神域を統べる者
翠緑の風は速度を増す。
それに乗ったエレオノールたちは樹冠天球の中心から、みるみる遠ざかっていく。
それに伴い、ゼシアの首を、巻きついた神の布がきゅっと締めつける。
終焉神アナヘムは、布の先にぶら下がりながらも、それをぐっとたぐり寄せた。
火露の風に乗ろうとしているのだろう。
奴の体が近づき、ゼシアの首が更に締めつけられた。
「……ぅ……ぁ……!」
「ゼシアお姉ちゃんっ……! すぐ助けるよっ……!」
エンネスオーネは翼の角度を変え、帆船さながら、風から受ける力の方向を巧みに操り移動する。
そうして、ターバンの布に両手を伸ばした。
「いけませんっ」
咄嗟に彼女の体をウェンゼルが抱き、それを止める。
「アナヘムの狙いは、あなたです、エンネスオーネ。迂闊に触れれば、布をほどき、今度はあなたを縛るかもしれません」
「でも……お姉ちゃんがっ……!」
心配そうに、エンネスオーネがゼシアを見る。
首を絞められ、まともに声を発せない中、ゼシアは彼女にVサインをしてみせた。
「……だい……じょ……で……す……」
「偉いぞ、ゼシアッ」
エレオノールが布をつかみ、アナヘムを僅かに引っぱるようにして、ゼシアの首にかかる力を軽減させる。
「<根源応援魔法球>ッ!」
エレオノールを中心に魔法陣が描かれ、そこから、ぽこぽこと赤、青、緑の魔法球が浮かび上がる。
「ウェンゼル、ゼシアッ。赤の魔法球を取って。六〇秒間、力を引き出すぞっ!」
すぐさま、ウェンゼルとゼシアは赤の魔法球に触れる。
二人がそれを吸収した途端、赤い魔力の粒子が全身から溢れ出した。
「狙うぞっ!」
<聖域>の光が、エレオノールの指先に集中する。
「ゼシア。わたくしにその光の聖剣を」
ウェンゼルが言う。
すぐさま、ゼシアはエンハーレを分裂させ、一本を彼女に渡した。
「<複製魔法鏡>」
振りかぶられた二本の光の聖剣が、<複製魔法鏡>の合わせ鏡で増幅される。
狙いは、アナヘムの白い布。
終焉神本体を滅ぼすことができずとも、それさえ断ち切ってやれば、奴の体は樹冠天球の空に投げ出される。
飛ぶことのできないこの神域では、枝に当たるまで落ち続けるしかないだろう。
「いっくぞぉぉぉっ!! <聖域熾光砲>ッ!!!」
エレオノールから光の砲弾が放たれ、それは<複製魔法鏡>の合わせ鏡で更に増幅される。
それと同時にウェンゼルとゼシアは、エンハーレを振り下ろした。
三つの光が一点で交わり、けたたましい音とともに大爆発を起こす。
<根源応援魔法球>で限界まで底上げされたウェンゼルとゼシアの魔力。
更にそれを<複製魔法鏡>で増幅させ、エレオノールの<聖域熾光砲>まで加わっている。
三人が今この場で繰り出すことができる、最善にして最大の攻撃だった。
しかし――
「……嘘っ…………」
エレオノールが驚愕の声を発した。
布は切れていない。
全力を込めた三人の攻撃を集中させてなお、彼の持つターバンの布さえ、傷つけることができないのだ。
「驚くに非ず。このアナへムは、終焉の根源を持つ唯一の神」
ぐっとアナヘムは布を引っぱり、たぐり寄せる。
「……ぅ……」
再びゼシアの首が絞められ、エレオノールは咄嗟に手に力を入れた。
「ふあッ!」
更に強く、終焉神は布を引いた。
異常なまでの膂力を前に、エレオノールとゼシアの体が翠緑の風を逆行する。
「ぬあぁっ!!」
次の瞬間、二人は引っこ抜かれるように、風の向かう場所とはまったく別の方向へ身を投げ出された。
その反動を利用し、入れ替わるようにアナヘムが翠緑の風に飛び移る。
鋭い眼光が、エンネスオーネへ向けられた。
「終わりだ」
奴は右手に魔力を込める。
一撃でエンネスオーネの首を落とせるであろうその手刀が、容赦なく振り下ろされた――
「……ぁ…………!」
エンネスオーネの声が漏れた。
ピタピタと赤い血が、彼女の顔を濡らす。
その目は丸く、驚愕を表していた。
宙を舞っていたのは、終焉神アナヘムの手首である。
「お話はまたの機会に、と申しました」
