笑わない世界の終わり
それは深い暗闇の中――
それは暗い心の底――
それはそれは、絶望という名の首輪。
魔法陣の歯車に埋め込まれた、姉妹の心が引き裂かれていく。
その魔眼に映るのは――
その神眼に映るのは――
血に染まった破壊と創造の空だった。
「……やめて……」
サーシャが言った。
彼女の心に略奪者の歯車が深く食い込み、思い出を引き裂くように無理矢理回している。
ぎち……ぎち……と不気味な音を立てながら、なにかが少しずつ壊れゆく。
こぼれ落ちるのは彼女の想い。
破壊神アベルニユーだった少女の、ほんの小さな願いだった。
――願ったのは一つだけ。
ただ世界をこの神眼で見てみたかった――
『ねえ、■■さま、憎いって言ったわね?』
――■■さま? 誰?――
――誰に、話しかけているの?――
――わからない。話し相手なんていなかったわ――
こぼれ落ちるのは、彼女の記憶。
ぎちり……ぎちり……と歯車が回っていた。
『憎いって、どんな気持ち?』
――声が聞こえる。わたしの声が。わたしの言葉が。頭の中で繰り返される――
『憎しみの前には、喜びや嬉しさがあるのかしら? でも、それもわたしは知らないわ。知っているのは、喜びや嬉しさが、怒りに変わって、そこから憎悪が生まれるってこと。だけど――』
『ぜんぶ、わたしは知らないわ』
『だって、ぜんぶ滅びるんだもの。花は美しいって言うけれど、どんな形をしているのかしら?』
『山は雄大って言うけれど、どんな大きさなのかしら?』
『家は? ベッドは? 椅子は? 本は?』
『キスって、どんな風にするのかしら?』
――世界はわからないことで溢れていた――
――決して見ることのできない、生きているその姿を――
――わたしは、見たいと思っていた――
――それなのに――
『沢山、滅ぼしたわ。魔族も人間も精霊も、ときには神ですら、わたしは滅ぼしてきた。この世のすべての終わりは、わたしの手の平の上で起きたこと』
『だって、そうでしょ。人々が壊れ、根源が消え去るのは、破壊神の秩序があるからだもの』
『<破滅の太陽>だってそうね。あれを空に輝かせて、その滅びの光が、あなたの仲間を焼いたんだわ。何十人も、何百人も。もしかしたら、もっと沢山』
――あなた?――
――あなたは、誰?――
『ねえ、教えて、■■さま? どうして、人は生きているのかしら? 終わらないものなんてどこにもない。いつか必ず終わるわ。だったら、今日終わっても、明日終わっても、一〇〇年後に終わっても同じことでしょ』
『希望があるとでも思っているのかしら? 続きがあるとでも思っているのかしら? だったら、とんだお笑い種だわ。なんにも残らないのに。そうとも知らず、必死に生きてるなんて、馬鹿みたいね』
――そう馬鹿みたいだったわ――
――わたしは――
――馬鹿だった――
『世界は笑ってなんかいないわ。だって、わたしが見ているんだから。この神眼に映るのは、終わりだけ。いつだって、そこには悲しみしかない。いつも、いつだって、この世界には涙しか残らないわ。それが真実』
『ねえ、■■さま? あなたにそれが覆せるのかしら? このわたしを、破壊神アベルニユーを滅ぼすことができるの?』
――ねえ。あなたは、誰?――
――もしそこにいるのなら、声を聞かせて――
――そうじゃないと、わたしは――
『さっきも言った通り。ずっとね、待っていたの。誰かが、ここに来てくれるのを。願っていたわ。滅ぼして、滅ぼして、滅ぼしながら、わたしを憎む人が、やってこないかって。サージエルドナーヴェを斬り裂いて、わたしの目の前に、現れないかって』
『だって、つまらないんだもの。ずっと一人ぼっちで、こんな暗い明かりしかない太陽の中で、誰と話すこともできない。だからって、外に出たって、なにも変わらないわ』
『わたしの神眼に映るのは、絶望と悲しみだけ。破壊神の眼前では、ただ終わりだけが横たわっている。地上を歩けば、一晩で世界は破滅するわ』
『知りたいことが沢山あったわ。花の形や、山の雄大さ、喜びや、嬉しさを。だけど、この神眼には、決して映ることはない』
