ホロ
奇妙な感覚だった。
ずいぶんと長い距離を沈んだように思える。
にもかかわらず、時間にすればそれは一瞬にも満たない。
俺の全身は炎に包まれており、周囲は火の粉が舞う真っ白な砂漠だった。
深層森羅から枯焉砂漠へ移動したのだ。
「ふむ」
軽く手を振って、炎を払い、俺は砂丘の頂上に視線を向けた。
陽炎が立ち上り、蜃気楼がそこに見える。
砂漠のオアシスとばかりに、木々と池、すなわち深層森羅がおぼろげに存在していた。
「いかがしたか、魔王アノス」
深化神ディルフレッドが、背中から声をかけてきた。
「なに、少々、境界が気になったにすぎぬ」
振り返り、先へ進もうとすると、ディルフレッドはぬっと目の前に顔を出し、俺に正対した。
「深層森羅と枯焉砂漠の境か?」
生真面目な口調で深化神は問う。
「他愛もない疑問だ。あの蜃気楼の向こう側、そしてあちらの水鏡の向こう側、どこからが深層森羅でどこからが枯焉砂漠なのか。それとも――」
「深層森羅と枯焉砂漠が重なり合う場所が存在するのか?」
ふっと笑い、俺は言った。
「そういうことだ」
「貴君の疑問は、興趣が尽きない」
ディルフレッドは、その神眼にてオアシスの蜃気楼を見つめる。
「だが、深淵を覗くこの<深奥の神眼>にも、見えぬものはある。とりわけ、終焉に至っては私の神眼が届かぬもの」
手を組みながら、深化神は言った。
「思考が深淵へ沈むのを妨げることはできないが、考える一方ではそうそう底には到達しない」
思わず、俺は笑った。
「なにが可笑しいか、魔王アノス」
「火露が減り、秩序が乱れているというに、ずいぶんと楽しそうな顔をすると思ってな。心ない神と思っていたが、なかなかどうして、お前は好奇心が旺盛なようだ」
「否。私は深化を司る秩序。よって、物事の深淵を未知から既知へ変える習性があるだけのこと。好奇心に見えるのは、貴君が心を持つゆえだ」
生真面目な口調で、ディルフレッドはきっぱりと否定した。
まあ、どちらでも構わぬがな。
「それで? 深層森羅と枯焉砂漠の境界は、お前の考えではどうなっている?」
「狭間だ。そう、恐らくは……深層森羅でも枯焉砂漠でもない境が、この蜃気楼の向こう側にある。それが火露の橋渡しをしているのだ」
ディルフレッドは、右手の指で左手の甲を叩く。
「その短い狭間こそが、滅びへ近づく根源が、深化へ舞い戻る僅かな猶予。貴君たちの言葉で言えば、灯滅せんとして光を増し、その光を持ちて灯滅を克す」
「ふむ。面白い」
これまでのディルフレッドの説明からもわかる通り、樹理廻庭園ダ・ク・カダーテは、根源の基本原則を具象化した神域だ。
もしも、ここにデルゾゲードやエーベラストアンゼッタが隠されているのなら、それは秩序に従ってのことだろう。
闇雲に探さずとも、知恵を巡らせれば、自ずと隠し場所は絞り込まれる。
「――ところで、まずはなにをするのだ? 手っとり早く、終焉神を縛り上げればいいのか」
「否。交戦には消極的だ。異変の原因を探索する」
そう言うと、ディルフレッドは<飛行>にて僅かに浮かび上がり、まっすぐ砂丘を下りていく。すぐにその後を追った。
「ほう。この神域にも集落があるのだな。終焉に近しい神がいるのか?」
そう問いかけたが、ディルフレッドは答えなかった。
彼はまるで思考の底へ沈み込んだように、ただじっと頭を動かしている。
「どうした?」
「……集落と言ったか?」
「そこに見えている蜃気楼のことだ。ただの幻か?」
砂丘のふもとにある蜃気楼の集落に俺は視線を向けた。
深化神は、同じ方向を振り向く。
深藍に輝くその<深奥の神眼>が、確かに集落を見据えた。
「私には目視できない」
「なるほど」
終焉は深化を克す。終焉神がその秩序をもって隠匿しているのならば、ディルフレッドに見破るのは困難ということだろう。
ましてや、この枯焉砂漠ではな。
「見せてやろう」
自らの指先を切り、ディルフレッドの神眼を軽く撫でる。
俺の魔力が込められた血が薄く彼の網膜に張りついた。
それを通せば、深化神の神眼にも終焉が鮮明に映るだろう。
彼は集落を目視した途端、険しい表情を浮かべた。
「……すべてが終わりを迎える終焉の砂上に神域を構えることができるような神は、破壊神アベルニユーぐらいのものだ。ここには番神さえもよりつかない……」
「ふむ。この砂漠にはアナヘムの他には誰も住んでいないというわけか」
「然り。そのはずなのだ」
言葉を交わしながら、俺たちは蜃気楼の集落へ近づいていく。
間近に迫れば、蜃気楼は消えるどころか、よりその領域を広げた。
簡素なテントの他、土や粘土を固めて建てた家もある。
アナヘムの他に誰も住むはずのない神域に、なぜ、このようなものがあるのか?