またしても立ちはだかったのは、生誕神ウェンゼル。
彼女が手にした紺碧の盾が、終焉神の手首を落としたのだ。
生誕命盾アヴロヘリアン。
並々ならぬ魔力を秘めたその生命の盾が、先程以上に神々しく光輝いていた。
まるで真価を発揮したと言わんばかりに。
「それとも、ここでわたくしとやり合うおつもりでしょうか?」
翠緑の風が吹き荒び、アナヘムだけを振り落とす。
みるみる下降する彼は、<飛行>にて体勢を立て直し、目の前に鋭い視線を向けた。
そこへゆっくりとウェンゼルが下りてくる。
彼女の背後には、巨大な大樹の幹があり、眼下には一面の大海原があった。
大樹は大地ではなく、海に生えている。その根は幾重にも分かれ、海底にまで達していた。
「この大樹母海で」
どうにか逃げ切ることができる、と彼女は言った。
元々、ここへ辿り着くのが狙いだったのだろう。
樹冠天球に吹く火露の風は、やがて大樹母海へやってきて雨へ変わる。
それを利用し、ウェンゼルは自らの神域にアナヘムを誘い込んだのだ。
「どこであろうとこのアナヘムは、言葉を曲げん。火露を、返せ」
短く言い、終焉神アナヘムは頭上に視線を向ける。
翠緑の風に包まれているエンネスオーネめがけ、彼は一直線に飛んだ。
「母なる海は、あなたを優しく包み込み、穏やかな眠りを与えるでしょう」
海面が噴水のように盛り上がり、ぬっと現れた巨大な水の手がアナヘムの神体を包み込む。
奴がそれを切断しようとするも、手刀は水をかくのみだ。瞬く間に、体を海の水が覆っていき、彼は水球に閉じ込められた。
「大樹母海の水はすべて、わたくしの手足同然ですよ。終焉神。さあ、眠りなさい」
アナヘムを閉じ込めた水球はそのまま、海中へ沈んでいく。
大樹の根が生き物ように蠢き、みるみる奴に絡みつく。終焉神がそこから出ようと魔力を込めるも、根も水も、びくともしない。
ウェンゼルは大樹母海を統べる神。神域のすべてが味方する以上、いかに終焉を司る神とて、容易く倒せはしまい。
アナヘムは言った。
「<根源光滅爆>」
光が神体に集中し、爆発的に広がった。
暴力的な音が耳を劈き、大樹母海が震撼する。
しかし、それでも、生命を育むウェンゼルの神域は頑強であった。
アナヘムの根源爆発をまともに受けた大樹と根はボロボロになっていたが、海の水が紺碧の光を放つと、みるみるそれらは再生していく。
そうして、あっという間に、元の姿を取り戻した。
「……わーお……神族が<根源光滅爆>なんて、びっくりだぞ……」
エンネスオーネを連れて、ゼシアとエレオノールが、生誕神のそばへ飛んでくる。
その視線は、アナヘムがいた方向へ向いている。
そこにはもう誰もおらず、奴は完全に消滅した。
「あの神様滅んじゃったけど、秩序、大丈夫なのかな?」
エレオノールが人差し指を立てて、のほほんと訊いた。
「滅んだ神の根源は、終焉に至る場所へと辿り着きます。それはこの樹理廻庭園ダ・ク・カダーテの枯焉砂漠。すなわち、終焉神が支配する神域です。普通の神ならばそこで完全に終焉を迎えますが、終焉神の秩序は終わることなく、再び彼の神体と根源は再生されるでしょう」
「ズル……ですか……?」
ゼシアが言うと、ウェンゼルはにっこりと笑顔で受け流す。
「うんうん、滅んでも滅ばないなんて、絶対戦いたくないぞ……そういうのはアノス君に任せなきゃ」
彼女がそう言葉をこぼす。
「この大樹母海にいれば、安全でしょう。樹理四神は、それぞれの神域では絶対なる秩序を誇ります。終焉神と言えども、この生誕の海では十分な力は発揮できず、わたくしに手出しはできません」
「じゃ、ちょっと休憩したいぞ」
くすりと笑い、ウェンゼルは大樹を振り向く。
「あちらに参りましょう」
四人は大樹へ向かい、飛んでいく。
彼女たちの真横を火露の風が追い越していき、上昇気流に乗って、遙か天空へ昇っていった。
翠緑の風は上空で渦を巻き、次々と雲へと変わっていく。
そこから、紺碧の光を放つ雨が降り始めた。
火露が風から、水へと変化しているのだ。
