アゼシオンの混乱
「あのっ……!」
咄嗟のことで驚いていたエンネスオーネが、エレンの腕の中で声を上げた。
「エンネスオーネは、魔王アノスの味方だよっ。あの空の日蝕のことを伝えに来たのっ」
「えと、日蝕って……?」
エレンが、空を見上げる。
太陽が僅かに欠けているだけでは、まだ日蝕かどうかの判別が難しいのだろう。
「……あれって、あれだよね? 確か、<破滅の太陽>とかいう、ほら、前にアヴォス・ディルヘヴィアにミッドヘイズが占領されたときにも見た」
ジェシカが言う。
「うんっ、そうなのっ。破壊神と創造神の力を宿したデルゾゲードとエーベラストアンゼッタが神族に奪われて、魔王アノスは今、それを取り返すために神々の蒼穹にいるんだよ。あの<破滅の太陽>が完全に欠けて、皆既日蝕になったら、地上を滅ぼすぐらいの大魔法が放たれるからっ」
ピンと頭の翼を伸ばし、真剣な顔でエンネスオーネは言う。
「それを今、魔王アノスが止めようとしてるの。アゼシオンにはどうにもならないから、神の軍勢への対処だけを考えて。それから、エンネスオーネは地上と神界をつなぐ連絡路だから、守って欲しいの」
ファンユニオンの少女たちは、顔を見合わせる。
「アノス様とは話せないの?」
エレンが訊いた。
「ここから神界は遠すぎるから、今はエンネスオーネが口づてに伝えるしかないよ。<魔王軍>の魔法を使える人がいたら、エンネスオーネと魔法線をつないで、エレオノールと話せると思う」
「<魔王軍>の魔法はあたしたちじゃ……。エミリア先生を呼んでこなきゃ……」
ノノが言う。
「とりあえず、この子を連れて本陣まで後退しようよっ。ここにいたら、いつ敵が来るか――」
言いかけて、マイアは口を噤む。
前方に神の軍勢の影が見えたのだ。五体……一〇体……一五体と次から次へと神の兵たちがやってくる。合計で一〇〇体ほどの部隊だろう。
<攻囲秩序法陣>を使ってくる奴らを相手にしては、魔王聖歌隊だけでは太刀打できぬ。
「行こう。早く逃げなきゃ」
「だ、だめなのっ。それは、できないんだよっ」
エンネスオーネが言うと、エレンは戸惑ったような表情を浮かべた。
「できないって、どういうこと? ここにいたら、神族の兵士にやられちゃうよ?」
「エンネスオーネは、神界にいるエレオノールから神の扉を経由して、魔法線でつながってるから……」
エンネスオーネは自らのへそから伸びる魔法線を見せる。
それを魔眼で辿ってみれば、空間が歪んだ箇所、神の扉に続いている。
「……神の扉って、この魔法線が途切れてるところにあるの?」
エレンたちの魔眼では、まだまだ神の扉を認識することができない。
<狂愛域>は攻防ともに強力だが、魔眼を強化するわけではないのだ。
「これ以上、魔法線は延ばせないから、エンネスオーネは動けないんだ。だから、ここに<魔王軍>を使える人を連れてきて欲しいのっ」
ファンユニオンの少女たちは困ったような表情を浮かべる。
そうしている間にも、神の軍勢は目前まで迫ってきていた。
『魔王聖歌隊、応答してください。魔王聖歌隊。状況を報告してください』
<思念通信>が届いた。
エンネスオーネが見たその魔力は、エミリアのものだ。
「エミリア先生。敵陣でエンネスオーネという女の子を発見しました。アノス様の使いだと言っています」
エレンがたった今エンネスオーネから確認した情報を、エミリアに報告していく。
すると、彼女は言った。
『――わかりました。魔法線を切ってエンネスオーネを本隊まで連れてくるか、無理ならそこに放置してください』
「え……でも、アノス様との連絡路だって……」
『そうかもしれませんが、怪しすぎます。敵陣に突如出現したのでしたら、敵の罠かもしれません。<魔王軍>を使える術者を誘い出すのが目的の可能性もあります』
ふむ。まあ、そう考えるのが道理か。