枯焉砂漠が、終焉の秩序を具象化しているのならば、生活のための集落はなんとも不釣り合いに思える。
「お前のいう異物の正体やもしれぬな」
「然り」
ゆらゆらと揺れる蜃気楼の中に、俺たちは足を踏み入れた。
普通の蜃気楼とは違い、集落は消えない。それどころか、半実体化した。
砂丘の頂上にあった深層森羅へつながる道と似ており、魔法や神の秩序のような力を有している。
視線を巡らせながら、その砂漠の集落を歩く。
目の前に、大きな石造りの建造物が見えてきた。
建物のように巨大ではあるものの、その外観は井戸だ。
きゃっ、きゃ、と子供の笑い声が聞こえてくる。
ディルフレッドは信じられないと言わんばかりに視線を険しくした。
俺たちは巨大な井戸の縁に乗る。
そこから中を見下ろせば、三〇メートルほど下がったところに水が見え、石造りの足場の上で、子供たちが遊んでいた。
皆、古びた布きれを身に纏っている。
「……まさか……この神々の蒼穹……それも、枯焉砂漠に……」
深化神は息を飲む。
そうして、その深藍の神眼を子供たちへ向けた。
だが、どれだけ深く深淵を覗こうとも同じである。
彼らは、神族ではないのだ。
「ふむ。人間の子供か」
「……自然には発生しない……」
神々の蒼穹は、神族たちの国。秩序のみで成り立つ世界だ。人間が生まれる道理など、どこにもないだろう。
「お前たち、誰だ?」
振り向けば、ボロ布を纏った少年がそこにいた。
歳の頃は、十歳前後といったところか。生意気そうな視線をこちらに向けている。
蜃気楼の集落とは違い、完全に実体のようだ。
「なに、少々旅をしている者だ。この枯焉砂漠に集落があるのは珍しいと思ってな」
「そうか。すごいだろ」
自慢げに少年は胸を張る。
さほど俺たちを不審に思っているようにも見えぬな。
「俺はアノス。こいつはディルフレッドだ。お前の名は?」
「オレはヴェイド。ホロたちの長老なんだ。偉いんだぞ」
「……ホロ……?」
訝しげにディルフレッドが眉根を寄せる。
「知らないのか? ホロっていうのは、この集落の子供たちのことだ。オレが名づけたんだ」
外に知れ渡っているわけでもなし、仲間内での呼び名など知るわけもないが、しかしホロか。
偶然にしては、出来すぎているな。
「ヴェイドと言ったか。長老にしては若いようだが?」
「なんだよ、知らないのか? 一番歳をとってれば長老なんだぜ」
ふむ。つまり、ヴェイドが最年長ということか。
ますます不可解なことだな。
「お前たちホロは、どうやって生まれた?」
「ホロは井戸の奥から生まれるんだ。水に浮かび上がってくるんだぜ。すげえだろ」
ディルフレッドが井戸に視線をやる。
その奥になにかあると見て間違いあるまい。
「言葉はどうやって覚えた?」
「言葉? そんなの最初から話せるぜ?」
魔力の波長は人間のそれと酷似しているが、しかし、どうやら普通の人間とは違うようだな。
あるいはこれが火露の流量が減った原因なのかもしれぬ。
ダ・ク・カダーテを循環するはずのそれが、なんらかの理由でここでホロという生命に変わっているとすれば、辻褄は合う。
ディルフレッドに目配せすれば、彼は同意を示すようにうなずいた。
「少年。井戸の奥を拝見したい」
深化神がそう言った瞬間、熱い風が頬をヌルッと撫でた。
白い砂塵が舞い上がり、集落を砂嵐が襲い始める。
「やっべえっ! アナヘムが来るよっ!」
ヴェイドは一目散に逃げ出し、井戸の中へと入っていく。
そうかと思えば、ひょっこりと顔を出した。
「おいっ。あんたらも来いよ。特別に入れてやるよっ」
それだけ言うと、そそくさとヴェイドは、井戸の奥へ退散していく。
俺はディルフレッドに言った。
「お前は井戸の奥へ行き、ホロの子供たちがどう生まれるのか、調べて来るがよい。このタイミングだ。終焉神にとって知られたくないものが見つかるやもしれぬ」
「相対するなら、用心することだ。終焉神は、終わりを知らない、不滅の神。枯焉砂漠では、時間を稼ぐことすら容易ではない」
ディルフレッドの言葉を背中で聞きながら、俺はゆるりと歩いていく。
「言われなくとも、重々気をつけるつもりだぞ。不滅を真に受け、うっかり滅ぼしてしまわぬようにな」
そろそろ、ひと暴れしてもいい頃だ――