『でもね、とても強い人がいたら、もしかしたら、その人の姿は見ることができるかもしれないと思った』
『話をすることができると思った。その人はきっとわたしを恨んでいて、破壊神の秩序を滅ぼすためにやってくる。世界の悲しみを止めるためにやってくる』
『わたしはその人に恋をするわ。だって、そんな人、いたとしても一人だわ。わたしの相手は、その人以外にはありえない』
『沢山、沢山待ったわ。気が遠くなるほど待った。沢山、沢山滅ぼしたわ』
――ああ、そうだ。そうだった――
――思い出したわ――
『あなたがやってきた』
――誰も、やってこなかった――
――誰も、来てくれはしなかったんだ――
ぎちり……ぎちり……と歯車が回り、ザザザッと記憶の裏側にノイズが走る。
『地上を歩きながら、■■さまの魔眼で、今度は悲しみ以外を見てみたいわ』
――ぜんぶ、嘘――
――ぜんぶ、わたしの妄想だった――
――だって、なにも思い出せない――
――だって、世界は――
『この世界が笑っているところを』
――世界は笑ってなんかいなかった――
――わたしが――
サーシャは目を開く。
目の前が、絶望に染まった。
『<笑わない世界の終わり>』
――壊したから――
その光景が鮮明にアベルニユーの神眼に映った。
そこは破壊の空。
目映い光と、剣を手にした人影が見える。
サージエルドナーヴェの日蝕から放たれたのは、終滅の光――
<笑わない世界の終わり>。
霊神人剣エヴァンスマナを<破滅の太陽>に突き刺しながら、レイはその禍々しいばかりの滅びの光に耐えている。
だが、宿命を断ち切るその聖剣とて、破滅を完全に覆すことはできなかった。
「――避けろぉぉぉぉっっっ!!!!」
勇者が必死に叫んでいた。
破壊の空の下を飛ぶ飛空城艦三隻は、それを耳にしながら、<笑わない世界の終わり>に突撃した。
真っ先に光に撃たれたのは一番艦だ。
「ニギット!」
「避けられるものかっ……! 私たちの後ろにはディルヘイドとアゼシオンがある。この大地は、我らが暴虐の魔王アノス・ヴォルディゴード様が御身を呈して守った聖域だっ!!」
続いて二番艦が、その終滅の光に撃たれた。
すでにボロボロだったその船体は、なす術もなく脆く崩れ落ちていく。
――やめて――
「……アノス様……。『生きよ』とのご命令、果たせず申し訳ございません……。ですが、せめてこの平和な時代だけは……!!」
滅びに近づいていくデビドラたちの根源。
それは目映く輝いていた。
滅びに逆らうが如く強く、激しく。
その魔力をすべて、彼らは生存のためではなく、終滅の光から地上を守る反魔法に注ぎ込んだ。
かつて人間を恨んだデビドラ。
憎悪を捨てきれなかった部下たち。
転生した彼らの目に映った平和な世界は、さぞ輝いて見えたことだろう。
それゆえ、咄嗟に体が動いたのやもしれぬ。
それでも――及ばぬ。
身を挺したニギット、デビドラらの意思を嘲笑うかのように、冷たい終滅の光は二隻の飛空城艦諸共、地上へ押しやっていく。
その真下に、ミサがいた。
根源の急所を棘にて射抜かれた彼女は、襲いかかる脅威に向けて腕を動かすが、しかし思うように魔力を操れぬ様子だ。
精霊の力を、断たれていた。
彼女の体から黒き粒子が散っていき、偽りの魔王アヴォス・ディルヘヴィアの姿から、普段のミサへと戻った。
「<風波>」
一陣の風がミサをさらい、この空域を離脱させていく。
「……ルーシェ……さんっ……!」
「神如きに暴虐の魔王は滅ぼせん。たとえ、噂と伝承とてな!」
ミサの代わりとばかりに、ルーシェの駆る三番艦は反魔法を展開し、終滅の光に飲み込まれた二隻の飛空城艦へと突っ込んだ。
「デビドラ、ニギット! なにをしているっ!? その身が潰えようとも地上を守れっ!」
ルーシェの叱咤に、今にも滅ぼうとしているデビドラとニギットの船が、僅かに息を吹き返す。
「……すまんな。死んでいった戦友のことを思い出していた……」
「……彼らも同じ心境だったか……せめてともにこの平和な時代で笑い合いたかった……」
ニギットとデビドラが言う。
燃え尽きる寸前の星のように、飛空城艦三隻から放たれる魔力が大きく光り輝いた。
「……二千年遅れたが――」