戦場だ。馬鹿正直に得体の知れない者を信じては、痛い目にあうだろう。
とはいえ、困ったものだ。
「……でも、この子は、嘘を言っていないと思います……」
エレンが言った。
『確証はないでしょう?』
「ありますっ!」
即答し、彼女は続けた。
「だって、この子、アノス様の匂いがするからっ!」
一瞬、エミリアは絶句する。
『……匂い……ですか……?』
エレンがエンネスオーネの体に顔を埋め、くんくんと嗅ぐ。
「えっ、あの……ええぇっ?」
エンネスオーネが戸惑ったような声を上げる。
無理もない話だ。
なにせ、幼い少女を取り囲み、ファンユニオンたちは皆、鼻を近づけている。
「ほんとに、エレン? あたしには全然……」
「あ、あの……え、あの……?」
エンネスオーネは困ったようにきゅうと頭の翼を縮ませる。
「ああぁっ……! こ、この気高くも崇高で、鼻を蹂躙する暴虐な香りはっ……!?」
「ねっ、するよねっ?」
「うんうんっ、するするっ、圧倒的アノス様臭っ!」
「アノス様臭とかっ、言い方っ! 残り香っ、残り香だからっ」
「最近公務が続いて嗅いでなかったから、すぐわかったよね」
「この子、絶対、ちょっと前までアノス様と一緒にいたよ」
恐るべきは、ファンユニオンの嗅覚といったところか。
「アノス様と会って、それでここにいるんなら、味方だよっ。だって、あたしたちを陥れようとしている敵なら、アノス様が見逃すはずがないっ。エンネスオーネはここに来られないはずだから」
少女たちはうなずき合い、覚悟を決めた表情で棒を構える。
「エミリア先生。あたしたちは、ここを動きません」
「きっと、アノス様があたしたちのために送り届けてくれた子だから」
「守らなきゃいけないんだと思います」
粘つく黒い光が、八人を覆う。
彼女たちの思いに呼応するが如く、<狂愛域>が、狂ったように猛っていた。
だが、それだけではない。
彼女たちは心を蓄えるとばかりに、再びエンネスオーネに顔を埋め、すーっと深呼吸をした。
「……あぅぅ……」
蚊が鳴くようなエンネスオーネの声が響く。
すると、黒い光が更に粘性を帯び、まるで泥のように粘ついた。
「間接抱擁で――」
「「「――なんちゃって、ジオグレェェェッッッ!」」」
突き出された八本の棒。
そこから放出された粘つく黒き光が太陽を模して、迫りくる神の軍勢に撃ち放たれた。
しかし、それが奴らの結界に侵入した瞬間、石へと変わる。間合いの遠い魔法砲撃は、すべて術兵神の魔法に阻まれ、ダメージを与えることができない。
かといって接近すれば、<攻囲秩序法陣>の餌食だ。神族の弱点である<狂愛域>とて、人数に優る軍勢には一歩及ばぬだろう。
「負けるもんかっ!」
「時間さえ稼げれば――」
「守りきるんだっ!」
<狂愛域>の太陽を連続で撃ち放ち、ファンユニオンの少女たちは足止めに徹する。
魔法砲撃を石に変えられるとはいえ、無条件ではない。結界を維持している術兵神を倒せば、形勢は一気に逆転するだろう。
神の軍勢は強引に突破するようなことはせず、慎重に<狂愛域>を無効化しながら、石を破壊し、少しずつ、少しずつ、距離を詰めてくる。
次第に奴らは、少女たちを包囲するように陣形を広げ始めた。
「……このままじゃ……」
退路が断たれる。
同時にそれは、<攻囲秩序法陣>の完成を意味する。
「だけど、ここを動くわけにはいかないよっ……!」
包囲の陣形魔法陣が構築されれば、奴らは数の利を十二分に生かし、あっという間にファンユニオンを殲滅するだろう。
諦めず魔法砲撃を続ける少女たち。
そのとき、神の軍勢の速度が増し、砲撃を一気にくぐり抜けた。
「エレンッ! 先頭の神族をっ! 包囲されたら終わりだよっ!」
「わかってるけど……速くてっ……!!」
神の軍勢が高速で駆け抜けていき、<攻囲秩序法陣>を発動させようとしたそのときだった。
先陣を切っていた剣兵神たちが、次々と炎上した。
