エクエス
神々の蒼穹。その深淵の底に、不気味な暗雲が立ちこめる。
視界は瞬く間に暗く染まり、辺りは淀んだ空気に変わった。
すると、その雲の一部が輝き始めた。
円形の光がすうっと三角錐の神殿に落ちる。
ゴ、ゴ、ゴゴゴ、と重低音が大気を震わし、神々の蒼穹をも震撼させた。
神族何十体分にもなろうかというほど神々しい魔力が、その光から発せられていた。
「略奪者の歯車が、すべての神族に埋め込まれている。その歯車を回すことで、略奪者はこれまで秩序にのみ従う神族を作り出してきた。そう仮定した不適合者グラハムは、しかし歯車を見ることができなかった」
当の神族さえ、自らに歯車が埋め込まれていることになど、ついぞ気がつかなかった。
俺の父――セリス・ヴォルディゴードの首を奪ったグラハムの魔眼でも見られなかったのだとすれば、相当な代物だ。
「見えぬことでより不可解に思ったのだろうな。あるいは歯車は、秩序と完全に一体化し、この世界を生きる俺たちにそうと知られぬように溶け込んでいる。奴はそんな考えを抱き、興味を覚えた。そうして、略奪者の存在に迫るための魔法を開発した」
グラハムは言っていた。
<全能なる煌輝>エクエスを作れないか試してみたかったんだ、と。
世界の深淵にはいったいなにがあるのか、気になるのだと。
いつもの戯言に隠された、あれが奴の本心だったのやもしれぬ。
「選定審判において、滅びた神は盟珠の指輪にその権能が保存され、秩序が乱れることはない。そして、勝ち抜いた代行者には、選定神の力が与えられる。選定審判に招かれた神を食らい、複数の秩序を有すその力が」
グラハムは、選定審判の仕組みに目をつけた。
「<母胎転生>と狂乱神アガンゾンで、整合神を改造し、その秩序、選定審判の内容を書き換えたのだ。滅びた神の力が、盟珠の指輪ではなく、ヴィアフレアが身籠もった胎児に集まるようにな」
あの戦いでは多くの神が滅びた。
水葬神アフラシアータ。魔眼神ジャネルドフォック。結界神リーノローロス。
狂乱神アガンゾン。福音神ドルディレッド。暴食神ガルヴァドリオン。
痕跡神リーバルシュネッド。
あるいは俺が知らぬところでも、滅びた神がいるやもしれぬ。
選定者を増やしたのも、神を喚び、そして滅ぼすためだったのだろう。
「神々の力が一つに束ねられ、存在しないはずの<全能なる煌輝>エクエスが生まれる。だが、グラハムにとって重要だったのは、エクエスの全能さではない」
不適合者であるグラハムにとって、エクエスを生むことは自殺行為とも言える。
それでも奴は、恐らく知りたかったのだ。
「神々は全体で一つの秩序を構成している。略奪者の歯車は一人一人の神を操っている。この歯車は見えず、そして歯車自体に意思はない。意思があるならば、とっくの昔に気がついていただろう。神族はこの歯車を、己の秩序だと認識していた」
喋ることもなく、見ることもできない。
己に潜むそれを、自身の内なる衝動だと思っても不思議はあるまい。
「神に埋め込まれた魔眼に見えぬ歯車があるのなら、それが世界の秩序を構成しているといっても過言ではない。適合者、不適合者を定めたのもこいつだろう」
これを見るにはどうすればいい?
答えはひどく単純だ。
「ゆえに、神々一人一人に埋め込まれた無数の歯車を、神の力とともに一箇所に集め、食らわせた。思考することなき胎児にな。神族が全体で一つの秩序を構成するならば、その歯車と歯車は噛み合うはず。そして噛み合うならば、それが増えていけば、やがて一つの明確な意思を持って動き出すはずだとグラハムは考えた」
歯車一つ一つに意思はなくとも、それは世界の秩序を一つの方向へ向けている。
つまり、意思がないのではなく、意思がないと思わせるほど細かく分割されているとグラハムは考えた。
神族全体が目指し、実現しようとしている世界の秩序に、意思めいたものを感じとったのだろうな。
それを試し、実際にどうなるかは、奴にもわかっていなかったはずだ。
歯車など存在せず、すべては妄想にすぎない可能性もあった。
だが、あの男のことだ。確かめずにはいられなかったのだろう。ゆえに世界を巻きこみ、狂気に満ちた魔法実験を行った。
あるいはそんな思想を持つがゆえに、グラハムは不適合者と見なされたのかもしれぬ。
「お前はヴィアフレアの胎内から、イージェスの槍にて、遙か彼方の次元に飛ばされた。だが、死ななかったのだ」
胎児は母胎から出れば生きてはいけぬ。
それが道理だが、死なぬ者も中にはいる。俺とてそうだ。
