか?」
「屈するというわけではないかと」
ポルトスを治めるエンリケが答える。
「しかし、なにを差しおいても国は守らねばならない。世界を四つに割くような超越的な存在を相手にしては……」
「世界を四つに割く? 違うでしょう。脅しじゃありませんでしたよ。アレは、わたしたちを滅亡させようとして、撃ってきたんです。それを止めたのは誰ですか?」
問い詰めるように、エミリアは言う。
「勇者カノンとディルヘイドでしょう。彼らは地上を守った。アゼシオンを守ったんです。守られたわたしたちが、撃ってきたあの化け物の言いなりになって、守ったディルヘイドを滅ぼそうっていうんですか? そんな馬鹿な話がどこにあるんですっ!」
エンリケが押し黙る。
すると、今度はネブラヒリエ王カテナスが口を開く。
「義理や人情も確かに重要。私とて心苦しいものです。しかし、ときには、より強い方につかねばならないこともあるでしょう。意に沿わぬ要求を飲まねばならないことも」
「勘違いしないでください」
ぴしゃり、とエミリアは言い放つ。
「あの太陽からの魔法砲撃。あれを撃ったのが暴虐の魔王でしたら、世界はとっくに滅びています。誰にも止められはしませんよ。あの歯車の化け物にだって」
全身から魔力を発するエミリアに、カテナスは怯む。
彼女はその魔眼で、議場にいる議員たちを睨んだ。
「最も恐るべき力を有しているのは、暴虐の魔王アノス・ヴォルディゴードが治めるディルヘイドです。あの歯車の化け物は、独力で彼を倒せないから、私たちに力を貸せと脅しているんでしょう。もしも魔王がその気だったなら、アゼシオンは二千年前に滅びています。わたしたちが今この場で議論を交わすことさえありませんでした」
追及するように彼女は言う。
「滅ぼさなかった彼と、滅ぼせなかったあの歯車。なんの要求もせず、平和を願った彼と、その彼を悪しき魔王として滅ぼせと脅すあの化け物。いったい、どちらがより悪で、そして、どちらがより恐ろしいのか。あなたたちには考える頭もないんですか?」
シヴァル、カテナス、エンリケ、ロイド。
そして、議員たち全員の顔を見て、エミリアは訴える。
「どうして、わたしたちを支配する力を持ちながら、そうしなかったのか。どうして強大な力を持ちながら、困難な対話の道を選んだのか。彼の理想が、あなたたちにはほんの少しも理解できないんですか?」
議員たちは、答えられない。
<全世契約>の時計が進む。
すでに半周に迫ろうとしていた。
「二千年前、彼は世界に壁を作り、魔族と人間を隔てることで平和を築きました。違う種族であるわたしたちが、関わることがなければ、争いは生まれません。だけど、それは本当の平和ではありません」
丁寧に、懸命に、エミリアは彼らに言葉を投げかける。
「彼の願いに反し、かつての大勇者ジェルガは勇者学院に悪意の種を蒔きました。その結果が、あのディルヘイドとアゼシオンの戦争。アゼシオン中の人間を絶望の闇に落とした深き暗黒です。それでも、彼は人間とわかり合うことを諦めようとはしませんでした」
議員たちは、皆、重苦しい表情を浮かべている。
「……確かに、それは、そうかもしれません……」
カテナスが、ゆっくりと口を開く。
「しかし、エミリア学院長。アゼシオンのために、あなたに魔族が、同胞が撃てますか?」
そう問うた後、カテナスはたたみかけるように続けた。
「あなたは魔族の血を引いている。私たちは人間は、そこまで暴虐の魔王のことを信用はできません。あなたに、国の行く末を託すこ、と……も……?」
カテナスが目を丸くする。
彼の目の前で、赤い血が勢いよく滴り落ちていた。
「エミリア学院長っ……!」
「すっ……すぐに手当をっ……」
ナイフで自らの右手首を切り裂き、エミリアはその円卓を血で汚す。
「どれだけ血を取り除けば、わたしは魔族ではなくなりますか?」