<聖爆結界滅>。
<聖域>を利用した魔法結界だ。地中に隠蔽された結界内に入った敵は、聖なる爆炎に包まれる。
「必ず包囲陣形を取るなんて、罠に引っかかりたいと言ってるようなものです」
エレンたちがやってきた方角から姿を現したのは、エミリア率いるアゼシオン軍の本隊であった。
「魔法砲撃発射。敵を<聖爆結界滅>のポイントに誘導し、撃破します。地力ではあちらが優りますが、<攻囲秩序法陣>を発動させれば、数の勝負。人数で一気に押し潰しますよっ!」
「「「了解っ!」」」
アゼシオン軍は約八〇〇名。
まともにやればとても神には敵わぬが、<聖爆結界滅>を上手く使い、エミリアは奴らを爆炎の罠にはめていく。
包囲せずに襲って来れば、魔王聖歌隊の<狂愛域>に対抗する術はなく、包囲して<攻囲秩序法陣>を発動すれば、数に優るアゼシオン軍を逆に有利にしてしまう。
危機に陥った人間たちは思いを一つにし、<聖域>の力をより高めていた。
だが、それでも、一〇〇体ほどの神の軍勢とはかろうじて拮抗する程度。
それも、不意を突いた一時のみだ。あっという間に彼らは押し返されていた。
「エレンさんっ!」
<飛行>にて、エミリアはファンユニオンたちに合流する。
「本当にもう、仕方のない生徒たちですね」
彼女はエレンが抱いたエンネスオーネに視線を合わす。
「彼女に<魔王軍>を使えばいいんですね?」
「……そうですけど、でも、エミリア先生は神族の罠かもしれないって、さっき……?」
エレンが言う。
「仕方ないでしょう。あなたたちを見捨てていくわけにもいきません。罠か罠じゃないか、確かめてみればはっきりします。わたしになにかあったら、すぐに拘束してください」
そう言って、エミリアはエンネスオーネに<魔王軍>を使い、魔法線を彼女とつないだ。
『わーお、エミリア先生、格好いいぞっ』
「……この声と、魔力…………エレオノールさん……?」
魔法線がつながったことにより、<思念通信>にてエレオノールの声が届くようになったのだ。
『ということで、エンネちゃんの言ったことは本当だぞっ。ボクたちは今、神界であの日蝕の元凶を探してるから、なんとかこの連絡路を死守してくれるかな?』
エミリアが険しい表情を浮かべる。
「……罠の方がまだ助かったんですが……今交戦中の神の軍勢は一〇〇名足らずですが、敵本隊は確認できているだけでも、五〇〇〇はいます。その兵が一割でもこっちに来れば、勝ち目はありません……」
『んー、そこをなんとか、エミリア先生の知恵でできないかな? レイ君たちもそっちにいるでしょ?』
「彼は今、ガイラディーテ南方に出現した神の扉にて交戦中です。戦力が足りないものは、どうしようもありません」
エミリアは厳しい面持ちで考え込む。
そうして、今度は別の場所へ<思念通信>を飛ばす。
ガイラディーテだ。
「勇議会、応答願います。エミリアです」
すぐに通信はつながった。
『勇議会会長、ロイドだ。撤退は完了したか?』
「いいえ。魔王アノスが、神界への連絡路を構築しました。あの太陽はやはり神族の仕業の様子。この危機を脱するためには、敵陣にて連絡路を築くエンネスオーネという少女を守らなければなりません。聖明湖の使用許可と、勇者学院の出陣を要請します」
『……どういうことかね?』
『説明してくれたまえ、エミリア君』
要領を得ない勇議会の議員たちの声に、エミリアはため息をつく。
そうして、可能な限り速やかに事情を説明した。
それを受け、会長のロイドは言う。
『……話はわかった。だが、戦力を融通できるのは、残り三個中隊が限界だ。勇者学院と聖明湖は、あの空に描かれている太陽の魔法術式を封殺せなばならない。今、動かすわけには……』
『あー、そんなのなんの意味もないぞ。君たちにどうにかできる魔法じゃないから』
エレオノールが会話に入ると、ロイドは訝しげに言った。