「どうぞ、こちらで。人の住む場所ではありませんから、椅子もありませんが」
「大丈夫だぞっ」
大樹に空いた穴の中で、エレオノールたちは腰を下ろした。
温かい風と優しい光を浴びながら、彼女らはほっと一息つく。
「そういえば、エンネちゃんが火露を盗んだとか、ボクはさっぱり意味がわからないけど、ウェンゼルはわかるのかな?」
「……いいえ。わたくしの知らない間に、ダ・ク・カダーテになにか異変が起きたとしか……」
ウェンゼルが困惑した表情で言う。
深化神ディルフレッドは、火露の流量が減った原因は魔王アノスが有する混沌だと仮説を立てた。
終焉神アナヘムはもっと直接的に、エンネスオーネが盗んだと判断した。
恐らく樹理四神全員にとって不可解な出来事が、今この樹理廻庭園で起きているのだろう。
「そのことも気になりますが、まずはラウゼルを助けなければなりません」
アナヘムをあの花畑の神域から連れ出したため、開花神も無事のはずだ。
とはいえ、放っておけば彼もまた滅ぼされてしまうかもしれない。
「お花の神様……助けてくれました……」
ゼシアが言う。
開花神が花粉を飛ばしてくれたからこそ、火露の風に乗り、このウェンゼルの神域にまでやってくることができたのだ。
「今度はゼシアが……助けます……! 恩返しです……」
彼女は勢いよく立ち上がる。
「エンネスオーネも、手伝うよっ」
「んー、だけど、不思議じゃなあい? どうして神族が神族を殺すんだ?」
「……わかりません……」
エレオノールの疑問に、ウェンゼルはそう答えるしかないようだ。
「淘汰神は……さっきの終焉神ですか……?」
ゼシアが問う。
「可能性はありますが、まだ断定できないでしょう。樹理四神がそのようなことをするとは、あまり考えたくはありませんが……」
ウェンゼルは浮かない表情だった。
「えーっと、淘汰神って名前の神様がいるんだと思ったけど、違うんだ?」
エレオノールが訊くと、ウェンゼルは目を伏せた。
ひとしきり思考した後、彼女は口を開く。
「……神を滅ぼす秩序など、本来は生まれないはずなのです。あらゆる神は、世界の秩序を保つためにあるのですから。開花神や、あの神域にいた神々を滅ぼしても、ただ秩序が乱れるだけでしょう」
「あー、そっかそっか。そういえばそうだぞ。じゃ、淘汰神ロムエヌって、なんなんだ?」
「……正式な神の名ではないはずです。このダ・ク・カダーテにいる神のうち誰かが、淘汰神を名乗り、神を滅ぼしているのでしょう……」
心苦しそうに、ウェンゼルは言った。
「狂ってしまった神が」
「それって、感情を持った神がってことだよね……?」
「信じがたいことですが」
神が神を殺す。
秩序が秩序を滅ぼす。
それは神族にとって、本来ありえぬはずのことだ。
憎悪に狂った堕胎神とて、自らを滅ぼし、生誕神を滅ぼそうとしたのは、秩序に反するエンネスオーネを滅ぼすためだった。つまりは、全体の秩序のためだ。
開花神や他の神をいたずらに滅ぼしても、神族に益はない。
淘汰神とはいったい何者だ?
なにが目的で、神を滅ぼすのか?
「んー、ちょっと頭がこんがらかってきたぞ。とにかく、まず先に開花神を助けにいってから、後はアノス君に考えてもらえばいいかな?」
エレオノールがそう口にしたが、ウェンゼルはじっと考え込んでいる。
「……迂闊には動けません。エンネスオーネが樹冠天球へ赴けば、またアナヘムがやってくる可能性があります。何度も同じ手で逃げ切れるとは限りません」
「でも、このまま放っておいたら、いつ淘汰神がラウゼルを滅ぼしに行くかわからないぞ」
「アナヘムの狙いは、エンネスオーネのみ。エレオノール、ゼシア、あなたたち二人はここで彼女を守ってください。大樹母海には、他の者を縛るように言い聞かせます。たとえ終焉神がやってきても、わたくしが戻るまでの時間は稼げるでしょう」
決意した表情でウェンゼルは言った。
「わたくしは、再び樹冠天球へ赴き、ラウゼルを助けてきます」
誰が淘汰神なのか――