「……なにを、馬鹿な。そんなことをしても……」
「なれませんよ。血をなくして、このまま死んで生まれ変わって、今度は人間に生まれたとしても、わたしは魔族です。魔族であることに血は関係ないでしょう?」
円卓を真っ赤に染めていきながらも、エミリアは問う。
「人間だって、そうなんじゃありませんか?」
カテナスは、口を噤んだ。
なにも言わず、なにも言葉にできず、ただじっとエミリアの顔を見つめている。
「くだらない。血がなんだって言うんですか。わたしの意思でも、わたしの心でもない。わたしが魔族か、人間かすら関係がない。そんなものでは、なに一つ決まりません。なに一つ決まらないんですよ!」
勢いよく流れ落ちていく彼女の血は、まるでエミリアの中に最後に残ったわだかまりを捨て去っていくようだった。
魔族だった頃、彼女は皇族として、尊い血を引く者としての誇りを持って日々を過ごしていた。
無理矢理転生させられ、混血として惨めに生きることとなった。
そして、遠い異国の地で、人間として扱われ、そして人間ではないと差別された。
そのすべての日々が、今、彼女に確かな事実を突きつけている。
「…………では……」
カテナスが、ようやく小さな問いを、言葉にした。
「……なにで決まると……?」
「わたしが……わかっているのは、一つだけです……」
血を失っていき、青ざめた顔で、エミリアは魔法陣を描く。
<遠隔透視>だ。そこに映ったのは、ガイラディーテの民の姿である。
彼らは、祈っていた。
「行け……俺たちの……想いを……」
「あたしたちの……祈りを……みんなに……」
「受け取ってくれ、勇者学院のみんな!」
「待ってるぞっ!」
「生きて帰ってこいっ!」
「……おいっ! こんなんじゃ全然足りないぞっ! あんな化け物にビビッてる場合じゃないっ! もっと沢山の人に伝えよう!」
「だけど、口づてじゃ……魔法放送が使えたらっ……!」
「馬鹿野郎。泣き言言ってんじゃねえっ! いくら強くたってレドリアーノたちはまだ子供なんだぞっ! 届けるんだよっ、俺たちの声をっ!」
「そうよっ! きっと、助かるわっ! エミリア学院長と勇者学院のみんなが、頑張ってくれてるんだものっ!」
事情を知る一部のガイラディーテの民たちが、駆け回り、口々に戦地に向かった勇者学院のことを他の人間へ伝えていく。
ぽつり、ぽつり、と次第にガイラディーテの各地から<聖域>の光が広がり始めた。
「ちゃんと見えていますか、彼らの姿が。ちゃんと聞こえていますか、ネブラヒリエ王。彼らの声が、ずっとそうでしたよ。勇議会が生まれる前から、ずっと……」
息を飲むカテナスに、エミリアは願うように言った。
「どんな暗闇の最中でも、勇気を持ってそれに立ち向かう若者の背中を押すのが、このアゼシオンに生きる民」
エミリアは心の中で強く願う。
すると、彼女の体に<聖域>の光が集った。
心が魔力に変換されているのだ。
「この<聖域>に、真実心を重ねられるのが、わたしたち人間です、カテナス。どうか」
円卓に流れ落ちた自らの血に、エミリアは魔力を送る。
血が魔法陣を象り、<契約>を発動した。
「どうか、信じてください。もしもディルヘイドが、このアゼシオンに侵略戦争を仕掛けてくるのならば、それが暴虐の魔王であろうとわたしはこの身を盾に、この心を剣として戦います。勇者学院の生徒たちと、このガイラディーテに生きる民、そしてこの国を――」
<契約>に描かれているのは、エミリアが今発言した通りの内容だ。
「アゼシオンを、わたしは愛しています。その証明をここに」
その魔法契約に、エミリアは血塗られた指先を伸ばす。
血判のような調印を、しかし、横から伸びた手が妨げた。
エミリアの手首をつかんだのはルグラン王シヴァルだ。
「そんな契約をしては、君は二度と祖国の地を踏むことができまい」