「私どもも我が君のためにっ……!!」
闇のオーロラが空を覆う。
それは彼らが使えぬはずの、命懸けの<四界牆壁>。
神族の力を封じるその魔法障壁を、デビドラ、ニギット、ルーシェ、そして彼らの部下たちは消えゆく命を代償に成し遂げた。
数多の根源が、光に飲まれていく――
『……アノス様……どうか、ご無事、で……』
――やめて――
終滅の光と、闇のオーロラが衝突し、破壊の空が引き裂かれんばかりの衝撃が走る。
空が、大気が、世界が震撼していた。
<笑わない世界の終わり>は、慈悲もなく<四界牆壁>を飲み込み、飛空城艦を霧散させた。
破壊の空に、滅びの大爆発が巻き起こる。
「……く…………!!」
霊神人剣を<破滅の太陽>へ押し込んでいたレイが、その爆発をまともに受ける。
滅びの秩序の前になす術もなく彼の手は聖剣から引き剥がされ、そして真っ逆さまに地上へ落ちていく。
――やめて、お願い――
阻むものをなくした終滅の光はなおも直進し、大地に照射される。
底のない穴が空いたかと思えば、それが勢いよく十字に広がった。
大地は割れ、世界が四つに分断され、それぞれがバラバラに離れ始める。
――なにも、壊したくない――
音を立てて、世界が壊れ始めた。
――壊したく、なかったのに――
ぎちり……ぎちり……と歯車の音が聞こえる。
彼女の中で、心を引き裂くように絶望が回り続ける。
『言ったはずだ』
ノイズ交じりの声が、俺の頭に響いた。
視界を自らのものに戻す。
場所は、神々の蒼穹。
その深淵の底にて、俺は目の前に降り注ぐエクエスの光を睨みつける。
『知らば、後悔することになるだろう。知らぬことこそ、彼女たちに与えられた唯一無二の幸せ。救えはしない。破壊神、そして創造神という歯車に飲み込まれ、回り続けるが秩序だ』
エクエスは言う。
『そう、ただ小さな穴を穿ったのだ。暴虐の魔王アノス・ヴォルディゴードという記憶に。それを引き裂けば、神の姉妹が手にした希望はすべて消え果てる。希望を失い、愛を失い、優しさを失い、心を失い、二人の姉妹は、破壊神と創造神として世界の歯車に組み込まれる』
サーシャの心は平常とは言い難い。ミーシャもそうだ。
先程から<思念通信>にてその想いは伝わってくるが、こちらの声が聞こえぬのか、呼びかけても応答せぬ。
破壊神と創造神、その神体に埋め込まれた略奪者の歯車が、ミーシャとサーシャから俺の記憶を奪った。
俺を認識できぬ、といったところか。
『残るはただ絶望。世界の秩序のみ。彼女らは繰り返す。壊したくないと世界を壊し。壊すために、創造を続ける』
サーシャとミーシャ、ミリティアとアベルニユー。
彼女たちの希望は、確かに俺がいなければ成立せぬ。
「ふむ。世界の意思を名乗る者が、大げさなことを言う」
虚を突かれたか、エクエスからはただ無言が返ってきた。
「絶望? これがか? たかだか世界が些末な光に炙られただけのことで、絶望だと?」
歯車の<遠隔透視>に、映し出されている地上の光景に、俺は指をさす。
「よく見よ、エクエス。世界はただ十字に割れただけだ。それで滅びとは、大言が過ぎる。四つに割れたならば、またくっつければいい」
つながっている魔法線から地上を覗けば、世界はまだ健在だ。
ガイラディーテも、ミッドヘイズも。どの都にも、終滅の光は当たっていない。
「勇者の霊神人剣は<終滅の日蝕>に穴を空け、その威力を妨げた。俺の配下が、命を賭して壁を作り、いずれの都にも当たらぬように終滅の光を逸らしたのだ」
僅かに、だが確実に終滅の光は狙いを逸らした。
ニギットが、デビドラが、ルーシェが、二千年前からこの背中についてきてくれた我が配下たちが、命を賭して、この平和を守ったのだ。
絶望など、ほど遠い。
彼らの献身に、俺は報いてやらねばならぬ。
「ミーシャとサーシャも戦っている。歯車が二人の記憶から希望を消そうと、偽りの絶望などに彼女らは決して負けはせぬ」
目の前の光に俺はゆるりと手を伸ばす。
光の深淵に、ようやく見えてきたそれを、ぐっとつかみ上げた。
指先に、確かな手応えを覚えた。
「さあ。つかまえたぞ、世界の滅びの元凶」
世界の意思が、姿を現す――