『……君は……誰かね?』
『魔王様の配下だぞっ。<破滅の太陽>サージエルドナーヴェは、二千年前の魔族だって滅ぼした力なんだ。あの空域には君たちじゃ近づくこともできないぞ。その上、今回はそのときよりももっと強力な日蝕だから』
『しかし……魔法が発動する前の今は、なんの魔力も感じない……急げば、止めることができるはずだ……』
ロイドの判断は、決して間違っているものではない。
あまりにも莫大するサージエルドナーヴェの魔力を、微かにさえ感じることができないということを除けば。
この時代の魔族が、転生した俺の魔力を感じとれなかったのと同じが現象が、今、<破滅の太陽>と勇議会の間で起きていた。
『魔王が止めるというのなら、話はわかるが、それならばこちらに姿を見せるのが筋というものだろう』
『確かに、口だけで動いたところも見せぬのではな。ディルヘイドとは友好を築きたいと思っているが、一方的に要求を飲むばかりというのでは面子に関わる』
『しかし、あの魔王の言うことだ。一考の価値はあるのでは?』
『それはそうだが、我々とて、まったくの考えなしというわけではないのだ。こちらが要請していないのに、しゃしゃり出てくるのはいかがなものか』
『言葉が過ぎるのでは? 彼のこれまでの尽力を忘れたわけではあるまい?』
『とはいえ、だ。そもそも、こちらは神の軍勢の対処に精一杯なのだ。援軍をくれるというのならともかく、一方的に戦力を割けと言われても……』
『魔王の言葉がなければ、とうに撤退は完了していた。悪戯に被害が増えているだけなのでは?』
『なんであれ、正式な書面で打診をいただきたいものだ』
議員たちの声が次々と上がった。
『諸君。余裕がないのはわかるが、落ちつこう。ディルヘイドの魔王はこれまで我々に多くのものをもたらしてくれた。勇議会が決起できたのも、元を正せばアノス・ヴォルディゴードのおかげだ。無碍にするわけにはいかんだろう』
ロイドがそう言うと、不承不承ながら議員たちは引き下がった。
とはいえ、ぼやく声は止まらぬようだが。
「……こっちは戦場にいるんですよ……」
勇議会へは聞こえぬように、エミリアが呟く。
どうやら未だ勇議会は揉めているようだな。
有事の際の意思決定の方法がまとまらぬまま、この事態では無理もないと言えば無理もないが、そろそろ腹を決めて欲しいものだ。
『……すまない。エミリア学院長、こちらも手一杯なのだ……』
エミリアにだけ聞こえる秘匿通信でロイドが言う。
「謝られたからって、どうしようもありません。せめて、この件だけでもわたしに全権を任せてください。レイ君……勇者カノンでも構いません」
『それは……しかし……』
「手をこまねいていたら、アゼシオンの民が死ぬだけですよ」
沈黙が続く。
一時的とはいえ、魔族に実権は譲れぬといったところか。
平和なことに、彼らはこの件が落着した後のことを考えているのだろう。
そんなものは、あるかどうかもわからぬというに。
今こうしている間にも、人間の兵は神の刃に貫かれている。
『あー、もうわかったぞ。だったら、エンネちゃんを守るメリットがあることを見せてあげるから』
エレオノールが声を上げ、それと同時にエンネスオーネが翼を伸ばした。
目映い光に包まれ、そこから羽と魔法文字が舞い落ちる。
いくつもの聖水球が構築され、その中へ淡い光を放ちながら羽が入っていく。
みるみる内に、それらは少女の姿を象り始めた。
生まれたのは、二〇〇体の<疑似紀律人形>である。
「え……これは……? ゼシアさん……?」
エミリアが呆然と<疑似紀律人形>に視線を注ぐ。
その外見と魔力の強大さに、驚いているのだろう。
『やっちゃえ』
二〇〇体の魔法人形は、飛ぶような速度でアゼシオン軍に合流すると、聖水の剣を抜き放ち、一斉に神の軍勢へと突撃した――
限界以上の疑似根源を使うエレオノール……