エクエスが生まれていなかったのは、まだ神の力を集めている途中だったにすぎぬ。
「お前は自らに宿る数多の神の力を使い、この神々の蒼穹に辿り着いた。そして、ここから、話しかけていたのだろう。グラハムにな」
<母胎転生>にて生まれたエクエスの声が、グラハムは自らに届くようにしていたのだろう。
魔眼には見えぬ歯車と無に等しきグラハムの根源。
二つは虚無の魔法線にてつなげられていた。
それを利用して、奴は俺に話しかけてきていた。
だからこそ、俺の根源から声が聞こえた。
グラハムの虚無から、あれは響いていたのだ。
「ヴェイドを生み、淘汰神を名乗らせ、お前は神々を滅ぼさせた。神を滅ぼせば、改竄された選定審判が、お前にその力を集める。何名かの神が死んだというに、地上では秩序が変化した様子もなかったからな」
神々の秩序は、互いにその力を補い合っている。
破壊神と終焉神。創造神と生誕神、そして天父神。一名の神が滅びようとも、それだけで完全に秩序は崩壊せぬ。
破壊神を堕としても、世界から完全に滅びが消え去ることはなかった。
それでも、あらゆる物事は確実に破壊から遠ざかる。
だが今回、樹冠天球で淘汰神が神を滅ぼしても、僅かな変化も感じられなかった。
神は滅んだが、秩序は消えなかったのだ。
ゆえに、選定審判のようだと俺は思った。
「最終的に、お前は樹理四神を滅ぼしたかったというわけだ。その秩序を自らの力にするために」
ヴェイドの<永劫死殺闇棺>がアナヘムをいとも容易く閉じ込めたのは、略奪者の歯車が終焉神の神体を拘束したからだ。
決してヴェイドの魔法が俺を上回ったからではない。
「わざわざヴェイドにやらせたのは、歯車一つに自害させるほど神を操る力はないのだろうな。あくまでも、定められた秩序に従い、目的を実行するのみといったところか」
さほどの力がないがゆえに、これまで誰にも見つけることができなかった。
神が自害してしまえば、さすがにそれは秩序とは言えぬ。
人間や魔族に悟られるようなことはできないように仕組まれていたのだろう。
グラハムは、その仕組みを破壊したのだ。
見えぬ歯車を集め、噛み合わせることで。
「お前が元々一個の意識なのか、それとも最初からバラバラの存在だったのかまではわからぬがな」
ゆるりと手を広げ、魔力を放ちながらも、俺は言った。
「エクエス。この世界から奪っていったものは残らず返してもらうぞ」
ザッ、ザザッ、とノイズが響く。
根源の奥底から、あの声が聞こえてきた。
『……最後の希望は――』
不気味な声が、頭にねっとりと染みをつける。
『……最後の希望は、すでに潰えた。警告した。世界を創り変え、私を排除することが、お前たちの願いが唯一叶う道――』
まるで俺を嘲笑うように、不気味なノイズが根源に響き渡る。
『それは、途絶えた』
ゴ、ゴゴゴ、ゴゴゴゴ、と地面が激しく揺れ、大気をかき混ぜる。
『創造と破壊の姉妹神は、後悔を胸に滅びゆく』
ゆっくり浮かび上がったのは、三角錐の神殿だ。
門の奥、光輝いていたデルゾゲードとエーベラストアンゼッタの輪郭がみるみる縮小していき、それは人型を象り始める。
「だめ……」
ミーシャの声が響いた。
「戻りなさい……わたしの体でしょっ。言うことを聞きなさいっ……!」
サーシャが叫ぶも、しかし、彼女たちは神の姿へと変わっていく。
創造神ミリティアと破壊神アベルニユーへ。
『すべては世界の筋書き通り。デルゾゲードとエーベラストアンゼッタ。二つの城と融合すれば、それを取り返せると汝らは思ったのかもしれないが、それは私にとっても同じこと』
ゆっくりと二人の指先が動く。
ミーシャとサーシャは必死に抵抗しようとしているが、どうやらあちらの支配の方が幾分強いか。
『世界の歯車は、その神体に埋まっている。破壊神と創造神を奪い返そうとした彼女たちは、逆にその根源を奪われ、再び正しき秩序のしもべと化す』
ゆっくりと二人の指先にて、魔法陣が描かれていく。
<創造の月>と<破滅の太陽>めがけて。
『適合せぬ、世界の異物よ。汝の言う通り、神々には世界の歯車が埋め込まれている。そして、それが心を殺すのだ。今度こそ、彼女たちは不要な異物を取り除き、真の神となるだろう。この世界の秩序に』
銀の月明かりと闇の日光が、描いた魔法陣を照らす。
月と太陽に導かれるように、ミーシャとサーシャはふわりと浮き上がった。
重なり合うサージエルドナーヴェとアーティエルトノアの間に構築されていくのは、二人を拘束する魔法陣。