「……覚悟の上です……」
エミリアの瞳には、ただ決意だけがあった。
あるいはそれが、最後にシヴァルの心を一押ししたのかもしれない。
彼は、静かに首を左右に振った。
「故郷を愛しく思う気持ちはよくわかる。君にそれをさせたならば、私は人間失格だ。アゼシオンのためとて、私にルグランはとても撃てんよ」
シヴァルの体が<聖域>の光に包まれていた。
まるでエミリアに、心を重ねるように。
彼は議員たちへ言った。
「諸君。我らは腐敗したガイラディーテの政治に嫌気がさし、この勇議会を起ち上げた。だが、蓋を開けてみれば、思うように行かぬことばかり。理想に燃えるには、私は歳をとりすぎたのかもしれん。思い返せば、発したのは我が身可愛さの言葉の数々」
彼は窓の外に視線を向ける。
<聖域>の光がガイラディーテ中に広がっていくのが見えた。
「とんだ腑抜けだった」
振り返り、議員たちを奮い立たせるように、シヴァルはぐっと拳を握る。
そうして、訴えるように声を上げた。
「今、ここで戦わねばなにも変わらん! 民のためにと立ち上がったのが、我らではなかったか! この街の人々は勇者の勝利を信じ、望んでいる! たとえあの空に浮かぶ化け物が、真に世界の意思だとしても、それに屈してはジェルガや歴代のガイラディーテ王と同じだっ!」
シヴァルは短剣を抜き、自らの手の平を切った。
そして、その血を使い、円卓に自らの手形をつけた。
「ガイラディーテの民は、ディルヘイドの救済を望んだ。アルクランイスカの勝利を願った。我らは勇議会として、その代理を全うすべきだ。違うか?」
すると、ポルトス王エンリケが、同じく短剣で手の平を切り、円卓に手を置いた。
「私も、お二方に同意する」
風向きが変わった。
「私もだ」
「戦うべきだ」
次々と議員たちが口を揃え、手の平を切っては、円卓に手を置き始めた。
魔力を伴わない、なんの効力も及ぼさないその血の<契約>に調印する度、けれども彼らの心は<聖域>の光でつながっていく。
会長のロイドが血判をして、残るはカテナス一人だった。
議員たちが彼に詰め寄ろうとするのを、エミリアは手で制した。
彼女はまっすぐ彼に向き合い、口を開いた。
「カテナス。わたしを認められない、あなたの気持ちはよくわかります。もしも、わたしが、気に入らないというのなら――」
「これまでの非礼を詫びます。エミリア学院長」
エミリアの言葉を遮るように、カテナスは言った。
そうして、短剣でエミリアと同じように手首を切った。
どくどくと大量の血が円卓に流れ落ちる。
「……どうか、同じ人間として、ともに戦わせてください……」
こくりとエミリアはうなずく。
「勝ちますよっ!」
「ロイド会長。魔法放送の準備ができましたっ!」
兵士の一人がそう報告をした。
すぐにエミリアは、<思念通信>を使う。
その声は通信用の魔法具を通し、アゼシオン全土に届くだろう。
「アゼシオンの民へ。勇者学院のエミリアです。アゼシオンは今、未曾有の危機にあります。しかし、我らには勇者たちがいます。彼らは決死の覚悟で戦地に赴きました。どうか彼らに声援を。この死線をくぐり抜け、敵に打ち勝つための勇気を与えてください」
<聖域>の光が、ガイラディーテのみならず、アゼシオン全土に瞬き始めた。
それは、ガイラディーテから各地へ整備された水路を通って、みるみる聖明湖に集い始める。
平和な世に増え続けたアゼシオンの人口。
その心が一つとなった<聖域>の輝きは、二千年前、勇者カノンがその背に背負った、重たい期待以上だ。
<全世契約>の時計が針が、元の位置に戻ってきた。
勇議会会長のロイドが言う。
「世界の意思とやらへ告ぐ」
毅然とした態度で、彼は堂々と言葉を放つ。
「答えは出た。人間は同じ過ちを繰り返さない。アゼシオン軍出撃! ディルヘイドを、我らが友国を守れ!」
その尊き血を捨てて――