ミーシャとサーシャはその神体を、魔法陣に繋ぎ止められる。
月と太陽、二つの魔法陣。その四つの円が、あたかも歯車のように噛み合っていた。
創造神と破壊神の魔力が送られ、秩序の歯車は回る。
月と太陽が更に重なり、<終滅の日蝕>がみるみる加速していく――
『思い出すのだ。破壊の日々を。その神眼に映るものすべてを滅ぼしたのは汝だ、破壊神アベルニユー。再び、その力を使うときがきた』
「……ふざけないで……そんなことさせると思ってるのっ……!」
サーシャが言った。
『思い出すのだ。創造の瞬間を。その力にて、この結末を生み出したのは汝だ、創造神ミリティア。その神眼は、失われゆくものをただ見つめるのみ』
「……違う……」
ミーシャが言った。
『私は名もなき存在。なぜならば、唯一にして絶対のこの世界の意思であるからだ』
「ふむ。世界だかなんだか知らぬがな、エクエス」
暗雲を切り裂き、降り注ぐ光へと俺は魔眼を向けた。
「たかが歯車一つで、配下の心を俺から奪えると思っているのか?」
神々の力を集約した、凄まじい力がそこに渦巻いている。
エクエスは確かに、この光の奥にいる。
本来は目に見えぬ歯車だが、それが集合していることで、朧気な輪郭を持っているはずだ。
俺はじっと光の深淵を覗き込み、奴の本体を探っていく。
「俺を釣り出すのが目的だとすれば、アテが外れたな。足を引っぱる者を、連れてきた覚えはないぞ」
ミーシャとサーシャに気を回せば、逃げられるやもしれぬ。
ゆえに俺は二人を助けず、その深淵をただひたすら凝視する。
『愛と優しさがあれば、奇跡が起きると思っているのか?』
問い返すように、エクエスは言う。
『ならば、再び思い出すがいい。秩序という名の無機質な絶望を。人間が願おうが、魔族が嘆こうが、竜人が怒ろうが、世界の意思は変わらない。善人も悪人も、等しく結末は同じこと』
ミーシャとサーシャを拘束する歯車の魔法陣に光が集う。
<創造の月>と<破滅の太陽>が、更に重なっていく。
『滅ぼせ。創造神ミリティア、破壊神アベルニユー。汝らが愛した世界を、汝らのその手で。心など、それで脆くも崩れ落ちる』
「……ふざけないで……! 止めてみせるわ。こんな馬鹿げたこと……!」
ミーシャとサーシャがぐっと歯を食いしばり、自らの神体を動かそうとする。
その強制力に抵抗してはいるものの、少しずつ少しずつ、日蝕は加速していく。
「……地上は撃たせない……」
『願いなど叶いはしない。想いなど届きはしない。歯車から異物は取り除かれ、世界は正しく回るのみ』
ノイズ交じりの声が、神界中に響き渡った。
「二度と……」
サーシャが呟く。
「……あんな想いは、二度とごめんだわっ!」
魔法陣に拘束されながら、サーシャは隣合うミーシャにゆっくりと手を伸ばす。
「……世界は優しくなんかない……」
ミーシャが言った。
「そう思ってた。悲しい世界を、わたしは創ってしまったって。だけど」
ミーシャがサーシャに手を伸ばす。
「そうじゃない」
「こんな、ちっぽけな歯車なんかに、わたしたちの心は操られはしないっ!」
『それは正しく、そして間違っている。心など操る必要はない。ただ一つ、小さな穴を穿つのみだ。ただ一つのちっぽけな異物を取り除き、穴を埋める矮小な歯車が、やがて大きな絶望を回し始める』
魔法陣から刃が突き出され、彼女たちの胸を突き刺した。
小さな光の歯車が、彼女たちの心臓に姿を現す。
「……ぁっ……はぁ……」
「……これ、ぐらいで……」
刃に体を縫い止められながらも、ミーシャとサーシャは手を伸ばした。
そのとき――
『言ったはずだ』
魔法陣の歯車が光り輝き、秩序を実行する。
<破滅の太陽>と<創造の月>が、完全に重なり合った。
『世界は優しくもなく、笑ってなどいない』
<終滅の日蝕>が巻き起こる。
闇よりもなお暗き暗黒が、そこに凝縮されていた。
『回れ。回れ。世界よ』
禍々しい光。
<破滅の太陽>が放つ黒陽よりも、恐ろしき暗黒が瞬こうとしたそのとき、そこに純白の光が煌めいた。
『回れ』
一瞬の沈黙。
閃光が走り、<破滅の太陽>と<創造の月>が僅かに離れた。
日蝕が、ほんの少し、巻き戻ったのだ。
「……今……の……?」
目を丸くして、サーシャがそこを見つめた。
<破滅の太陽>には、小さな傷がつけられている。
「<天牙刃断>……?」
神々しいほど輝く白刃。
<終滅の日蝕>を妨げたのは、伝説の勇者の聖剣、エヴァンスマナの一振りだった。
破滅を切り裂く勇者の一刀――